HBD in Liaodong Peninsula

中国と日本のぶらぶら街歩き日記です。2024年5月からは東京から発信します

承徳の忠霊塔跡地

2023-12-04 | 東北を歩く
かつて、河北省承徳に日本の軍部が建設した忠霊塔がありました。

旧満州国には10基の忠霊塔があったとされますが、そのうちの一つです。

訪問してみました。

忠霊塔があった場所は現在、中国の革命烈士記念館となっています。中国の愛国主義教育模範基地です。











承徳の忠霊塔が建てられたのは日中戦争のただ中、1938年です。
熱河省、河北省、チャハル省で戦没した関係者を合祀したそうです。

中国側の記録によると、忠霊塔は1954年に取り壊され、その後革命烈士の記念塔として再建されたとあります。

今の姿を古写真と比較すると、先細りになった四角形で頂上部には帝冠があり、形状はかなり似ています。

現在の方が少しスリムなだけで、一見しただけでは、あれ、当時のまま残っていたのかと見紛うほどです。なぜこんな似た形にしたのでしょうか。

よく見ると、背丈ほどの土台部分とそれより上の部分は使われている石材が違うようです。
ひょっとしたら忠霊塔は完全には破壊せずに、土台部分は当時のものを再利用したのでしょうか。



このあたり手の込んだ滑らかなカーブはいかにも日本の職人っぽい仕上がりにも見えますが、どうでしょうか。

公園の東側から階段を上って棟に向かうと、棟の手前左側にこんなものがありました。





これは手水鉢ではないでしょうか。

そして、手前にあるこの金属製の水道管らしきものは、手水鉢に水を注ぐものだったとか?





棟を壊した後でも、この水道管からは水が出てきて重宝するので、ここは壊さずに利用したのではないでしょうか。

水道管には社紋らしきマークが残っています。





社名を特定しようと少し調べてみましたが、この手掛かりだけではわかりませんでした。

中国語の文献によると、忠霊塔だった時代にはこの場所に4メートル四方の東屋があったようですから、ここがそれなのかもしれません。

手水鉢を囲むようにこんな破壊された跡と思しき構造物が2か所ありました。





これが東屋の柱の跡ではないでしょうか。

2つの構造物の距離はちょうど4メートルぐらいですので、たぶんその見立てでよいと思います。

参拝客は階段を上り、ここで手を洗い、口をそそいでお参りをしたのだと思います。

現在の承徳市街には旧満州国に建てられたと思しき建物がほとんど残っていませんので、この遺構はなかなか貴重かもしれません。

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承徳 永祐寺舎利塔

2022-09-21 | 東北を歩く
承徳の避暑山荘の中にある永祐寺舎利塔です。



1754年に乾隆帝が作らせた仏舎利塔です。
六和塔ともよばれているようです。

1751年、南巡した乾隆帝は、杭州の六和塔と南京の報恩寺の秀麗さに感銘を受け、母恩に報いるために、北京に二塔を、翌年にはここに永祐寺を建てました。この仏舎利塔は1754年から10年をかけて建てられました。

材料になったレンガはわざわざ北京から運んできたそうですが、大変な労働だったと思います。

北京の二塔は後に焼失しましたが、この永祐寺の塔は補強されながら姿を残したそうです。





古写真があります。

一時は寺が荒廃したことがよく伝わってきます。

仏舎利塔は八角形の9階建てで、66メートルの高さがあるそうです。高台の上に建てられています。

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承徳 文津閣 - 「四庫全書」を収蔵した書庫

2021-08-04 | 東北を歩く
避暑山荘の中に文津閣と呼ばれる建築物があります。



ここは乾隆帝の命により編纂された「四庫全書」が収蔵されていた場所です。皇帝専用の図書館というわけです。

四庫全書とは中国最大の漢籍叢書で、36,000冊、230万ページから構成されています。
すべて手書きであり、4000人余りが動員されて筆写したそうです。

「四庫全書」は正本7セットが作成され、次の場所に配置されました。

北京・紫禁城(文淵閣)
北京・円明園(文源閣)
承徳・避暑山荘(文津閣)
瀋陽・盛京宮殿(文溯閣)
揚州・大観堂(文匯閣)
鎮江・金山寺(文宗閣)
杭州・聖因寺(文瀾閣)

この承徳・文津閣は1774年の竣工で、1785年に四庫全書が収蔵されました。

ここに所蔵されていた四庫全書は1915年に北京に移され、現在は中国国家図書館で全冊が保管されています。
したがいまして、今の文津閣は箱だけが残されています。

文津閣の庭には池があります。



この池は月を愛でるのが好きだった乾隆帝のために、築山に穿たれた穴から池の水面に三日月が映るように設計されているそうです。

どこに月があるか分かりますか?



赤丸を付けてみました。

四庫全書しかり、この凝った庭園の設計しかり、皇帝がどれほど絶大な権力を持っていたかが伝わってきます。

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承徳 小ポタラ宮

2021-07-27 | 東北を歩く

承徳の小ポタラ宮(普陀宗乗之廟)は、世界遺産である避暑山荘と外八廟のひとつです。





1771年に乾隆帝の60歳を記念して建てられました。

ラサのポタラ宮を模したチベット様式の寺院です。



山の斜面を利用して建てられていますので、立体的に映ります。
外八廟の中で最大規模です。

完成から今年がちょうど250年ということになりますが、補修工事をしているためか、状態は非常に良好です。



























満洲国時代は日本人もたくさん訪れたのでしょう。当時のものと思われる落書きが残っていました。



清の皇帝といえば龍が権力のシンボルです。

ちょうどここの大紅台を参拝していたとき、空に龍のような雲が浮かんでいました。

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承徳 双塔山

2021-05-24 | 東北を歩く
5年ぶりに承徳を訪ねてみました。

今年1月に開通したばかりの高速鉄道・京哈線を利用すると、北京からわずか1時間余りで到着します。

双塔山は市内から南西に約10キロ、自然が織りなす不思議な奇岩が広がる国家級自然公園です。



麓で入場券を買ってリフトに乗ると、忽然と2つの巨大な岩柱が肩に並べるように立っている姿が目に入ってきました。



ぐんぐん近づいてきます。



足元の方が細いので、非常に不安定に映ります。
高さは40メートルほどでしょうか。

この2つの岩山の頂にはそれぞれ仏塔のような、祠のような建造物がちょこんと鎮座しています。遠景では分かりませんが、レンガで出来ているようです。



この2つの建造物はいつ、誰が、何のために建てたのか分かっておらず、ずっと謎のままだそうです。

18世紀の乾隆年間の文献にはすでに西側の仏塔が存在していたことが記されているのでそれ以前ということになりますが、1300年以上前に北方の遊牧民族だったチダン族が建てたという説があるそうです。





頂上に至る通路はありません。いにしえの時代、チダン族は重い資材を抱えてどうやって頂に登ったのでしょうか。
この高さまで足場を組むのは容易ではありません。

この奇岩を拝んだ後、周辺をハイキングしながら地層を触ってみると、この一帯は脆い礫岩で構成されていることが分かりました。砂や小石の堆積層です。長年の隆起と浸食でこのような地形が形成されたのだと思いますが、強く掴むとその場所がボロボロと剥がれ落ちてきそうです。

数千年後なのか数万年後なのか分かりませんが、この2つの不思議な岩柱はやがて風化と浸食を受けて消失する運命なのでしょう。





夏を承徳の避暑山荘で過ごした乾隆帝、康煕帝、嘉慶帝、文武帝などの名臣は何度も双塔山に足を運んでその景観を愛でたそうです。

承徳が満洲国の一部となった1930年代には、おそらく日本人にも人気の観光地だったのではないでしょうか。





いずれも1930年代に撮影したと思われる写真です。







なかなかおもしろい場所を訪問することができました。

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ハルビン ヨーロッパホテル

2021-03-31 | 東北を歩く
2015年にハルビンの街歩きをした時に撮影した写真です。



場所は道里区尚志大街と西十道街の交差点です。
ハルビン市歴史保護建築を示すプレートには旧ヨーロッパホテル(元欧羅巴旅館)と紹介されていますが、今もヨーロッパホテル(欧羅巴賓館)と名乗っているようです。



1934年竣工のロシア人による5階建てのホテルです。
建築当初は3階建てだったという記録がありますので、4階と5階部分は後の増築です。

エントランスは円弧状になった角に設けられています。
豪華な装飾が特徴のロシア建築にしてはシンプルですが、最初からこのような容姿だったのでしょうか。

満洲国時代の中国の左翼文学者だった簫紅(1911-1942)は一時ここで暮らしたそうです。
調べてみると、簫紅は1932年に数か月、ここで過ごしたようです。この建物が竣工する前だったと思われます。
別の文献によると、簫紅は日本から帰国した1937年にもここで1か月ほど暮らしたようです。



簫紅はこの滞在の印象を散文で残しています。
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長春 旧豊楽劇場 - 新京市民の娯楽と社交の殿堂

2021-03-16 | 東北を歩く
2015年秋に長春の重慶路を街歩きしていた際に撮った1枚です。



とても目を引くレトロな大型建築が目に入っていました。
1930年前後に流行った流線型のフォルムとスクラッチタイルです。

当時はこれが何だったのか分かりませんでしたが、日本人の設計であることは間違いないだろうと思い、とりあえず1枚だけ写真を撮っておいたものです。
調べてみると、これは豊楽劇場と呼ばれた満洲国時代の映画館で、新京に住む日本人の娯楽の殿堂だったようです。

「東洋第一映画館」とも呼ばれた最先端の施設だったと紹介されています。



満洲国時代、重慶路は豊楽路と呼ばれ、市内有数の華やかな商店街でした。

この豊楽劇場は三共建築事務所の設計で、1933年に建築が始まり、1935年に開業しました。
すでに豊楽路には有名なデパート、レストラン、ホテル、ダンスホール、映画館が集まっていました。
夜になってもこの通りは人通りが絶えず、ネオンが明るく照らし、昼間のような賑やかさを誇ったといいます。

豊楽劇場は日本人経営の最先端仕様の映画館でした。
座席数は1,124席と、かなりの大箱です。いつもチケットを買い求める客が長蛇の列を作っていたそうです。
チケットは他の映画館より高額だったものの、当時はめったに見られなかった欧米の映画、新作映画、ドキュメンタリーの長い映画が上映されたため、人気を博したそうです。

映画だけではなく歌舞伎や芝居なども上演されました。

内部もインテリアもラグジュアリーで、ステージの両脇には花道を備え、幕は高級ベルベットで作られており、建具には五色ガラスが、ボックス席の椅子には牛革のシートが使われていたそうです。

このピアノを思わせる洗練された優美な佇まいは、当時の新京市民の憧れだったことでしょう。

戦後も映画館として使われたようですが、現在はその使命は終え、複合商業施設として利用されているようです。
映画館として使っていないのであれば、もうホールは残っていないでしょうか。

大連連鎖街の常盤座(2014年11月27日の日記)も改造されてホールは残っていませんでした。

そんな由緒ある施設ならば、写真1枚で済ませず、入場して内部の様子も観察しておくべきでした。ちょっと後悔しています。

長春を再訪することがあれば、必ず立ち寄りたいスポットです。

長春には満洲国時代の建物がまだまだたくさん残っています。
2015年の訪問時は約5時間ほどの滞在でした。次回は腰を据えてしっかりと街歩きをしようと思います。
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長春 旧満洲興業銀行本店

2021-03-10 | 東北を歩く
引き続き、2015年に撮影した長春の写真をご紹介します。



満洲興業銀行本店だった建物です。

人民大街と新発路の交差点です。とても目立っていました。

満洲興業銀行は満洲国政府が出資した特殊銀行でした。
1936年、朝鮮銀行の業務を引き継ぐ形で設立されました。開業は1937年1月1日です。



債権を発行して満洲国の産業振興を支えたようです。

建築当初は4階建てでしたが、後に増築されて6階建てになったようです。

新京に本店を置き、満洲国内の主要都市に支店を置きました。
東京支店もあったそうですが、どこにあったのでしょうか。

今は吉林省政府の3号館として使われています。
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長春 旧西村旅館、旧新京大都旅館

2021-03-07 | 東北を歩く
前回に続いて、2015年に長春で撮影した老建築をご紹介します。



この建物は、長春駅から歩いていたときにたまたま見かけたものです。
勝利大街と東一条街が斜めに交わる交差点です。

目を引くアールデコの個性的なフォルムから考えて、戦前の日本人設計であることは間違いないだろう、でも何だったのだろう、大連に戻ったら調べようと思っていたのですが、そのままになっていました。

古写真で照合してみると、どうやらこの建物は西村旅館と呼ばれた宿泊施設だったようです。



この古写真の右側の建物です。

1920年の竣工ということも分かりました。
満洲国成立後は、新京大都旅館と名称を変えたようです。

新京駅の近くですので、当時この辺りは満鉄付属地でした。
勝利大街は当時、日本橋街と呼ばれ、最も賑やかな一帯でした。
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長春 旧満洲国国防会館

2021-03-04 | 東北を歩く
春節休暇中に写真を整理していたら、この日記でご紹介していなかった長春の老建築の写真が出てきました。



旧満洲国国防会館です。
長春市勝利公園の東南角、長春駅からまっすぐ南に向かう人民大街にあります。

2015年9月に撮影したものです。

文献によると、もともとは関東軍憲兵中隊と関東軍司令部警備隊によって使われていたようです。
その後、満州国防衛婦人会の事務局となりました。
建物は「国防会館」ですが、これは略称で、正確には国防婦人会の会館というです。

1938年の竣工です。設計は関東軍管理部工務課、施工は松木組です。





国防婦人会とは、その名のごとく軍部の活動の後方支援を担った組織です。1934年に満洲国防女性会が設立され、軍関係者の冠婚葬祭、遺灰の輸送、軍部への子息の派遣、広報活動などを担いました。

1938年に日本と満洲国の女性組織が合併する形で満洲国防衛女性会が設立され、ここに事務局を置きました。

それにしても、女性団体のためにこれだけ立派な建物が用意されたということは、戦時の満洲戦線において、女性たちが果たした役割はそれだけ重要だったということだと思います。

戦後は、この建物は軍の長春映画配給所として使われ、後に吉林省映画配給上映会社を経て、その後はホテルとして使用されたようです。

ホテルとして利用されていた2010年頃の写真を見ると、建築当初と容姿がだいぶ違っています。

今の方が元の容姿に近いですので、過去2度にわたって大掛かりな外装工事が行われたのだと思われます。
今は美術館として使われているようです。



長春市文物保護単位です。
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ハルビン 旧中東鉄路ハルビン中心医院

2019-06-15 | 東北を歩く
ハルビンの旧中東鉄路ハルビン中心医院です。





1900年の竣工とされています。
現在も病院として利用されているようです。

中東鉄路というのは、東清鉄道のことです。
ロシアが19世紀末から20世紀初頭にかけて中国東北部に整備した鉄道です。

こんなに早い時期から総合病院を構えたぐらいですから、当時のロシア帝国が中国東北部の権益獲得に向けた強い意欲が伝わってきます。



ハルビン市重点保護建築に指定されています。

ハルビンには、今も東清鉄道の産業遺構がたくさん残っています。
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ハルビン 秋林デパートビル

2018-10-05 | 東北を歩く
ハルビン市南崗区東大直街の老建築・秋林デパートです。


こういう様式はロシア式バロックと呼べばいいのでしょうか。優美な姿が目を引きます。

秋林洋行はかつてハルビンを中心に白系ロシア人が経営した商業施設でした。

秋林とは創業者の名前です。中国語でチューリン(Qiulin)と読みます。

元々は19世紀にロシアで創業し、19世紀末には中国北部に事業を拡大しました。1918年にはロシア革命を逃れてハルビンに本社を移します。


中に入ってみました。

その後も事業を拡大し、ハルビンを中心にロシア人や外国人向けに世界からの輸入品を取り扱う大規模なデパート経営に成功します。

満州国設立後は満洲国の法人となりますが、戦後は再びソ連系資本に戻りました。
現在は中国資本の小売店として経営を続けています。
正式な社名は、ハルビン秋林集团股份有限公司です。

当時の旗艦店だったこの秋林デパートビルは、1908年竣工です。
建築当初は地下1階、地上2階建てでしたが、後に増築されて今の4階建てになっています。

建築当時は自家発電による照明や暖房が整い、上下水が完備された最新式の建築物だったようです。

満州国設立後は、日本商品の取り扱いが中心になったそうです。関東軍による貿易規制も影響していたものと思われます。

1938年には社名を秋林株式会社と改称し、経営組織を日満独系合資に変更しました。
当時の日本語による会社案内があります。


秋林公司は、1世紀を超える激動の歴史に翻弄されながらも、いまだに社名を残したまま経営を続けています。


ハルビン市Ⅱ類保護建築です。
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瀋陽 旧南満医学堂

2018-08-25 | 東北を歩く
瀋陽の中国医科大学付属第一病院内にある旧南満医学堂です。




南満医学堂は満鉄が経営する医療機関として1911年に設立しました。
中国東北部では初となる高等医療教育機関でした。

初代校長は河西健次が務めました。河西は日露戦争にも軍医として従軍した医師でした。
その後1922年に満州医科大学に昇格し、1948年に現在の中国医科大学になります。

後に日本大学の学長・理事長を務めた佐藤運雄は、設立時にここの教授として教鞭を振るいました。
ここで多くの日本人・中国人医師が育ち、租借地の医療保健レベルの向上に繋げてきました。


私が訪れたのは2016年10月でしたが、建物は利用されていないようでした。
保存状態は良好なので、再利用は可能と思われます。


瀋陽市第一次不可移動文物に指定されています。
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ハルビン 旧交通銀行ハルビン市分行

2018-08-05 | 東北を歩く
ハルビン市道外区北四道街の中国農業銀行黒龍江省分行は、1930年に竣工した老建築です。


クラシック様式の重厚な風格をたたえます。

建築時は交通銀行ハルビン分行でした。

4階建てです。
正面には1階から3階部分にかけて6本のコリント式オーダーが配されています。

設計者は中国人近代建築の重鎮である庄俊です。

大連の中山広場にある旧中国銀行大連支店(2016年5月10日の日記)も庄俊の設計です。
庄俊は1910年から14年にかけて米国イリノイ大学に留学して建築を学び、中国各地に多くの洋風建築を残しています。

完成から1世紀近い時を経て今なお作品が活躍しているですから、庄俊の設計が優れていたということでしょう。


ハルビン市Ⅰ類保護建築です。
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ハルビン 旧チェコスロバキア駐ハルビン領事館

2018-05-05 | 東北を歩く
ハルビン市南崗区吉林街にある旧チェコ駐ハルビン領事館です。







2015年秋に街歩きをしていたとき、偶然見かけた老建築です。

アールヌーヴォー風の装飾が施されています。

資料によると、1905年の建築です。
元々は個人宅だったようですが、1924年からソ連の総領事館として利用され、1931年にチェコスロバキア領事館になりました。

1937年以降は日本軍の731吉林街分室として利用されたという記録もあります。

ウェブサイトの情報では、今も住宅として利用されているとのことですが、見た感じでは人の気配は感じられませんでした。


ちょっと奥まった場所にひっそりと建っています。
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