HBD in Liaodong Peninsula

中国と日本のぶらぶら街歩き日記です。2024年5月からは東京から発信します

青島 福柏医院旧址

2023-11-20 | 山東を歩く
青島の安徽路の坂道を歩いていると、クリーム色の古そうな洋館が目に入ってきました。





多くの市民が集まってきます。どうやら病院のようです。

ここは1905年にドイツ同善会と欧州人協会、独英米国人の居留民が資金を集めて開設した西洋人専用の病院だったそうです。

青島で亡くなったドイツ人医師の名前を取って福柏医院とよばれていたそうです。
福柏はフーバーと読むでしょうか。

フーバーは同善会の宣教師であり、人類学者、医学博士、文学者でもあり、1898年に青島に到着して、同時に学校や病院を興し始め、翌年病死したとされます。

この福柏医院は1907年に正式に開業したそうです。欧州から医師を招き、ドイツ人が経営に当たったのだとか。医師団は医療だけでなく布教も行ったそうです。





現在、青島市皮膚病防治院として使われています。


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ドイツ人司祭邸宅 / 在青島フィンランド領事館旧址

2023-11-03 | 山東を歩く
青島の広西路を歩いてみました。

広西路は青島駅を西側の起点として東側に向かってまっすぐ伸びています。
ドイツ租借時代初期にドイツの都市デザインによって整備された都市道路です。

当時はハインリヒ王子通りとよばれ、ビジネスエリアとして発展しました。
今はその機能はありませんが、当時の建物がたくさん残っています。

ふと、塀に囲まれたこんな洋館を見かけました。



歴史優秀建築を示すプレートが掲げられています。



ここはドイツ人の教会関係者が暮らした住宅だったようです。

位置的には、かつてドイツ総領事館があった場所の裏側です。
2階建てで、二重アーチの正面玄関を挟んでファサードが左右対称の形をしています。



プレートには1914年築と記されていますが、1903年頃ではないかという説もあるようです。

また、1941年から1948年までの間は、在青島フィンランド領事館として使われていたという記録もあるようです。

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青島 ディートリック邸旧址

2023-10-06 | 山東を歩く
青島旧市街沂水路7号に建つこのレンガ造りの堅固そうな大型の洋館はドイツ占領下の1907年に建てられたものです。



沂水路沿いに掲げられている歴史建築のプレートには、ディートリック邸旧址と紹介されています。

在留ドイツ人向けの住宅だったようです。

レンガと木造を組み合わせたつくりですです。マンサード屋根になっている中央部分には屋根裏部屋もあるようです。



正面からの写真を撮ろうとしたらこんな感じです。冬に葉が落ちたらきれいに見えると思います。

土台の石組は花崗岩でしょうか。

ところで、ディートリックとはどういう立場の人物だったのでしょうか。中国語のサイトを調べても探し当てられませんでした。

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青島 交通銀行旧址

2023-09-21 | 山東を歩く
青島旧市街の中山路には戦前の歴史建築が並んでいます。

この中山路93号の4階建てビルは1929年に建てられた交通銀行青島支店でした。



古典的なローマ様式の西洋建築ですが、設計者は中国人です。

100 年前にこんな設計をする中国人技術者がいたのか、と意外な感じがしますが、米国イリノイ大学に留学経験を持つ庄俊(1888-1990)という人物で、大連の中山広場にある旧中国銀行などを設計した著名な建築家です。

銀行建築が得意だったらしく、現代まで残っている作品の多くは銀行です。

この日記でも何度かご紹介しました(2016年5月10日の日記2018年8月5日の日記

通りに面して高さ10メートル以上ありそうな4本のコリント式円柱と2本の角柱が風格と格調をたたえています。
正面の壁面に嵌め込まれた石材は花崗石でしょうか。

つくりが旧交通銀行ハルビン銀行とそっくりです。同一人物が設計したわけですから、それも納得です。

大連、ハルビンにつづいて青島でも庄俊建築に出会いました。なんだか親しみを感じます。





交通銀行は旧中国四大銀行の一つでしたので、国内各地に戦前に建てられた支店の跡地が残っています。

青島支店は1923年に設立し、その後、中心街の中山路にこの銀行ビルを建てたそうです。
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在青島英国領事館旧址

2023-05-13 | 山東を歩く
在青島英国領事館の跡地は、膠澳総督府前の広場の東側に面しています。



1907年に建てられたそうです。

建物は地上3階、地下1階です。3階部分は屋根裏でしょうか。



花崗岩が積まれた土台は青島の近代建築ではよくみかけます。

ここはドイツ租借時代に整備された都市計画の中では一等地です。



一見普通のドイツっぽい戸建て住宅のような雰囲気ですが、調べてみると、やはり元々は住宅だったようです。

ドイツから呼び寄せた弁護士・公証人用の住居としての建てられたのだとか。



開設当時の領事館は領事代理が職務を執行し、1911年に副領事クラスに、1922年に領事クラスに格上げされたそうです。

その後、1932年に今の湖南路にオフィスを移転しました。

その後1935年総領事館に格上げされました。太平洋戦争が始まった1941年12月に閉鎖され、45年の終戦後、業務を再開したそうです。


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旧スワイヤー商会青島支店

2023-05-07 | 山東を歩く
青島旧市街の金融街である館陶路の入口に立つこの洋館は、かの英国の海運大手スワイヤー商会青島支店(太古洋行、Butterfield & Swire)だった建物です。



住居表示は館陶路2号です。堂邑路を北上すると正面に見えてくるのでとても目立つ建物です。

1936年の竣工と伝わります。

スワイヤー商会の青島への進出は1910年代前半で、当時は別の場所にオフィスを構えたようです。英国企業としてはいち早く中国への進出を果たしていたスワイヤーは青島進出後はいち早く海運ビジネスで足場を固めたそうです。16隻の船を所有していたそうですが、それらの船はすべて黒だったので、「黒煙突」と呼ばれたのだとか。

1914年に日英連合軍がドイツを破って青島を支配するようになると、この写真の北側に大型の倉庫を建設しました(右側のクリーム色の建物)。

そして36年にこのオフィスビルを建築しました。ここから港まで約500メートルです。
スワイヤーがいい場所を取ったことがよくわかります。

現在は病院として使われているようです。

写真を撮ったのがこの1枚だけだったのが惜しまれます。次に行ったら違う角度からも撮影しようと思います。

スワイヤー商会天津支店はここ(2022年11月11日の日記)でご紹介しました。
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青島 観海山 - 八幡山とよばれた聖地に登る

2023-03-02 | 山東を歩く
青島市南区の中央海岸部にある観海山に登ってみました。

日本租借時代は「八幡山」とよばれた場所です。高さは66メートルしかありませんので、山と呼べるかは微妙です。



この山の頂上からは青島湾が一望できるということですが、雨天で霧がかかっているこの日は望むらくもありませんでした。





この山は総督府のちょうど裏山に当たります。

1898年からドイツが始めた始めた街づくりでは、ここは「総督府の丘」と名付けられ、ドイツ軍のためのゴルフ場がつくられたそうです。やがてドイツ軍は丘の周囲に道路を作り、丘に行きやすくした。
これが現在の観海一路と二路で、そのまま残っています。

ゴルフ場の名残りは残っていません。

1914年にドイツが青島の租借権を失うと、日本が総督府を譲り受け、日本軍駐屯地司令部としました。この裏山は八幡山と名付けられました。

八幡山と名付けたのは、その名のとおり八幡神信仰からでしょう。

八幡神である応神天皇は支配領域拡大を進めた天皇で、皇室や日本国民からは軍神として崇められ、近代日本の軍部からは外国侵略や拡張の守護神として崇められたそうです。

当時青島を治めることになった日本の軍部は、この裏山を山宮のような存在に見立てたのではないでしょうか。

頂上には展望台が設えられていました。



文献によると、民国時代の1927年に展望台がつくられたとありますが、これは当時のものでしょうか。

山頂には砲台の跡もありました。







砲台はいつ頃作られたのでしょうか。

天気がよければ、展望台から美しい景色が広がっているのだと思います。
天気がよい日に再訪しようと思います。
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ドイツ膠澳総督府・ゲルプケ大法官公邸 / 山田良水陸軍少将公邸旧址

2023-02-24 | 山東を歩く
青島旧市街沂水路に建つこの気品のある様式の洋館は、ドイツ占領時代のドイツ人高官用の宿舎として建てられたものだそうです。





サイトによると、膠澳総督府の格爾皮克(Paul Gelpcke)なる大法官の公邸だったと紹介されていますが、何と読むのでしょうか。
中国語をそのまま読むと「ゲルプケ」でしょうか。

1899年の竣工です。
ドイツ人建築家による設計です。

レンガと木造の組み合わせたハーフティンバー様式で、英国やドイツでよくみかけるスタイルです。

ここがドイツの租借地であったことを強く印象付けます。



帽子のような赤いトタンの尖塔がアクセントになっています。

足場の赤っぽい石は御影石でしょうか。



黄色く塗られた漆喰の壁、コーナーに嵌め込まれた角石、どれも趣がたっぷりです。

ところで、文献によると、ゲルプケ大法官このは邸宅にはほとんど住むこともなく青島を去ったようです。
ゲルプケの役目は植民地政府としての基本法整備の協力を行うことでしたので、自分の役割を終えたらドイツに帰国したのだとか。

その後はドイツ海軍の軍医をはじめ、様々な時の政権の幹部の住まいとして使われたとされています。

1914年に日本が青島を租借するようになってからは、山田良水陸軍少将がここで暮らしたそうです。

山田は旅順にも爪痕を残した人物です。
山田良水(1862-1928)は高知生まれ、陸軍士官学校卒の軍人で、日清戦争と日露戦争に従軍しました。

日露戦争では乃木希典率いる第三軍の一員として旅順攻囲戦にも参加しています。

かの激戦地となったロシア軍最大の永久堡塁だった二龍山の山頂に立つ満洲戦績保存会による石碑の碑名を記した人物です(2013年9月20日の日記2013年12月30日の日記)。



この立派な石碑の碑名を任されたぐらいですので、二龍山の攻略で功があったということでしょう。当時の山田の階位は歩兵第19連隊長中佐でした。

第一次世界大戦では日英連合軍の青島要塞攻囲軍歩兵第24旅団を率いて青島攻略で名を揚げたそうです。

建物は戦前の古写真にも写っています。





この建築もまた、築120年を越える歴史がありますが、良好な状態で保存されています。
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青島 カトリック教会宿舎旧址

2023-02-15 | 山東を歩く
青島の湖南路と江蘇路の交差点に建つこの気品のある近代建築は、カトリック教会宿舎の跡地というプレートが掲げられていました。





だいぶ古そうです。

調べてみると、竣工はドイツが青島の統治を始めて間もない1899年です。この一帯の古い洋館はだいたいこの時期のものが多いように思います。



アンゼル(Johann Baptist Anzer、1851-1903)というドイツ人のカトリック宣教師の住居として使われたようです。

中国語の文献によると、アンゼルは1879年にドイツから中国に派遣された宣教師団のひとりで、香港で中国語を学んだ後、1880年に山東に到着したとあります。

1897年に発生した曹州教案を受けて、ドイツ政府に膠州湾の占領を進言した人物でもあったそうです。つまり、ドイツによる青島租借のきっかけをつくった一人でもあるということです。政治力を持った聖職者だったのでしょうか。

その後、1903年までドイツ政府の支援を受けて山東でカトリックの布教に務めた人物だと伝えられています。





青島市政府が掲げたプレートにはアンゼルが暮らした家だと書かずに「カトリック教会宿舎」とぼやかしているのは、アンゼルが中国にとって望ましくない人物だったからでしょうか。
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青島 ミカエル大聖堂付属建築

2023-02-12 | 山東を歩く
青島のミカエル大聖堂から南に向かって徳県路の坂道を下ると、租借時代の一軒家をたくさん見かけます。







この建物は青島市から歴史建築の指定を受けているようです。



ミカエル大聖堂付属建築と書いてあります。住宅のようですが、聖職者や教会職員などの住宅だったのでしょうか。

詳しい情報が分かりませんが、ネットを検索すると1935年に建てられたという情報を見つけました。

玄関の門柱に注目してみます。



右側に表札跡と思しき縦長の穴があります。



日本人が住んでいたという証拠です。

表札跡は大連ではよく見かけましたが、青島でもあったのですね。
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青島カトリック医院旧址

2023-02-09 | 山東を歩く
青島旧市街の博山路を歩いていると、2階建てのレトロなレンガ建築が目に入ってきました。

質素ですが、よく見ると黒レンガの中に一部だけ赤レンガ使われていたり、窓枠などには気品のあるデザインが施されています。



ただならぬ雰囲気です。
手入れがされておらず、廃墟のように見えますが、これはなんだったのでしょうか。

調べてみると、これは戦前の青島カトリック医院だったそうです。

1898年の竣工で、青島では初めての大型医療施設だったのだとか。
病院業務はマリアの宣教者フランシスコ修道会が担ったそうです。

マリアの宣教者フランシスコ修道会とは1877年にフランスで創設されたローマカトリック教会の教団です。1886年に中国に伝来して、煙台で布教活動を開始したとされています。

カトリック医院は内科、外科、産婦人科、小児科があり、12床の病床があったそうです。
院長はドイツ人医師が、副院長はイタリア人修道女が担ったそうです。医薬機器はドイツから輸入されたのだとか。

戦後は市衛生局が接収し、青島市立医院として使われ続けたようです。

120年前の素朴なビザンチンっぽいスタイルで、周囲に残る租借時代の洋館とは一線を画すデザインです。青島に残るドイツ建築の中でも古い部類ですから、文化財としての価値が高そうです。

おそらく、この後修復が施されるのだと思います。写真の右手前に積まれている黒レンガは、補修のために用意された資材なのではないでしょうか。
どんな用途で使われることになるでしょうか。
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青島カトリック聖言会礼拝堂旧址

2023-02-06 | 山東を歩く
青島の聖ミカエル大聖堂前の広場沿いに建つこのルネサンス様式の建築物は、カトリック聖言会礼拝堂とよばれるチャペルでした。



曲阜路と浙江路の交差点で、高台になっている場所です。

交差点に向かって建つ六角形の壮麗で精巧なデザインの尖塔が目を引きます。

ドイツ人建築家による設計で、ドイツ占領下の1899年から1902年にかけての間の建築とされています。ドイツが膠州湾の租借権を得た翌年のことです。
聖ミカエル大聖堂の30年以上前ということになります。



文献によると300から400人を収容することができたそうです。

当時、ドイツから見知らぬ地だった青島に移り住んだ在留ドイツ人にとってこの礼拝堂は心の拠所だったのではないでしょうか。

外から見たところ、今は使われている様子がありませんでした。願わくば一度中に入ってみたいものです。



この礼拝堂の半径100メートルほどの一帯にはドイツ租借初期に建てられた教会関連の建築物がぎゅっと密集しています。

当時の中国人にとっては突然見慣れない宗教施設が短い時間のうちに次々に建ったので、自分の街が外国に占領されてしまったことを思い知らされたのではないでしょうか。
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ドイツ第二海軍司令部庁舎旧址

2023-01-31 | 山東を歩く
青島旧市街の南側にある沂水路はドイツ租借時代に建てられた近代建築が連なっていて、ひときわコロニアルな雰囲気を残すエリアです。



このルネサンス風の洋館はドイツ第二海軍司令部庁舎だったそうです。



1899年の竣工です。もともとはドイツ高官用邸宅として第11号官邸と呼ばれていたようですが、1912年に改修されてドイツ海軍の司令部になりました。

レンガと花崗岩を組み合わせた構造で、洗練された風雅があります。



左右対象はなく不規則なつくりです。



南側を向いた1階と2階部分のかわいらしいベランダがアクセントになっています。
2階の上に屋根裏があるようです。

後に膠済鉄道の管理に移管されて、戦後は鉄路局の招待所として使われてきたとされています。

保存状態がきわめて良好です。
おそらくこれまで何度も改修をしてきたのだと思いますが、余計な手を加えず、当時の姿をそのまま保存しようという意図が働いていることは間違いないと思います。

青島の文物保護行政に拍手を送りたいと思います。

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青島 館陶路バスターミナル - 中国初のバス停車場

2023-01-28 | 山東を歩く
青島旧市街の旧金融街である館陶路を北側に向かって緩やかな坂を登りきると、左側にバスターミナルが見えてきます。



ここは中国で初めて作られたバス停なのだそうです。

文献によると、1907年、ドイツ膠澳総督府は中央飯店(現在の青島日報社)から墨蘭堡房(現在の柳樹台)までの旅客輸送線を開設し、これが中国で最初の都市バス路線となったのだとか。

1910年、ドイツ当局は墨蘭堡房から沙子口までの第二旅客線を開設し、同年7月には始発地が館陶路まで延長されました。

当初はバス停の施設はなく、乗客は道路に停まったバスに乗り降りするだけでしたが、乗客や路線の増加に伴い、客の待合の利便性を図るために徐々に簡単な待合所が作られ、こうして館陶路バス停留所が誕生したそうです。

その後このバス停が青島の交通のハブとして発展したのだとか。



たしかにここは港に近いですし、館陶路は中山路に繋がっていますので、バス輸送の拠点にするには便利で恵まれた場所だったのだろうと思います。

真偽は定かではありませんが、1936年時、青島には600台のバスがあったそうです。山東省全体で900台、天津には300台、上海には400台しかなかったとされる時代です。それだけ青島ではバス輸送が盛んだったということでしょう。





今も現役のバスターミナルとして活躍していて、向かいや南隣の建物は道路交通博物館として市民に開放されているようです。

建物自体は当時のものではないようです。

中国ではバスは市民の足として非常に重要な役割を果たしていて、鉄道のない小さい地方都市でもバスターミナルだけはあったりします。

それらの元祖となるターミナルということですから、歴史的な意義がある施設だと思います。




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青島 斉燕会館 / 興亜倶楽部旧址

2023-01-22 | 山東を歩く
青島旧市街を歩いていると、何やら曰くありげな神秘的な邸宅が見えてきました。



館陶路に面したエントランスは塞がれており、石積みの階段には雑草が生い茂っています。

斉燕会館の跡地と紹介されています。なんでしょうか?

今は軍事管理施設となっているようです。
歴史建築が軍に使われると退廃してしまうことはよくあります。



調べてみると、斉燕会館とは清代末期の1902年に青島に作られた中国人によるビジネス組織でした。斉人と燕人のための互助組織というわけです。会設立当初は山東会館という名前だったのが、天津人が運営に関与するようになって名前を変えたそうです。

「会館」とよばれた同郷人の互助施設は北京にもたくさん残っていますが、あれと同じです。

その後、膠州湾のドイツ租界地で三江会館、広東会館とともに青島の三大会館とよばれ、事地域経済に大きな影響を与えたとされています。



写真の奥に写っているクリーム色の建物は1922年に竣工したようです。

1938年に日本が青島を支配するようになると、施設は日本軍が接収し、興亜倶楽部と名前を変えました。

この興亜倶楽部なる施設についてはあまり文献が見つからないのですが、軍部や日本関係者などの娯楽施設だったようです。

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