HBD in Liaodong Peninsula

中国と日本のぶらぶら街歩き日記です。2024年5月からは東京から発信します

浙江興行銀行漢口支店旧址

2024-03-28 | 武漢を歩く
漢口の中山路と江漢路が交わる一帯は租界時代の歴史的建造物が集まるエリアですが、この左側の赤い瓦葺が目を引く優美なバロック風の建物はなんだったのででしょうか。



ここは浙江工業銀行漢口支店があった場所です。



行政が文物指定したことを示すパネルもありますが、調べたところ、実はこの建物は再建したものだそうです。

浙江工業銀行は1907年に設立されました。漢口支店は翌08年に設立しました。南四行とよばれる中国で最も初期の商業銀行のひとつです。

この地に銀行ビルが建設されたのは1925年です。



日本が武漢を占領すると、1940年5月、日本軍の計画支援で浙江興業銀行漢口支店は中江実業銀行となります。太平洋戦争が始まると銀行は閉鎖を余儀なくされました。

そして近代になった1995年に火災が発生し、ビルは取り壊しになりました。その後このビルを再建したというわけです。



古写真と比較すると、たしかに忠実に当時の姿に再建されていることがわかります。
かつての景観を守ろうとするこの意気込みには惜しみなく拍手を送らなければなりません。

ところで、浙江興業銀行漢口支店は清代の末から民国時代にかけて武漢で流通した「漢鈔」とよばれた紙幣を最初に発行した銀行です。

銀行は漢口に支店を設立してからすぐに漢鈔を発行しました。外国銀行の漢口支店もこれに続き、漢鈔を発行するようになりました。

1935年に国民政府が紙幣改革を行い、紙幣を統一すると、漢鈔の流通は次第に減っていきました。
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漢口 米国人記者アグネス・スメドレー / ルッツ主教旧居

2024-03-16 | 武漢を歩く
漢口の鄱陽街の旧租界エリアでアグネス・スメドレーの旧居だったという洋館を見かけました。





シンプルなレンガ造りの2階建てです。

アグネス・スメドレー(1892-1950)は共産党に共感して中国で取材活動を行った米国人ジャーナリストでした。

中国での暮らしの拠点は上海でしたが、1938年に日中戦争を取材するため、ここで10か月間を暮したことがあったようです。
当時、ここは漢口聖公会の米国人宣教師だったルッツ主教の邸宅でした。

スメドレーはミズーリ州の農家出身で、幼少時代は貧しさゆえ教育を受ける機会に恵まれなかったものの、長じてから師範学校で特待生として修学し、学内で学生新聞の編集といった課外活動を行いました。

やがてインド人の共産主義者との出会いをきっかけに運命が動き始め、ドイツを経て上海に拠点を移すことになります。上海ではソ連のスパイだったゾルゲと関り、尾崎秀実を紹介したとされます(この話は諸説あるようです)。

そして1930年代から40年代はじめに中国国内の共産主義者に密着し、国共内戦や日中戦争の取材を行いました。

スメドレーは武漢での滞在中、在武漢米国総領事や英国大使に対し、赤十字社の救急隊を編成して八路軍を医療支援するよう粘り強く説得し、その道筋をつけたとされます。

没したのはロンドンですが、墓は北京の八宝山墓地にあります。それだけ近代中国に愛され、大事にされた人物ということでしょう。



湖北省の文物保護単位になっていました。

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旧漢口明治尋常高等小学校校長邸

2024-03-01 | 武漢を歩く
漢口の旧日本租界付近にある「武漢天地」とよばれる近年リノベーション開発をしたと思しき商業エリアを歩いていると、漢口明治尋常高等小学校校長の邸宅だったというレンガ造りの3階建ての洋館を見かけました。







今は戸建てのレストランとして使われているようです。外観からはリノベーションをしたような形跡がありますが、基本的には往時の姿ではないでしょうか。

漢口明治尋常高等小学校は日本が租界地に置いた教育機関です。

ここから西側約200メートルの場所にありました。今の武漢第二中学の場所です。

文献によると、漢口に初めて日本人向けの小学校が設立されたのが1907年です。
設立者は日本人居留民団で、文部省から在外指定学校の指定を受けました。翌1908年に明治小学校となり、辛亥革命による一時閉鎖を経て1913年に明治尋常小学校になりました。
幼稚園も併設されており、幼稚園を含むと8学年があったようです。

児童数は1918年の124人から5年後の1923年には246人に倍増したそうです。
小学校の教員は1940年には17人の教師が所属したのだとか。小学校は1941年に漢口日本国民学校と名前を変え、そして終戦とともに閉鎖されました。37年の歴史でした。





校長の宿舎は1930年代の設立と紹介されています。こんな立派な新築一軒家で暮した校長は鼻が高かったことだと思います。

当時の官報を調べてみると、この校長の異動情報が掲載されています。きっと文部省から派遣されたのだと思います。



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漢口 メルヒャース洋行電力工場事務所旧址

2024-02-27 | 武漢を歩く
漢口の江岸区の川沿いを伸びる沿江大道にこんなレンガ造りの洋館がありました。



歴史建築を示すパネルには、ドイツ商メルヒャース(Melchers)洋行電力工場事務所と紹介されています。



どんな会社だったのでしょうか。紐解いてみます。

1806年、カール・メルヒャース(1781-1854)とカール・フォッケは、帆船の海運と貿易を行う会社としてブレーメンににフォッケ & メルヒャーズ社を設立しました。
1854年に創業者が亡くなると、長男のローレンツ・ハインリッヒ・カール・メルヒャースが経営を引き継ぎました。

同社は1860年代以降、アジアに進出すると大きな成功を収め、中国国内に12のオフィスを開設し、2000人以上の従業員を雇用しました。

そして戦禍による変遷を経て第二次世界大戦まで、同社は複合企業として様々な業態のビジネスで中国大陸を舞台に活躍したようです。



この電力工場もその多角化ビジネスの一つだったのでしょうか。

時を経て、メルヒャースグループは今でも香港を拠点として中国で多角的なビジネスを展開しています。
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武漢長江大橋を自転車で渡ってみる

2024-02-18 | 武漢を歩く
武漢に行ったからには長江の大きさ自分の足で実感してみたいと思い、武漢長江大橋を自転車で渡ってみることにしました。



武漢長江大橋は1955年から2年がかりで建設されました。開通は1957年です。長江に架けられた最初の橋です。





当初はソ連の技術協力を得て設計や建築を進めたものの、二国間関係が悪化してソ連の専門家が引き揚げてしまったため、その後自力で完成させたと。
この話は中国国内の古いプラントなどでよく聞きますが、この橋もそうなのですね。

いずれにせよ、中国にとっては民族魂の結晶みたいな大事業で、超一級の歴史的土木建築物と言えるでしょう。

1962年に発行された紙幣(2角)のデザインにも採用されました。

武漢長江大橋は2階建てになっています。上が車両と歩行者、下が鉄道用です。
この1階と2階部分をトラス構造の鉄骨が支えています。

橋の長さは1670メートルもあるそうです。
レインボーブリッジは800メートルだそうですから、2倍です。

しかし、この橋を渡るためには、その1.4キロほど手前の交差点まで回り込む必要があります(左岸から渡る場合)。

えっちらおっちら、自転車を漕いで橋までの坂道になったアプローチ部分を上ります。



ようやく橋台に着きました。
いやはや、高いです。

武漢三鎮が一望できます。欄干から下をのぞくと足がすくみます。
高さは35メートルあるのだとか。12階建てビルぐらいでしょうか。



走っても走ってもなかなかゴールが見えてきません。

長いです。
地図をみるとこの辺りが一番川幅が狭そうなので、橋を架けるにはここが都合がよかったのだと思いますが、それでも長いです。



この下を鉄道の線路が走っています。
頑丈そうです。70歳の大きな老橋、なかなか立派です。

この橋を歩いて渡っている人たちの姿がありますが、相当時間がかかると思います。

この高さを自転車で通過する経験はこれまでないので、ハンドルを持つ手に自然と力が入ります。
なかなか浮遊感とスリルのある時間が続きます。



10分ほどペダルを漕ぐと、ようやく右岸に到着しました。

真正面に黄鶴楼が見えてきました。



辛亥革命の一端となった武昌蜂起が起きたのもこの辺りです。

ふう、なんとか渡り切りました。

2007年頃だったか、南京長江大橋を歩いて渡ったことがありましたが、それ以来の長江の自力渡河となりました。
よい思い出になりました。

橋は全国重点文物保護単位だそうです。それはそうでしょう。
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漢口旧ロシア租界 旧ロシアンクラブ

2024-02-02 | 武漢を歩く
旧ロシアンクラブは漢口の旧ロシア租界、蘭陵路にあります。



1916年に建てられました。左右対称のデザインです。ビル正面の2階部分にはロシア建築らしいベランダが設えられています。

壁面は壁柱によって縦方向に分割されていて、おり、壁柱には縦方向の優美な装飾ラインが施されています。
こういう装飾は旅順や大連に残るロシア建築ではあまり見かけませんが、これもロシア風なのでしょうか。



ロシアンクラブは当時の漢口で暮したロシア居留民の集会や娯楽の場所だったそうです。漢口のロシア租界は1896年に始まりました。ロシアが旅順を租借したのとだいたい同じ時代です。





漢口のロシア租界は1924年前まで続きました。

ビルは最近修復が行われたようですが、必要以上に手を入れず、比較的オリジナルの姿に忠実に工事を行ったように見受けられます。



左側が旧ロシアンクラブです。今はレストランとして使われているようでした。




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漢口給水塔旧址

2024-01-15 | 武漢を歩く
漢口の旧英国租界の中山大道を歩いていると、こんな8階建てのレンガ造りの八角形の塔が目に入ってきました。





これはなんでしょうか。
遠方から見たら一瞬教会かと思いましたが、違うようです。給水塔です。



1909年に建てられたものだそうです。
こういう形の給水塔は初めて見ました。

水道技術が発達した現代ではとうに給水塔としての役割は終えているはずですが、こんな街の真ん中でよく今まで保存されてきたものです。

レンガ造りでこの高さの建造物は珍しいと思います。

建造から1世紀以上を経た今でも目立っていますから、当時は相当目立ったと思います。
武漢には70年代までそれほど高い建造物がなく、この頃までこの給水塔はランドマークだったそうです。

高さは41メートルあるそうです。英国人技術者ミューアの設計によるそうです。



ほとんど劣化のない明るい目の色のレンガが目を引きますが、これは近年改修が施されたためのようです。

この給水塔は1日当たり2.7万トンの水を供給する能力を持ち、租界地区すべてと旧漢口の中心エリアの約10万人用の水を賄い、1980年代初頭まで活躍したのだとか。
いやはやなんとも重要な近代歴史遺産です。

最上階にある監視塔は火の見櫓の役割も果たし、地元の民間消防組織と保安協会が派遣した監視団が巡回に当たったそうです。

つまり、棟は給水塔と消防とという2つの役目を持っていたわけです。

最上階にある監視塔には警鐘があったそうです。
今もあるのでしょうか。また、どんな音を出したのでしょうか。

願わくば一度監視塔に登ってみたいものです。



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ジャーディン・マセソン商会社員住宅旧址

2024-01-12 | 武漢を歩く
武漢の旧ロシア租界の黄陂路を歩いていると、こんな存在感のあるレンガ造りの洋館を見かけました。





交差点に面した外壁がカーブしながらギザギザの階段状になっていて3階のエントランスに繋がっています。

この建物は写真スポットになっているらしく、若者が入れ代わり立ち代わり、この建物の前でポーズを決めて写真に納まっています。



この建物はなんだったのでしょうか。

エントランス付近に掲げられている優秀歴史建築のプレートを見ると、怡和洋行住宅とあります。

怡和洋行とは英国資本のコングロマリットであるジャーディン・マセソン商会のことです。

1832年設立の東インド会社の後継となった企業で、アヘンと茶を貿易を担いました。

かの幕末の長崎で坂本龍馬らと交流して活躍した武器商人のグラバーが所属していた会社でもあります。

この建物はこの会社の漢口支店の役員クラスの住宅だったそうです。

エントランスを入って右に曲がると、階段が半円を描いて建物を取り囲んでいます。
非対称の3階部分と4階部分には開放的なベランダとバルコニーが設えられています。



なんだか子どもが積み木かレゴで作ったような遊び心満載のつくりです。子どもが見たら喜んでぴょんぴょんと階段を駆け上っていきそうです。

設計者などの詳しい情報がわかりませんが、優秀歴史建築のプレートに-1919-とあるので、これが建築年次なのでしょう。



当時の漢口租界の覇者だった英国を代表する会社の社員住宅ですから、ここで暮らした社員は肩で風を切って租界を歩いていたのではないでしょうか。
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旧ヘミングス&バークレー社ビル

2024-01-09 | 武漢を歩く
漢口旧英国租界の鄱陽街と青島路の交差点にこんなモダニズム様式の立派な6階建てビルが建っています。



これは英国の建築会社であったヘミングス&バークレー社の社屋でした。中国語では景明大楼です。

ヘミングス&バークレー社(Hemmings & Berkeley Co、中国語では景明公司)は、何度かこの日記漢口編でご紹介していますが、武漢の歴史上最も大きな功績を残した外資系建築設計企業です。
漢口にはこの会社が設計した建築物が実にたくさん存在し、今もその姿をとどめています。

これだけ多くの歴史的文化財を生み出したわけですから、戦後の武漢における街づくりや建築活動にも少なからず影響を与えたはずです。

近代史に名を残しそうなものですが、英語のサイトを調べてみると、思いのほかヒットしません。
地元の英国ではそれほど知られた存在ではないようです。これはなぜでしょうか。

この6階建ての社屋もヘミングス&バークレー社が設計・建設したものです。1920年に建築が始まり、翌21年に竣工しました。

1階はオフィスとして使用され、2階と3階がアパート、4階と5階は持ち家だったそうです。

1921年の漢口で6階建ビルはかなり珍しかったはずです。英国租界の中でも注目を集めるビルだったと思います。

最上階のベランダが設えてありますが、今も利用できるのでしょうか。足がすくみそうな高さです。

ビルは1938年の日本軍による武漢陥落後には日本軍が接収しましたが、当時何に使われたのかはわかりません。



なお、このビルの5階は1948年8月7日に起きたとされる集団強姦事件の現場です。その日ここで開催されたダンスパーティーで20人以上の米軍将校が30人以上の中国人女性に恥辱を尽くしたと。通報を受けた漢口警察局も取り合わず、武漢国民政府も事件を隠ぺいした事件とされています。

ネットでこのビルの情報を検索すると、この事件の情報ばかりが出てきます。



ビルは現在、武漢戦略発展研究所という組織が利用しています。
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漢口聖教書局旧址

2024-01-06 | 武漢を歩く
漢口の旧英国租界である鄱陽街で「聖教書局」と大きい旧字体の表札を掲げるレンガ造りの建物を見かけました。



キリスト教関連の建物だったようですが、書局とはなんでしょうか。

調べてみました。

この建物は、1911年にロンドン宣教会(London Missionary Society)の主導によってR.E.ヘミングスが設計して建てられたキリスト教関連書籍の印刷所だったようです。



当時、国内の聖書の70%がここで印刷・出版されていたのだとか。

日中戦争を経て戦後もその役割を担い続けたそうです。

2階部分と3階部分が回廊方式になっていて、優美な装飾が施されていてとても気品があります。

かなり保存状態が良好に見えますが、2015年に大規模な修復が行われたようです。
2階と3階部分の美しいレンガも実はこの時にオリジナルに忠実に入れ替えたのだとか。

ネットの情報によると、武漢の建築業界の中では歴史建築の優秀な修復事例として評価を得ているようです。





いずれにしても、そういう競争をしてくれるのはよいことです。

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漢口米国海軍YMCA旧址

2024-01-03 | 武漢を歩く
漢口米国海軍YMCA旧址は旧ロシア租界・黎黄陂路沿いに建っています。



1913年に建てられました。左右対称でバロックっぽい風格です。

4階建てですが、1階部分が低いので半地下構造でしょうか。

正面のエントランスは2階部分に通じているようです。

当時はセーラー服を着た米国人海兵がこの建物に出入りし、娯楽や交流を楽しんだのでしょうか。
中国にYMCAが入ってきたのは20世紀初頭です。

エントランスの上部に「YOUNG MEN’S CHRISTIAN ASSOCIATION」とレトロな書体の文字が残っています。租界時代の古写真を参照すると、これは当時のままのようです。



よく文字を残したものだと思いますが、武漢ではこのように当時の名称をそのまま壁面に残している建物をよく見かけます。そういう土地柄なのでしょうか。

立ち入りはできないようでした。
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塗堃山、傅紹庭公館

2023-12-28 | 武漢を歩く
漢口の旧ロシア租界の黎黄陂路に同じような3階建て洋館が二つ並んでいました。



武漢市商務局が使っているようですが、租界時代の建物だと思います。
なんだったのでしょうか。

守衛らしきおじさんに一声かけて、近づいて写真を撮らせてもらいました。



塗堃山、傅紹庭の旧居とあります。

調べたところ、塗堃山と傅紹庭はアジア石油会社(アジアチック・ペトロリアム、Asiatic Petroleum Company、シェルとロイヤル・ダッチの合弁企業)の買付人でした。

ここは1930年頃に魏清記造営工場が両者のために一棟ずつ建てた住宅なのだとか。

日本軍が武漢を占領した時代は、日本の行政部門がここを利用したようです。

どういう用途で使ったのでしょうか。
少し調べてみましたが、わかりませんでした。



二つの建物はほとんど作りです。3階建てのレンガ構造で、中央の2階部分にベランダが設えてあり、1階玄関部分の庇の役割を果たしています。

この建物が立つ黎黄陂路は石畳で感じのよい街路樹が並ぶ非常に美しい歩行者天国です。


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漢口の中国共産党中央委員会指導者住居旧居

2023-12-19 | 武漢を歩く
漢口の旧租界エリア・天津路でこんなレンガ造りの4階建ての洋館を見かけました。

交差点に面した一角が面取りしたように曲線になっているのが印象的です。

集合住宅だったのでしょうか。



目線よりだいぶ高い2階部分に文物のプレートが掛けてあるようです。



目を凝らすと、「中共中央領導人住居旧官邸旧址」と書いてあります。

調べてみると、ここは国共内戦時にかの周恩来や鄧小平が潜伏した場所のようです。

文献によると、1927年7月に第一次国共合作が決裂した際、共産党の組織と活動は地下に潜ったと。その際中央軍事委員会の書記だった周恩来、鄧穎超、瞿秋白、楊之華、李維漢、鄧小平がここに秘密裏に暮らしたのだと。

この間、彼らは党中央委員会の緊急会議を準備し、主宰し、秋の収穫暴動の開催を決め、幹部が地下に潜るための準備をしたと。
党の多くの重要な決議もこの住宅で行われたと紹介されています。

建物自体も1927年に建築されたようですが、最初から誰でも借りることができる集合住宅だったのでしょうか。

詳しい情報がわかりませんでした。
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漢口英国租界 英文楚報館(The Central China Post)旧址

2023-12-16 | 武漢を歩く
旧漢口英国租界の勝利路を歩いていると、こんな5階建て鉄筋コンクリートのクラシックリバイバル風の洋館がポツンとありました。



これはなんのビルだったのでしょうか。

湖北省文物保護単位を示すプレートに英文楚報館と書いてあります。



調べてみました。

「英文楚報」(The Central China Post)は、戦前の漢口に存在した英国資本の英字メディアでした。

ここはその新聞社の社屋だったようです。

ビルは1924年に建てられました。
当初の構造は鉄筋コンクリート造4階建てで、後に5階部分が増築されたようです。



英文楚報は明代末期の1904年に作られた英国資本のメディアでした。

創設者は英国人宣教師で漢口聖教書店の支配人だった人物で、主に中国各省のニュースを伝えた英字新聞でした。

当初は隔日の発行で、1911年に日刊化しました。1924年に建物が完成した後、ロイター通信もこの建物にオフィスを置きました。

1938年の日本軍による武漢陥落後、英文楚報は漢口で発行される唯一の英字新聞になりました。

「英文楚報」は1920年代から30年代にかけて、英国が中国で発行した四大新聞のひとつでした。

英文楚報は湖北省、湖南省、四川省、陝西省などの地方からのニュースを掲載するために教会ルートを頼りにしていました。当時、外国の新聞に掲載する武漢に関するニュースは、ほとんどがこのメディアから発せられました。

日中戦争が始まると、武漢の防衛に関する多くのニュースもここから欧米に発出されました。

1941年、日本軍は英文楚報を接収し、すべての財産を没収しました。

現在は別の名前のビルとなっていますが、近隣の住民は今でも新聞大楼と呼んでいるそうです。
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旧日清汽船株式会社漢口支店ビル

2023-12-13 | 武漢を歩く
沿江大通と江漢路の一帯は漢口の旧英国租界で最も華やかなエリアですが、その超一等地となる交差点に建っているのが旧日清汽船株式会社漢口支店ビルです。





日清汽船は明治40年に設立された日本の会社です。

今はグランドマディソンというホテルになっています。



日清汽船漢口支店は何度か社屋の建て替えをしているようです。
現存しているこの社屋は竣工は1930年です。

設計は当時の漢口で名を馳せていた英国資本のヘミングス&バークレー事務所が行いました。

地上5階、地下1階建てですが、とても実験的で遊び心があって、自由にのびのびと設計した感じが伝わってきます。

随所に工夫が凝らされていて、変化があるので眺めていて飽きません。

エントランスの1階と2階の間にはドーリア式列柱が、そして3階部分と4階部分には二重のイオニア式列柱が並んでいます。

各階に施された装飾やレリーフもとても優美で精巧です。
最上階の真ん中には古代ローマ風のドームが乗っています。

日清汽船の主要航路は上海−漢口でした。
このほか、漢口を発着する路線としては、宣昌線、湘潭線、常徳線がありました。



現在のロビーフロアです。当時、ここは乗船券売り場だったのでしょうか。



1920年に漢口を訪問した芥川龍之介も、おそらくこの日清汽船を利用したと思います。

日清汽船の隣は、漢口租界のランドマークである漢口税関(江漢関)です。





漢口の旧英国租界に残る日本関連の建物のうち、横綱クラスはこの日清汽船と横浜正金銀行の二つだと思います。

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