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【斥山之文皮】から春秋戦国時期の斎国と韓半島と日本列島の往来

2019-02-14 16:01:48 | 東亜歴史
《史記·齋太公世家》:“太公至国,因其俗,簡其礼,通商工之業,便魚塩之利,而人民多帰齋,齋为大国。齋文化は中原文化(夏商周文化)と東夷土着文化がお互いにぶつかり合って、お互いに統合した一つの時代の流れを体現している新しい文化。齋国春秋初期の地図。
齋国の初代王姜太公は開国通商の国策を選び、国勢が次第に強くなって、斎国は大国となる。春秋戦国時代大国齋国地図
《国語・齋語》:“通齋国魚塩之利于東莱,使関市飢而不徴,以为諸侯利,諸侯称広焉。”“飢而不徴”は貨物の数量だけ計算して税を徴収しない。“諸侯称広焉”は諸侯国通商の国策は諸侯に歓迎されている。
史書によると、管仲“設軽重魚塩之利,以贍貧窮,禄賢能,齋人皆悦。”齋桓公は春秋覇者と成り、齋国の開国通商政策が重要な経済基盤を築いた。春秋戦国時代の資料《管子·揆度》の記録によると、齋国の輸入品の最高の七つの商品の一つは朝鮮の文皮,実に朝鮮の虎の皮を指している。漢初の《尔雅・釈地》は斥山(石島赤山)が舶来の朝鮮の文皮(虎の皮)によって有名になる。
漢初の《博物志》:“齋国越海而東,通于九夷。”海外九夷と通商するということの意味。此処の九夷は韓半島だけじゃなくて日本列島含むの東アジア諸国だと思っています。
春秋末期の聖人孔子の《論語・子罕》:“子欲居九夷。或曰陋之如何。子曰 ,君子居之,何陋之有。”子、九夷に居らんと欲す。或ひと曰く、陋成り。(いかん)と。子曰く、君子之に居す,何の陋か之あらんと。
《論語・公治長》中的:“道不行,乘桴浮于海,从我者其由与。”子曰く、道行なわれず、桴(いかだ)に浮ばん。我に従う者は其れ由かと。子路之を聞て喜ぶ。孔子の言った九夷とは韓半島のこと、日本列島のことであろう。
漢初の史書《淮南子》は“東北の美は斥山の文皮がある焉。”斥山の文皮は朝鮮の文皮である。古代斥通赤字。古代の斥字は赤字である。斥山は赤山である、赤い色の石質(花崗岩)の山脈、即ち現在の名山は石島山脈(赤山山脈)。1918年の民国時代、赤山山麓の赤山河(车脚河)の付近に大量の齋国の刀銭が出土した。赤山の歴史は遥かに上回わりました。戦国時代、赤山は既に韓半島と日本列島の貿易拠点によって栄えてきた。春秋戦国時代の齋国は海外の探検、海外との貿易の大きな動きは齋国政府の提唱と厳密的に組織の対外貿易の行き先を切り開いて、中国で最も早い「海のシルクロード」を切り開いた。齋国の方々は東アジアのギリシア人だと思います。赤山山麓に出土した齋国の刀銭、「齋建邦長法化」,“法化”は齋国刀銭の名称、日本円の円の意味。“長”は長さ、価値の意味。“齋建邦”は齋の建国の意味。
韓国も中国戦国時代時代の齋国文化名品を大量に出土した。山東半島と韓半島の文化交流及び貿易活動は戦国時代に行われたことが証明された。韓国上林里遺址で出土した銅剣の3本は形式からすると「齋式剣」と呼ばれるもの。血槽付き直刃青銅剣は齋国から物で判明、戦国時代の齋式剣と呼ばれる。
韓国下岱遺址は一つの銅鼎(かなえ)が出土した。この銅鼎は戦国時代の齋式銅鼎と判明した。
韓国良洞里遺址は1本のネックレス(2枚水晶珠付き)が出土した。このネックレスは戦国時代の齋国の物だと判明した。
齋国の戦国時代の出土名品は韓国境内だけに出土した。齋国は海上航路を利用して韓半島の南西海岸に上陸して文化交流及び貿易活動が行われている。
日本の考古学者は“佐賀県高来郡三会樹景化園の弥生文化の墓に最古の紡績品が発掘します。測定によりますと齋国産の絹は大体同じ物が見なします。戦国時代の中日両国は山東半島の齋国から日本までの海上航路があると証明した。春秋時代の海外通商航路想像図2300年前から繋がり深いの山東半島と韓半島と西日本。