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石島谷牧故居(故郷)

2019-02-27 10:05:47 | 中日友好
谷牧は中華人民共和国の政治家。第5期国務院副総理、第7期中国全国政治協商会議副主席を務めた。1932年7月、中国共産党入党。故郷は威海市石島管理区寧津街道東墩村。元の名は劉家語だが。日中戦争期に家族に累ね(カサネ)が及ぶことを危惧(きぐ)して改名。
谷牧の生家の威海市は日本軍に2度も侵略された。日清戦争の威海衛の戦だけでなく、第2次世界大戦もだ。寧津街道には1回の倭寇来襲があった。侵略された惨め(惨め)な記憶は人々の心に深い傷を残した。だが谷牧は大義の為に文化革命で行き詰まった中国に新しい方向を示そうと、先進国だった日本の経験参考にしようとためらいなく中日友好の推進に尽力した。
石島は遣隋使と遣唐使のゆかりの街である。遣隋使の小野妹子は石島に出発して帰国。最後の遣唐使慈覚太師円仁も石島に出発して帰国。
89年、谷牧副総理が訪日した。谷牧先生は経済と対外開放分野を所轄(ショカツ)する責任者だった為、日本の大来佐武郎、向坂正男と西ドイツのグトウスキー先生を中国政府経済顧問に招聘(しょうへい)するよう中央政府に建言した。自らミッションを率いて日本を訪れ、日本政府と長期低利円借款(ODA)交渉に臨んだ。結果、資金不足という当時中国の大問題を解決し、同時に中日経済交流会と中日政府閣僚級会議を設置した。そのため、谷牧先生は日本の官界と民間を問わず尊敬された。
2008年7月1日、日本政府はこのほど、中日関係の発展への長年の抜き出た貢献を称え、中国の谷牧・元副総理に旭日(キョクジツ)大受章を授与した。
中国は国土が広区、また地形や気候の多様な国です。国内各地域では様々な自然条件と生活に適応する為に、各種の異なった形式の住居建築が作り上げられてきました。威海市の海草屋は自然環境の影響を反映した独特の建物です。海草屋とは、家の屋根が主に海岸の海藻を材料として作られた住居全体を示します。使用される海草は日本でいうアマモです。海草屋は冬に暖かく、夏に涼しいという特徴を持っています。また、海草はにがりを含む為、海草と黄泥で固めてある屋根は100年たっても腐乱さず、耐久性にも優れています。その上に、海草は燃えにくいので、火事に強いという特徴を持っていて、威海市では、元、明、清時代には海草屋が最も盛んに作られたとされます。漁村では海草を取りやすいので、昔より作られたました。1980年以降、海草は不足した為、新しい海草は段々無くなりました。今は屋根を葺き替えることもあります。今後、海草屋屋根を維持するのは益々困難になると思われます。特徴的な住居を持つ海草屋が威海市沿岸部の象徴の一つとして後世にその生活技術を受け継いでいくことは中国文化を守っていくことでもあります。谷牧故居は清嘉慶年間に建立された、威海伝統民居建築風格を持って四合院式海草屋。無料開放観光名所であります。
寧津街道海草屋民居があります。貴重な体験することが出来ます。

青島初春

2019-02-19 11:26:13 | 旅行
中国山東半島には青空と紺碧な海の中に、赤い煉瓦と緑の木に囲まれた綺麗な町➖青島がある。青島は海洋性気候で適度な湿度もあって良い気候に恵まれている中国屈指の海浜保養地になっています。
青島の初春の雪が綴られて水墨画のようにして美しい。青島カトリック教会の雪青島信号山の雪青島旧ドイツ総督官邸の雪旧ドイツ人生活区一角の雪
旧ドイツ総督府桟橋の雪旧ドイツ生活区一角の雪旧ドイツ生活区一角青島旧市街の夜景小青島新市街の夜景

【斥山之文皮】から春秋戦国時期の斎国と韓半島と日本列島の往来

2019-02-14 16:01:48 | 東亜歴史
《史記·齋太公世家》:“太公至国,因其俗,簡其礼,通商工之業,便魚塩之利,而人民多帰齋,齋为大国。齋文化は中原文化(夏商周文化)と東夷土着文化がお互いにぶつかり合って、お互いに統合した一つの時代の流れを体現している新しい文化。齋国春秋初期の地図。
齋国の初代王姜太公は開国通商の国策を選び、国勢が次第に強くなって、斎国は大国となる。春秋戦国時代大国齋国地図
《国語・齋語》:“通齋国魚塩之利于東莱,使関市飢而不徴,以为諸侯利,諸侯称広焉。”“飢而不徴”は貨物の数量だけ計算して税を徴収しない。“諸侯称広焉”は諸侯国通商の国策は諸侯に歓迎されている。
史書によると、管仲“設軽重魚塩之利,以贍貧窮,禄賢能,齋人皆悦。”齋桓公は春秋覇者と成り、齋国の開国通商政策が重要な経済基盤を築いた。春秋戦国時代の資料《管子·揆度》の記録によると、齋国の輸入品の最高の七つの商品の一つは朝鮮の文皮,実に朝鮮の虎の皮を指している。漢初の《尔雅・釈地》は斥山(石島赤山)が舶来の朝鮮の文皮(虎の皮)によって有名になる。
漢初の《博物志》:“齋国越海而東,通于九夷。”海外九夷と通商するということの意味。此処の九夷は韓半島だけじゃなくて日本列島含むの東アジア諸国だと思っています。
春秋末期の聖人孔子の《論語・子罕》:“子欲居九夷。或曰陋之如何。子曰 ,君子居之,何陋之有。”子、九夷に居らんと欲す。或ひと曰く、陋成り。(いかん)と。子曰く、君子之に居す,何の陋か之あらんと。
《論語・公治長》中的:“道不行,乘桴浮于海,从我者其由与。”子曰く、道行なわれず、桴(いかだ)に浮ばん。我に従う者は其れ由かと。子路之を聞て喜ぶ。孔子の言った九夷とは韓半島のこと、日本列島のことであろう。
漢初の史書《淮南子》は“東北の美は斥山の文皮がある焉。”斥山の文皮は朝鮮の文皮である。古代斥通赤字。古代の斥字は赤字である。斥山は赤山である、赤い色の石質(花崗岩)の山脈、即ち現在の名山は石島山脈(赤山山脈)。1918年の民国時代、赤山山麓の赤山河(车脚河)の付近に大量の齋国の刀銭が出土した。赤山の歴史は遥かに上回わりました。戦国時代、赤山は既に韓半島と日本列島の貿易拠点によって栄えてきた。春秋戦国時代の齋国は海外の探検、海外との貿易の大きな動きは齋国政府の提唱と厳密的に組織の対外貿易の行き先を切り開いて、中国で最も早い「海のシルクロード」を切り開いた。齋国の方々は東アジアのギリシア人だと思います。赤山山麓に出土した齋国の刀銭、「齋建邦長法化」,“法化”は齋国刀銭の名称、日本円の円の意味。“長”は長さ、価値の意味。“齋建邦”は齋の建国の意味。
韓国も中国戦国時代時代の齋国文化名品を大量に出土した。山東半島と韓半島の文化交流及び貿易活動は戦国時代に行われたことが証明された。韓国上林里遺址で出土した銅剣の3本は形式からすると「齋式剣」と呼ばれるもの。血槽付き直刃青銅剣は齋国から物で判明、戦国時代の齋式剣と呼ばれる。
韓国下岱遺址は一つの銅鼎(かなえ)が出土した。この銅鼎は戦国時代の齋式銅鼎と判明した。
韓国良洞里遺址は1本のネックレス(2枚水晶珠付き)が出土した。このネックレスは戦国時代の齋国の物だと判明した。
齋国の戦国時代の出土名品は韓国境内だけに出土した。齋国は海上航路を利用して韓半島の南西海岸に上陸して文化交流及び貿易活動が行われている。
日本の考古学者は“佐賀県高来郡三会樹景化園の弥生文化の墓に最古の紡績品が発掘します。測定によりますと齋国産の絹は大体同じ物が見なします。戦国時代の中日両国は山東半島の齋国から日本までの海上航路があると証明した。春秋時代の海外通商航路想像図2300年前から繋がり深いの山東半島と韓半島と西日本。

威海衛城の日の丸

2019-02-04 15:20:31 | 中国伝統文化
正面屏風彩画“海水朝日”,海水如く清、日月如く明。威海衛城の日の丸、日本の日の丸じゃないです。円形「天」、長方形「地」表しています。1901年、1902年の威海衛城東城門(現在威海百貨大楼)文昌閣、文昌閣は祭祀儀式、文人賢士集会の場所威海衛城の土地廟、道教信仰の場。
日本の日の丸は日本の正式な国旗、コンパスでの円形「天」、直角正規での四方形「地」表しています。日本の日の丸は中国道教の世界観の天円地方にあたります。
日本近代の戦争における日の丸と新聞報道によりますと、日清戦争といった表記が目立ち、日の丸は描写(ビョウシャ)されていない。日の丸より旭日旗が描かれているものが多い。日露戦争の頃になると、戦況記事の中に日の丸に関する話が載せられ始めている。
威海衛城の日の丸は中国人伝統文化の一つである。日の丸は中国人に昔から太陽崇拝、自然崇拝のの伝統文化の表現している。

成山頭日主神祠

2019-02-04 11:06:07 | 旅行
威海栄成成山頭の日主神は「史記・封禅書」にあった。その中で日主神は山東(春秋戦国時代の齋国)八神ー天主神・地主神・兵主神・陽主神・陰主神・月主神・日主神・四時主神ーの一つとしてあげられる、又は「成山は齋の国が太陽を崇める、特別場所である」と記されているのである。
古来より、成山頭は日神の住む地と考えられてきました。史記には、姜太公が周の武王を助けて天下を定めた後、ここに来て日神を拝み、日神祠を作った話。秦の始皇帝が紀元前219年と210年に来臨し、ここを「天尽頭(=天の果て)と呼んだ話、秦の始皇帝は太陽が真東から登ると、齋の神を祭ったわけですよね。齋の日主神を祭った話は古代封禅の一つである。今まで成山頭は秦の始皇帝の七刻石の一つ成山頭秦刻石の模刻が見られる。漢の武帝が東海を巡視し、日の出を拝んで、成山日主祠に参り、成山観を建てた話が記載されているほか、神話や伝説も多く残され、この地に神秘的な色合いを添えています。
成山頭は徐福の海を渡った話が残されている。成山頭始皇帝廟にて秦の始皇帝、宰相李斯、徐福の神位が供えて2000年を渡って祭祀を行われている。成山頭は戦国時代の『孟子・梁惠王』に記録されているのが最古とされる。『孟子・梁惠王』:“昔者齊の景公、晏子に問うて、曰く、吾転附朝舞を観て、海に遵、而うして南瑯琊に放らんと欲す。吾何を修めて而うして以って先王の観に比す可き。”注:転附は芝罘、朝舞は成山の地、皆山の名。秦の始皇帝と漢の武帝の巡礼は瑯琊から北上して芝罘、成山頭。
前567年、齊の霊公は山東半島の東莱を滅亡して、山東半島が齊の支配下領土であります。東莱は東夷民族の一つである。東夷時代は石器時代から、夏、殷商、周、春秋時代を経て終了。齊は東夷の継承者として東夷の八主の神が篤く崇敬された。今、成山頭は中国観光名所として人気がある。
莱芜北西部の“嬴城遺址”の文物によると、秦の先祖は西周初年の叛乱の失敗で甘肃に移住させた。秦の先祖は“商奄の民”,商奄は山東省の曲阜、莱芜の辺りでは,古代には嬴と呼ばれて、嬴姓の部族の支配地である。商奄は東夷民族の一つである。秦も東夷民族の継承者である。秦始皇帝は山東ハ主の神の祭祀を行われ、極めて重要な行動が執ったわけである。齊の人たちもその行動を見て秦というあるいは秦の帝王という権力者を受け入れたかもしれません。