徒然日記風に・・・

つれづれに記憶と記録を綴ってみたい

カツ丼の恩返し2

2012-06-28 19:47:31 | Weblog

カツ丼の恩返し2 

カツ丼にまつわる話だけどね。俺の青春の物語だよ。 

話は高校生の時代の話だけどね。俺は希望通りの高校に進学して一安心していたよ。進学校だったから勉強して優秀な大学に進むことが第一目標だったけどね。元々運動が好きで勉強は好きではなかった。中学時代は担任の女の先生が遠い縁戚関係で、俺とのルーツが判った段階でクラブ活動を止めさせられた。毎日のように放課後は補習授業をさせられて勉強させられたんだ。効果はてきめんで成績はポップ、ステップ、ジャンプと向上したよ。おかげで希望の進学校に合格をした。恩師のおかげだと感謝しているよ。

この出会いがないと柔道部も止めなかったと思うし、一ランク下の高校へ進学することになったと思うよ。その高校は私立高校で猛勉強組みと遊々人が混同しているような高校で、柔道部で一緒だった中学の番長も進学した高校だよ。番長は暴行して一年生で退学になった。俺もその学校に進学したら、遊々人の仲間入りをしていただろう。俺の人生も、人生観も変わっていたかもしれないね。

中学校のクラブ活動を中途で止めた反動もあって、俺は高校に入ったら運動部に入りたかった。中学校で一年間やっていた柔道部を見学していたよ。そうしたら、中学校からの仲間が俺の側に寄ってきた。そいつは中学校で体操部だった。俺に向かって言ったよ「○○よ、柔道は止めとけよ、お前は体操の素質があるよ、中学校の時も何度も誘っただろ、運動やるなら俺と一緒に体操をやろう」と誘われたよ。そいつは体操部が好きだったけど、素質はあるとはとても思えなかった。体系が体操向きではなく、俺が練習すれば直ぐにでも追いつけるレベルだった。それでも体操が好きで俺を口説き続けたんだ。柔道部なら男らしいけどね、体操はなんとなく女々しく感じたよ。それでも、軽業師のような技には興味があり、宙返りをしたり、忍者のような動きを身に着けてみたいとも思っていた。仲間に強引に引かれて体操部に入ったよ。

新入生の部員は9名位いたよ。皆は中学校から体操をやっていたらしい。先輩はと見れば、男の先輩は3年生が1名、2年生が1名しかいなかった。潰れそうなクラブで、一年生が9人も入って先輩方は大喜びしていたよ。俺は少しがっかりしたね。こんなクラブで、何か身に付くのかなと不安になった。潰れる寸前のようなクラブだから、体操器具が全部揃っていない。競技は6種目あり、床運動、吊り輪、鉄棒、平行棒、鞍馬、跳馬だよ。器具は跳馬と鞍馬がない、平行棒は女子と交代で練習だよ、鉄棒は体育館で組み立てなければ使えない。体育館は狭くて、他の部活と兼用しており、前半、後半に分かれて使っていた。卓球クラブと体操クラブと剣道部で体育館を3つに区分けして使ったよ。体操部は真ん中の5m程の幅を女子と兼用で使った。体育館の横幅では宙返りをするには助走が3歩程度しか走れない状態だった。酷い練習環境だったね。吊り輪は常設だから毎日のように触れたけどね。鉄棒は砂場の鉄棒だよ。バーが固くて撓らなくて練習しづらい、おまけに砂場の反対はブロック塀に松ノ木があって恐いんだ。車輪で吹っ飛んだらお陀仏って感じの環境だからね。跳馬と鞍馬は跳び箱で基礎運動を練習したよ。本物の器具は近隣校にお願いして練習させてもらったよ。

器具が無いから、床、吊り輪、鉄棒、平行棒と集中して練習したから、かえって早く技を身に着けたかもしれない。俺は高校から始めた体操部員だからね。床と鉄棒は劣ってしまうよ。平行棒、吊り輪、鞍馬はスタートラインが一緒だけどね。一年生の部員では劣等生からスタートしたよ。唯一、恵まれたことはクラブ顧問の先生だった。大学時代に関東大会で活躍をした現役の体操選手で、大学を卒業して我が校に新任で赴任して来てクラブ顧問になった。一言で素晴らしい顧問だった。体操理論が凄かった。技を身に着けるための基礎運動を知っていて、一つ一つの基礎運動をクリアーさせて最後に組み立てる。そんな方法の教え方で技を教えた。最後は本人の勇気が恐怖心を克服すれば技は習得できる。恐怖心を克服できない人はいくら体力や素質があっても伸びなかった。

顧問の先生の凄さは、安全対策が凄かった、失敗や事故のパターンを想定してクラブ員全体で補助し安全策を講じた。失敗しても怪我をさせない対策が恐怖心を半減させたよ。何しろ我が校にはセイフティマットが無い時代だからね。寝布団のマットレスを持ち寄ってセイフティマットにしていた状態だよ。失敗して頭から落ちたら危ない状態だからね。首の骨を折って半身不随の障害者になったり、死亡したりの事故が年に数度は何処かで起きていたよ。俺を誘って入部した仲間は鉄棒で落下して首の骨を損傷したよ。幸い怪我は軽く数ヶ月コルセットをつけて直したけどね、退部したよ。俺も鉄棒では数度落下してるよ。無茶をした結果だけど頭から落ちて目の前が真っ暗になった、幸いにも首の骨は無事だったよ。試合中にも仲間が鉄棒で落下して焦ったことがある。落下したマットには人型の冷や汗の後が残ったよ。俺の演技の前の出来事だったから、凄いプレッシャーだったよ。恐怖心を抱えたままの演技は緊張したね。常に事故のパターンは想定していたけどね、目の前で見ると恐怖心で金縛り状態になるよ。事故防止には神経を使ったよ。劣悪な練習環境だったけど、アットホームな雰囲気で楽しかったよ。怪我をすれば選手生命を奪われるからね、体のケアを念入りにしてからの練習だったから大きな怪我もしなかった。クラブ顧問にはワンツーマンの指導を受けて技の習得は早かったよ。伸び伸びとした指導で何のプレッシャーもなかったよ。

一年生での初めての大会は体育館の板張りの床のままでの床運動になった。入部して4ヶ月目の大会で緊張したが、特にまだ宙返りが完璧にできない状態であり恐怖心があった。頭から落ちたら首の骨を折るとの思いがめぐり、恐怖心を払拭できぬまま出番となってしまった。俺は覚悟を決めて宙返りをした。結果は手、足、頭が同時に着くような不完全なものだったがクリアーしたよ。達成感がみなぎってきた。緊張感と恐怖心に打ち勝った満足感だった「次からは宙返りは完璧にできる」俺の恐怖心は無くなった。このときから体操選手らしい演技ができたことにより、クラブの戦力としての仲間入りを果たすことができた。練習は楽しかった、何かできるように成る度に達成感が生まれた。何時しかクラブ仲間の中でも技を身に着けることが早くなった。

県大会で11月の新人戦が行われた。規定演技だけでも参加することになった。30位以内になれば自由演技に出られるのだが、俺の成績は24位に入賞していた。驚いたのはクラブ顧問や先輩方だった。誰も県大会で30位以内に入ったことが無いクラブだったのだ。翌日の自由演技への出場権を得たが、自由演技はしたことが無い、練習したこともない、したがって棄権をした。俺の成績はクラブ活動を始めて8ヶ月目での快挙なので誰もが信じられない結果だった。以後、俺はクラブ顧問の大きな期待を担うことになった。

翌年の県大会では自由演技もできるようにしなければならない。身についた技を組み立て自由演技の構成をしたが難度の高い技がない。一年足らずで6種目の演技を構成して、C難度の技を習得するのは至難のことだったけど、翌年の春までにはどうにか間に合った。できることを中心に演技を構成し、C難度の技を会得し組み入れる方法で全体構成が上手くいった。適切な指導と、焦らずに一歩一歩習得したことが良かったと思っている。目標は春の大会でベスト10位入りだったが甘くはなかった。結果は20数位でとても上位には及ぶものではなかった。当時は、ウルトラCはオリンピック選手の技だからね。高校生のレベルは低く、C難度の技ができれば十分だった。全体のレベルが低いから短期間でそれなりの結果が出せたとは思うけどね。無名校は評価が低く、採点が低いことや有名校のメンバーに惨敗したことが悔しく、打倒!有名校の闘志が湧いたよ。今では体操界には内村航平と言う天才がいるけどね。俺から見れば信じられない技をやっているね。凄いことだよ、奥が深いことは身に沁みて分かっていたけどね、ここまで高難度の技が必要になるとはね、驚きだよ。安全対策が進んだとは言え、命がけのスポーツだからね、恐いスポーツだよ。 

2年生の夏の合宿で吊り輪の練習をしているときに、おふざけで十字懸垂の練習をした。この技は力学的には止めることは不可能な技で、ましてや高校生レベルの筋肉では絶対に止めることは無理な技と考えられていた。肘の曲がった焼き鳥十字で抵抗しても止まらない、ましてや肘が伸ばせない、腕が折れそうな感覚になる、本気で習得できるものとは誰も思ってはいなかった。そんな時、顧問の先生とおふざけのやり取りがあった「十字を止めたら何でも奢ってやるよ」と顧問が言った。俺は「それなら先生、カツ丼を奢ってよ」と言った。顧問は「カツ丼なら誰かが一人でも止めれば全員奢れるな、いいよ!その賭け受けたよ」等の会話が交わされた。誰も叶わぬ約束と笑い飛ばしていたよ。

その後、おふざけで練習の合間に上半身だけでの組相撲をしたことがあった。両足を部員に抱えてもらって、上半身と腕だけで相手を組み伏せる遊びだった。筋力を競う遊びだったけどね、偶然にも俺は顧問の先生と競うことになった。顧問は筋肉隆々でとても勝てる相手ではない。組み伏せられそうになった状態で必死に我慢した、ダメだと思ったとたんに「ポクッ」と顧問の力が抜けた。顧問が痛がって悶絶している、何があったのかわからなかったが、顧問の肩が抜けた、脱臼したのだ。顧問はそのまま病院に直行したよ。後で、顧問が言っていた「俺は関節が弱くて大成できなかった、筋肉は鍛えられても骨格は鍛えられない、これだけは生まれもったものだから、いくら練習しても克服できないんだよ」と言ったんだ。

このとき俺はピンときた「俺の骨は強い、関節も強い、骨格の強さを生かせば十字懸垂は止められるかもしれない」と思ったんだ。関節は一定の角度より曲がらない、限度を超えれば関節が外れて脱臼する、関節の限界点で我慢すれば十字懸垂は止まると考えた「吊り輪には逆水平という力技がある、この技は習得していたので問題がない、肘は伸びている、肩関節は限界より手前の40度程度で止めている、これを90度までもっていって腕を真横に開き、体を縦にすれば十字懸垂の形になる」頭の中でイメージが出来上がった。肘は我慢ができる、後は肩関節がもつかどうかの問題だった。肩関節に引っ掛ければ十字は止まるとの自信はあったが、いきなりは危険で怪我をすることになるだろう。俺は仲間に手伝ってもらい、立ったまま腕を後ろに引き上げ限界点を探しながら腕を開き、体を持ち上げてもらう練習をした。力の入れ方が分かってきた、毎日練習するうちに体が浮くようになった。十字を止める力はある、肩は壊れないとの確信を得た。後は完成度の問題だった、体が垂直になり、腕は水平にならなければ完成にはならない。肩関節を捻ってあるので胸が落ちて、体が垂直にならない等の問題があったが、練習を重ねることにより、体を起こすことができた、最後の一歩は体を荷台に乗せるような感覚で肩関節に全体重を乗せた、十字懸垂はピタリと止まったよ。俺はこの姿勢でゆっくりと15数えることができた。試合では5秒間止めたよ、3秒では誤魔化しと見られる可能性もあったからね。

この技を身につけた効果は大きかった。他選手や審判団や指導者の見る目が変わったよ。俺の演技の採点は高得点が出るようになった。俺の名前が県下で意識される存在になった。クラブ顧問は嬉しそうにカツ丼を全員に奢ってくれた「カツ丼で十字懸垂を止める奴がいるなんて思わなかったよ、凄いよ、ビックリしたよ」と言って褒めてくれたよ。おふざけの賭けだったけど、十字懸垂をピタリと止めたことによって俺の体操の評価は上がったよ。俺の筋力で十字懸垂を止めることは誰も理解できなかったようだ。先生を脱臼までさせてしまったお詫びのようなもんだね。俺は以後「十字懸垂は技だよ、力だけでは止まらない、俺は骨格で止めているよ、コツがあるんだよ、これは技だよ」と言っているよ。

そして、2年目の春、クラブ活動の最後ともいえる県大会に臨んだ。この大会でベスト5位以内に入らなければ関東大会には出られない、全国大会にも出られない。6月には国体予選があるといっても、ここでベスト5位に入賞しなければクラブ活動は終了していただろう。進学校だからね、3年生は大学受験で追い詰められて時間がなくなっていた。たぶん、クラブ活動は終わりにして受験勉強していたと思う。

県大会での初日、規定演技が始まった。演技の精度もあり、スケールも大きくなって自信があった。力はベスト5位以内に入る自信があった「ライバルの演技はみてきた、俺の方が上手い」との自負心があった。顧問の先生も期待していた。しかし、結果は最悪だった。演技は失敗もなく演じることはできたが評価が出ない、審判の採点が低いのだ。結果は10位だった。規定を10位で終了したのでは総合5位以内に入るのは諦めざるをえない。ベスト5位以内はどう考えても無理な事態になってしまった。俺は諦めと、目に見えない敵への怒りが込み上げ自暴自棄になっていた。人間が目で見て採点する評価ほどいい加減なものはない、名門校への甘さと無名校の悲哀差を強く感じて悔しさを払拭できなかった。

帰宅すると「どうだった?」と親父に聞かれたけど、ダメだったと応えるのが精一杯でそのまま部屋に篭もった。涙が流れてきてどうにもならない、ベットに横になり、怒りを静める努力をしても涙が溢れてくる。泣き声のような状態になり声が出ない。そんな時だった、親父が部屋に入ってきた「悔しいのか、そんなことで男が泣くんじゃねえ、お前は凄い、たった2年でここまで結果を出すなんて凄いぞ、誰もできないことだぞ、十分にやっただろ、お前が負けていないと思えばそれが結果だよ、審判員が理解できなかっただけだ、もう結果は求めるな、明日は無になれ、悔しかったらお前の演技を見せ付けてやれ、失敗しても良いだろ、思い切ってやれ、体操をやるのもこれが最後だろ」と言って部屋を出ていった。俺は大学にいって体操を続ける気持ちは無かった。あくまでも、高校時代の部活動と考えていた。誘われて高校から始めた部活動でこんな結果が出るなんて考えてもいなかった。面白く楽しみながら無心でやっていた部活動が思わぬ結果を出し、頂点に届きそうに成ったとき欲が出た。頂点に立てば未曾有の快挙になる、あと一歩で届くかもしれないと思っていた俺は強欲になっていた。規定演技に出たのかもしれない、守りの演技でコンパクトになっていたかもしれない。俺は規定演技10位の結果で諦めがついた、親父の意見で身も心もスッキリした。明日の自由演技ですべてを出し切り、部活動の終大成にする決心ができた。

我が校から30位以内に入賞して自由演技に出場できるのは俺一人だった。演技のグループ分けで俺は有名校のメンバーが5人もいるグループに配属された。あまりの偶然にビックリしたけどね、俺はこいつらより上手いって自負心があったからね、嬉しかったよ。俺の演技はグループの6番目だからね、直接比較されるからね、前の演技者が上手ければ採点は高くなる、それを上回る演技をすれば採点はより高くなる。直接比較では誤魔化せないからね、素直に採点されるよ。俺はグループでトップの採点を連発したよ、劣ったのは跳馬と鞍馬だった。器具が無く、極端に練習していない種目だったからね。4種目の採点はトップだったけどね、2種目で総合点を落としたけど、自由演技の順位は1位だった。規定と自由演技を足して総合得点を出したら5位になって入賞したよ。正に奇跡とも言える大逆転だった。

有名校と同じグループで演技できた為に、関東大会への出場権を得たよ。俺自身、夢のような出来事だった。クラブ顧問も仲間も大興奮だよ。最後の最後に結果を手に入れた、誰もが信じられない大逆転劇だった。親父の一言が俺の心を軽くした。肩の力が抜けて体は軽かった、有名校への反発心が発奮させた「俺の方が上手い」心で叫ぶ最後の自己主張が実ったよ。関東大会に出場して帰ってくると俺の評価は上がって定着していた。全国大会、国体と出場して体操クラブの活動を終えたよ。2年7ヶ月余りの部活動だった。ほんの一瞬だけ学校を挙げての応援をしてくれたけどね。卒業後は顧問の移動により数年で廃部になってしまったよ。寂しい結末だけどね。

最初から同じことがもう一度できるかと言われたら「できない」と言うね。この快挙を実現するには様々な運が結びついて良い結果を出した。指導者にも恵まれていたし、仲間にも助けられた。怪我で練習できない時期も数度あったけど克服出来た。強運でもあったけど、周りの人々にも恵まれていたよ。すべてのタイミングが好転したよ、2度と同じタイミングで好転するとはとても思えないね。一度でもタイミングを外せば結果は得られなかっただろう。自分自身信じられない結果だった。これも、俺にとっては「カツ丼の恩返し」だね。

十字懸垂を止めてカツ丼を奢らせたことが、俺の体操の演技の評価を上げたからね。結果を出すことによって顧問に恩を返すことができた。顧問と交わした賭けを実現させてみたかった。カツ丼なんて普段から食っていたからね、特別食いたいほどのものではなかったけどね、もし実現したら、先生の初任給では可哀想だと思ってカツ丼にしたんだよ。まさかの実現で俺自身驚いているよ。

良き指導者に恵まれれば思わぬ結果が出ることもある。ヒョンナきっかけでヒントを得ることもある。本人の感性と資質にもよるけどね「人間は一人では何もできない、色々な人に支えられているんだよ」って言うことだろ。義理人情の世界だろ。一宿一飯の恩義とはヤクザ社会のものではないよ、人間としての感性の問題だよ。

人情が希薄になって殺伐とした社会になれば、人間としての価値を失っているって事だろ。強欲で、弱肉強食の世界なんて創りたくないね、人情のある人間社会を構築したいと思うね。古き良き時代の人情にも触れてみたいだろ。義理人情と言う言葉が俺は好きだよ。まともな人間社会には必要なものだよ。

 

 


カツ丼の恩返し

2012-06-27 10:16:44 | Weblog

カツ丼の恩返し

 

人の縁なんて不思議なものだね。どこでどんな縁が働いて、何処で誰に助けられるか分からないよ。

計算してできるものではない。シナリオどおりに物事が起きる訳でもないよ。

 

俺も青春時代に不思議な縁に出会ったよ。腐れ縁のおかげで助けられた。そんな不思議な気持ちを感じずにはいられなかった。ある出来事で、人の縁とはこんな形で繋がるものなんだなとつくづく感じさせられたよ。

 

人情とは相手に見返りを期待して施すものではないよ。人として、困っている人が居れば人として情けをかける。リスクはあってもメリットはない、それを覚悟の人情だろ。面倒な事には見て見ぬふりをしたくなるものだよ。でも、人に人情を与えるということは人としての美学でもあった。恐いこともあれば痛い思いをすることもある。勇気のいる行動でもあったね。人間の美学として感じていたよ。でも、なかなか実行できるものではない。君子危うきに近寄らずの名訓もあるからね。面倒くさいことには関わらないってことが現代の風潮だろう。殺伐とした人間関係の現われだね。いざとなれば誰も助けてはくれない、人に情けをかけても何も返ってはこない、損をするばかりだよ。自分は自分で守る、人の助けは期待できないと思ってしまうね。したがって、人情なんて捨てたほうが良い、割り切って、ドライに、クールに生きたほうが良いってことになるだろう。

自己中心主義の現れは、自己責任で生きるということでもあるけどね。昔の人にはよく言われたよ「人は一人では生きてはいかれないよ、どこで人様の世話になるか分からないよ、だから、自分にできることがあったら、人情をもって人に接することが必要だよ。明日はわが身だよ」って言われたもんだよ。子供心にしつこく言われても「ふーん」って感じでピンとはこなかったけどね。「人の縁なんてどこでどう繋がってるか分からないよ」って言われたもんだよ。

 

そんな不思議な縁を感じさせられることが俺にはあったよ。そのとき初めて実感したよ。不思議な縁をね。

 

俺が23歳の頃の出来事だよ。友達とスナックで飲んでいたときのことだった。俺がトイレに行って帰ってくると、仲間が言うんだよ。「お前、あの連中を知っているのか」とそっと指を指して聞くんだ。うっすらと暗闇でよくは見えないけどね、風体の悪い連中で、もろヤクザって感じのグループだった。

「知らないよ」って言ったら、さっきお前のことを聞きにきたぞ、お前の名前を確認して「やっぱり○○か、俺の知り合いだよ」って言われたよ。

そのうちに、グループの一人が俺たちのテーブルの方に寄ってきた。「おい、俺だよ ○○だよ。覚えているか、○○だろ」って俺の名前を呼ぶんだよ。

風体はレスラーのような体格をして金バッチを付けている。もろヤクザだよ。よく分からない、じっと見ていると昔の面影が見えてきた。中学生のときの同級生だった。なるべくしてなったヤクザの姿だった。

 

そいつは不運な男で、俺は中学の頃に同情して、励ましたり、相談相手になったりしたことがあった。奴は転校生だった。俺の中学校は市内でも有名な番長グループができていて、中学校の名前を出すだけでも、誰も手を出さない程の有名校だった。他校に行っては喧嘩をして制圧していく番長がいた。そんな環境に来た転校生で、チョットとっぽい感じの男だから、度々、番長グループに呼び出されては、殴られたりしていたらしい。

 

放課後、偶然に、校庭のトイレでそいつと一緒になった。泣き顔で様子が変なので「どうした、何かあったのか」と聞いたら、番長グループの一部に脅されて、殴られたと言っていた。俺は見るに見かねて「頑張れ、負けるんじゃないぞ、いざとなったら、俺が先生に話してやる。そんなことは続けさせないから、我慢できなくなったら俺に言え」と言って励ましたんだ。誰もが恐れる番長グループに文句を言うなんて危ない話だけどね。

俺は進学組みで不良グループではない。一年生の頃は柔道部にいて番長とは同期だったからいがみ合う関係ではなかった。柔道部は進学のため一年で止めてしまったけど、話せば分かるとの自信もあったからね。

 

それと、番長が他校と揉めて、50人くらいの不良グループに乗り込まれたことがあった。俺は帰宅途中でその群れに偶然出っくわしてしまった、番長が他校の50人くらいの群れに対して一人で対峙しているんだ。当校の不良連中は誰もいない。「どうした」と声を掛けたら「これから決闘をする」と言うんだよ。「一人でか」と言うと「そうだ」と言うので、俺はそこから離れられなくなった。元柔道部の仲間意識が働いて、知らん振りはできなくなった。決闘場の小学校のグラウンドまでお供することになった。2対50数名では勝ち目はない、ボコボコにやられる覚悟で付き合ってしまった。ところが、うちの番長は肝が据わっていたよ。遠巻きに囲まれても相手が手を出せない。タイマン勝負を要求したら相手がビビッタよ、誤解もあったようで話し合いが上手くいって、乱闘にもならずにその場を治めたよ。俺はそのまま巻き込まれずに「良かった」とほっとしたけどね。見てみぬふりはできなかったけど、振り返れば自爆行為だった。おそらく、番長はそのときの事を覚えていたんだろう。頼りない俺でも側にいたことが嬉しかったんだろう。俺は不良グループともめることはあまり無かったからね。そんな自信が俺にはあったのかもしれない。いざとなれば表ざたにしてでもクラスメイトを助けてやるとの思いがあった。「男は逃げるな、決して背中は見せるな!」が親の教訓だったからね。

 

虐められていたクラスメイトをそのまま帰すのも可哀相だから、飯でも食いに行こう、俺が驕るよと言って誘ったよ。知り合いの寿司屋に行って、カツ丼を食べた。そこのカツ丼は美味くて、よく食べていたんだけどね、そいつも美味いと言って喜んでいた。俺に声を掛けられたのが嬉しかったらしく、恩義を感じたらしい。元気を取り戻して帰ったよ。

その後、そいつは俺に相談することもなく、自分で事態の解決を図っていたようだ。俺に迷惑は掛けられないとでも思っていたようだ。不良グループに虐められながらも、一人で不良としての道を歩き続けていたよ。やがて、中学校も卒業となった。別々の高校に進学したけどね。あいつは、高校で恐喝をして一年生で退学になった。その後の消息は分からない。悪さをして少年院に入ったとの噂を聞いた程度だった。

 

成人してから数年が経ち、偶然にも、スナックでの再会となったわけで、奴は、嬉しそうに、懐かしそうに、俺に話しかけてきた。

堰を切ったように話し出し、お前には世話になった等の言葉を繰り返しては、中学校の頃の悔しさを語り、少年院を出てから、ヤクザになり、中学校時代の虐めたグループに仕返しをした話をした。元番長の足をナイフで刺して、どぶ川に投げ込んでやったと話していた。殺しはしないけど「2度と俺の目に入るんじゃねえ!と脅したよ。もう地元にはいないよ、東京に逃げたよ」と言っていた。

今や金バッチを付けてヤクザ社会では出世したらしい。なるべくしてなった極道の道だけど、新陳代謝の激しい世界だからね。お前も人生を大事にしろよと言って別れた。

懐かしい思い出にふけった夜だったよ。気持ちは何故か爽やかだった。仕返しをした話はリアルで、そこまでやったのかって感じで抵抗感があったけどね。こいつはこいつで自分の悔しさを晴らしたんだな、自分の力で果たしたんだな、いつか仕返ししてやるとの思いで生きてきたんだなと感じたよ。ヤクザの世界ではろくな人生は送れないなと思ったけどね、あのときの悔しさを晴らすために生きてきたんだな、それが奴の人生の証なんだなと思ったよ。その後、あいつとは会ったことはない。たった一度の偶然の出会いだった。

 

あいつに出会ってから数ヶ月経った頃、俺は交通事故を起こしてしまった。小学生を車でぶっつけて怪我をさせてしまったんだ。信号を右折して、アクセルを踏み込んだ瞬間に、右側車線に停止中の車の車列の間から子供が飛び出してきた。一瞬の出来事だった。ハット!感じた瞬間に、車のボンネットの上にはいきなり子供の顔が見えた、ブレーキを踏む間も無い、ハンドルも切れない、正に一瞬の出来事だった。慌ててブレーキを踏んだよ。車が止まるまでの時間が異様に長かった。走馬灯のようにシーンが見える。ボンネットの上の子供の顔がすべり落ちていく、このままでは車で轢いてしまう、車はスリップしたまま止まらない、子供はボンネットからすり落ちて姿が見えなくなった。車はしばらくして止まったが、子供を引いてしまったと思い込み激しいショックを受けた。絶望感がみなぎっていたが、慌てて車を降りて子供を確認しにいった。奇跡が起きていた、信じられない偶然が重なっていた、子供は無事だった。昔の車には左前部バンバーに車幅灯が付いていた、子供は車幅灯に挟まって地面に落ちてはいなかった。左前輪で轢かずに済んだのである。しかも車とガードレールの隙間は50センチ程度開いていた。ハンドルを切る間もなかったことが良い結果になった。車は真っ直ぐにスリップしてガードレールに接触しなかった。もしもガードレールにぶつかっていたら、子供の頭は潰れていたと思う。間違いなく殺してしまうところだった。信じられないほどの幸運が重なっていたよ。車のボンネットはベコリと凹んで生々しい傷跡が残っていた。頭を強く打ったかもしれないと心配したけどね、幸いにも意識は明瞭で軽傷だった。

 

一言で言えば運が良かったと言うことかもしれない。一瞬の間に数々の運の良さが連動した結果だった。子供は打撲程度の怪我にはなったけど、翌日は元気に部屋の中を走り回っている程度だった。被害者に丁寧にお詫びをして、幸いにも許してもらったが、事故の責任は重大な問題を抱えていた。若気の至りで俺の人身事故は二度目だった。過去に3重衝突による事故を起こし、重軽傷者20数名の大事故を起こした加害者だった。過失による事故で悪質なものではないが、運悪く大事故になってしまった前科があった。禁固刑を受けたが、運良く罰金で済んだけど、2度と事故は起こせない窮地に立っていた。この事故で交通刑務所入りは避けられないと覚悟した。

 

事故の当日、被害者を救急車に乗せ、病院へ搬送したが、現場検証では、事故の内容は子供の飛び出しであったとしても、俺は無免許運転だった。免許証を取り消されて、一年の謹慎期間中の事故だったのである。全面的に俺が悪かった。子供が軽傷だったことだけが唯一の幸運だった。

慎ましくまじめに謹慎していたのは事実だが、期間満了が近づき、もう少しで免許を取り直せると思いきや、魔が差したのである。用事を手っ取り早く終らせるためにも、昼間ならチョットぐらい大丈夫だろうと思い車を乗り出してしまったのである。しかし、たった一度の甘い考えでも、天は俺を許さなかった。この事故は正に天罰が下ったと思っている。一瞬の迷いを許しては貰えなかった。

 

車の運転には自信がある、事故さえ起こさなければ問題は無いと勝手に判断して、気をつけて運転していたにもかかわらず、人身事故を起こしてしまった。災いは天から降ってくる、正に子供は降ってきた、走って飛び込んできたのである。コントロール不能状態でなす術が無かった。これが事故なんだ、防ぎたくても防げない事故がある。車は急に止まれない、この意味が身に沁みたよ。

 

悪いことをしたから天罰が下った。災いは俺を目掛けて降り注いできた。これでも懲りないのかと執拗に覆いかぶさってきた。それでも、運が良かったから、子供の命が救われた、そして、俺の人生が救われた。この事故は、俺の人生を左右する重大な事故になった。幸いにも子供は軽傷で、被害者の理解も得られたため、交通刑務所に入ることもなく済んだ。今では許されない事だろう。数年は謹慎して車の運転はしなかったが、生活上不便でもあり、免許は取り直したけどね。物事を慎重に考えるようになったよ。

 

そんな状況下での人身事故だった。事故の当日、俺は逮捕された。パトカーに載せられて警察署に向かっていた。警察官には「今夜は帰せないぞ、身内に連絡をして来てもらえ、しばらく拘置所にお泊りだな」と言われていたところだった。走りだして数分経った時だった。

突然、パン、パン、パーンと無線から音が飛び出してきた。警察官が無線で緊急のやり取りをしている。何が起きたのか良くわからない。警察官が俺に向かって言った。「運が良いな、お前はここで降りろ、明日連絡するから、そのとき出頭しろ」と言った。「ヤクザの抗争で乱射事件が起きた、緊急出動になった」と言うことで、俺をここで降ろすということになったらしい。俺はその場で解放された。家に帰りニュースを見れば、乱射事件が報道されていた。翌日、新聞で犯人の名前を見て驚いたよ。打ち込んだ鉄砲弾の犯人は中学校時代の俺の同級生だった。スナックで再会した金バッチの男だった。まさか、あのときのパン、パン、パーンがあいつの打った銃声だったとはね、俺は驚いたよ。偶然の重なりとは言え、俺はあの銃声で解放された。ジャストタイミングだった。後、5分遅ければ警察署に到着していた距離だった。おそらく拘留されていたと思う。

 

おかげで俺は拘置所に入らずに済んだ。幸いにも交通刑務所にも入らずに済んだ。あの時、拘留されていたら俺の人生は変わっていたかもしれない。どん底に落ちる一歩手前で救われたような気がした。偶然とはいえ不思議な感覚で受け止めたよ。あいつの銃弾が俺を救った。あいつは何も知らない、俺も新聞を見て初めて知った、運命の悪戯か、これが縁というものなのか、人情というものが縁を結び、こんな形で繋がるなんて、不思議なもんだろ。これを俺は「カツ丼の恩返し」と思ったんだよ。あいつがこんな形で俺に恩を返したんだなとね。「刑務所は俺の行く所だよ、お前が行く所じゃないよ」と言われたような気持ちになったよ。

 

「縁は異なもの不思議なもの」「情けは人のためならず」だろ。単なる偶然かもしれないけどね。義理人情を感じる世代では、偶然でも偶然とは思えない縁を感じるってことだね。恩を返してくれと思うのはあさましい事だと思うけどね。恩は感じないとね。人としての生き様は見失いたくないね。これが俺の体験談だよ。俺にとってはカツ丼の恩返しだよ。災いが山ほど降り注いできた時代はこの事故で終了したよ。以後、運の悪さを感じたことも、悲観したことも無い。運命を真正面から受け止める人生観が生まれたよ。


戦時中の刑務官、トラック島の悲劇

2010-11-23 18:25:38 | Weblog

私の夫が書いた回想録です。祖父に子供のころに聞いた話が現実的で、リアルな話だったことに気がつき、トラック島の事を調べて書いたそうです。ドラマチックな話だけを聞いていて、現実はこれほど大きな犠牲者を出した話だとは思わなかったそうです。新たに戦争の悲劇を知りました。トラック島の悲劇は隠蔽されていたのですね。

 

 

戦時中の刑務官、トラック島の悲劇 

 

戦時中の刑務官が、受刑者を連れて南洋諸島に行った話は、刑務官であった祖父から聞きました。飛行場建設のための強制労働者として受刑者を働かせたそうです。祖父はトラック諸島に行って、受刑者を使って滑走路を造っていたと話していましたので、たぶん派遣先はトラック島だと思います。祖父がトラック島から帰国したときの話は聞きましたが、取り残された刑務官や受刑者がいた事は知りませんでした。取り残された刑務官や受刑者たちが沢山いたのなら、多くの犠牲者が出て、僅かな人々しか生還できるはずがありませんね。ネットに記載されていた情報では、飢餓に苦しみながら多くの死者を出したという悲惨な内容でした。祖父が何処に所属していたのかは正確に分かりません。千葉刑務所の看守(刑務官)から、配属されてトラック島に行ったと聞いています。当時、年齢は41歳位だと思います。役職は看守部長だったと聞いています。捕虜になることもなく日本に帰ってきた数少ない生還者の一人です。

 

「刑務官と受刑者のためのレクイエム」―終戦の日に寄せて―を読ませてもらい、トラック島の事実を知りました。祖父は運よく帰って来ましたが、残された刑務官と受刑者たちは飢餓状態となり、多くの人々は亡くなり、生き残った人々がアメリカ軍の捕虜となって、僅かな生存者が帰ってきたのですね。

 

刑務官150人、受刑者1800人という多くの人々が南洋諸島に派遣されたと記載されていました。捕虜になる前に帰ってきた刑務官は10数名と僅かだったと想定されます。トラック群島に取り残された刑務官は95人、受刑者は432人と記載されていました。1800人の受刑者が432人になっている経過は分かりませんが、飢餓状態で多くの人々が亡くなり、終戦後、最後に帰国できたのは刑務官70人、受刑者100人あまりになったと記載されていました。記録が少なく生存者や犠牲者の数が不確定ですが、他の文献の記述ではトラック島の受刑者は1300人との記載があり、終戦時の生存者は74人との記載があります。

 

刑務官の犠牲者は確認できる人数で36人+25人=61人以上であり、帰国できた刑務官は確認できる人数で4人+70人=74人と祖父が木造船で脱出したグループ(15人?)ということになりますね。確認できる人数で150人-40人-95人=15人(木造船で脱出したグループ?)なら最大値で89人の刑務官が帰国できたことになりますが、木造船の人数は不確定です。他の文献の記述では刑務官の犠牲者は40名との記載もあり、93名の生存が全体で確認されたような記載もあります。

 

受刑者の犠牲者は1800人-20人-100人=1680人を最大値とする犠牲者がでた可能性がありますね。受刑者の生存確認ができる人数で20人+100人=120人あまりでは9割以上の受刑者が犠牲になったことになります。他の文献の記述によって受刑者が1300人であったとしても、終戦時の生存者が74人であれば、全員見殺しにされたともいえるトラック島の悲劇ですね。

 

捕虜にならずに帰国できた刑務官は最大値で19名以内であり、木造船に乗って自力で帰国した祖父のグループが15名以内だったことになります。刑務官ですら、まともに日本に帰国できた人数は10数名しかいなかったということは、正に祖父の帰国は奇跡的な生還だったのですね。

 

私が話を聞いたときは小学生だったので、残された人々がいたこともその後どうなったかも祖父には聞けませんでした。置き去りになった人が沢山いたということは犠牲者の多い酷い話です。私は祖父の話を、取り残された人々が帰ってきた最後の帰国話だと思っていました。帰国できたことは「運が良かったな、よく帰れたな」と当時は感嘆していました。だから、私は子供ながらも「人の運命は自らの意思だけでは変えられるものではない」と思っていました。「人の命は一瞬にして決まる、運が悪ければ死に、運が良ければ生きている」と不思議な感覚で受けとめて「人はいつ死んでもおかしくはない」と死に対する恐怖と運命を感じました。

 

祖父が私にトラック島の話をしたのは、昭和39年頃です。既に20年も経過していました。私が話を聞ける年になったと思って話したのか、それとも話したくない事だったのか分かりません。最近になってから、私がトラック島の刑務官について調べていたら、横浜刑務所で「赤誠隊及び図南報国隊殉職者の石碑」の再慰霊祭が昭和39年6月に行われたと記載されていました。終戦時に埋設して隠されていたものが掘り起こされ、補修復元されたと書かれていました。たぶん、祖父はこの記事でも見てトラック島のことを思い出し、昭和39年頃に私に話したのかもしれません。印象に残っている差障りのない事だけを話したのかもしれません。受刑者がどうなったかまでは話しませんでした。

 

もしも、祖父がトラック島を脱出する木造船にも乗れなかったら、生きては帰れなかったかもしれません。受刑者に殺された可能性もあります。少数の刑務官が多くの受刑者を監督することは、刑務所内とは違い、何時、受刑者に寝首を刈られるか分からない恐怖と緊張感があったと話していました。特に寝るときが一番恐いので、刑務官の見張りを立てて睡眠を取ったといっていました。祖父は頭ひとつ抜けている程の大男でしたので、威圧感があり、受刑者たちも警戒しているようでしたが、油断できない日々だったそうです。戦地での刑務官たちと受刑者の関係は厳しい緊張関係にあったと推測できます。

 

祖父の班には名うての極道がいたと言っていました。若い刑務官たちが恐がり嫌がったので、祖父が預かったそうです。受刑者たちのリーダーです。極道の世界では大親分らしく、祖父も「一家皆殺しにするぞ!」と脅かされたそうですが、受刑者の立場をよく分からせて理解させたそうです。お互いに生きては帰れない状況を話したそうです。脅し切れないことが分かると、受刑者のリーダーは忠実によく働き、他の受刑者たちを纏めて動かし、指示をして作業効率をアップしたと言っていました。どの班よりも統制が取れていて受刑者の監督は楽だったそうです。

 

班の統制は取れていて順調な日々を過ごしたある日の事、リーダーの受刑者が、何処からかタバコをくすねてきて吸っているところを別の刑務官に見つかる事件が起きました。見つかった刑務官に規則違反で厳しく叱責されたそうです。リーダーの受刑者は担当の祖父に迷惑をかけると思い込み、祖父に小指を詰めて持ってきて、迷惑をかけたことを謝罪したそうです。先走って指を詰めるなんて、想像もしていなかった事態に驚いたと言っていました。私の記憶が定かではないのですが、祖父が配給のタバコをこの受刑者に少し与えたものかもしれません。リーダーの受刑者を可愛がっていたとの印象があります。

 

受刑者が、紙に包んだ物を持ってきて謝るので、「何だ!」と言って開けてみたら、白い蝋の塊のようなものに紐が付いていて、よく見たら爪があり小指だったそうです。小指には白い糸のようなものが1センチ程付いており、それは筋だったそうです。タバコの不始末で小指ですからね、驚きですね、極道のけじめのつけ方ですか。私はリアルな話でビックリしました。小指を噛み切るなんて狂気の沙汰ですからね、背筋がゾッとして絶対無理だと思いました。祖父は、刃物で切ったようなものではないので、どうやって小指を落としたのか聞いたら「刃物がないので、堅いもの(鉄板?)を小指に当てて石で叩いた、どうしても筋が切れなかったので、取れかけている小指を口に咥えて引き抜いた」と言うことだそうです。それにしても凄い話ですね! 祖父はこの行動をどう捉えたのか分かりませんが、この受刑者と祖父の間には心の絆があったのかもしれません。痛がるので直ぐ医者に治療させたそうですけどね、相当な痛みで苦しんだと言っていました。

タバコ1本の代償にしては大きいですね。祖父は他の看守からタバコの話は聞いたそうですが、大きな問題にする気はなかったと言っていました。よく働くリーダーなので、注意する程度で治めるつもりでいたようですが、本人は責任を強く感じたようです。祖父は先走った事をして驚いたと言っていました。感覚の違いですね、昔の極道の心粋ですかね。ヤクザ映画を見て、指を噛み切るシーンを見たときは祖父の話が思い出されました。背筋がゾッとして痛みもリアルに感じましたよ。トラック島の飛行場建設にも、刑務官と受刑者の間には、様々な人間模様やドラマがあったのですよ。小指の思い出話には男の意地や生き様を感じますね。祖父にとっても印象的な出来事で私に話したのだと思います。祖父もタバコ1本で指を詰めた心粋には圧倒されたのでしょうね。

 

「どんなに悪い奴でも人間、扱い方ひとつで心は通じる。受刑者を恐いと思ったらだめ、信じきってもだめ、馬鹿にしてもだめ、力だけで抑え込んでもだめ、人として扱わなければ心は通じない。刑務所の中とは違って、受刑者の扱い方は非常に難しい」等と言っていました。刑務官は常に受刑者の報復と暴動を恐れていたようです。

祖父は刑務官や受刑者たちを残して引き上げてきた事は話しませんでした。生きるためとはいえ、複雑な思いを抱いていたのではないでしょうか。戦局は悪く、日本にはもう帰れないと何度も覚悟したそうです。高熱を出して病気になり、最後の帰国船と思った船に乗れなかったときは「もうだめだ!日本には帰れない」と諦めたそうです。しかし、その帰国船は魚雷攻撃で撃沈されてしまい、乗船者は全員死んだと言っていました。「あの船に乗っていたら俺も死んでいた、人の運命なんて分からない。突然、高熱が出てあの船に乗れなくなったのは、先祖が俺を守ってくれたのかもしれない」とつくづくと運命を語っていました。

 

その後、漁船と言っていたような記憶がありますが、刑務官仲間がボロボロの木造船を調達してきて、命がけで船に乗って(15名?)島を脱出したそうです。戦況は沖でアメリカ軍が待ち構えていて、脱出を試みた船は次々と撃沈されていて、脱出するのは不可能の状態だったそうです。祖父の乗った船は、闇夜にまぎれて出航したと言っていました。潜水艦の魚雷にやられる覚悟の出航だから助かるとは思わなかったそうです。沖に出たら、船を狙った魚雷が2発、シュルシュルと音をたてて船の横腹めがけて向かってきたそうです。1発はど真ん中で間違いなく船に当たるコース「もうだめだ!」と死を覚悟したそうですが、運よく、2発の魚雷は船底を通過して当たらなかったそうです。「木造船は船底が浅いため魚雷は当たらなかった、ボロボロで頼り無くても木造船で救われた」と言っていました。

 

祖父の帰国は、二つの絶望が幸運に転じて命が救われ生還できたのです。正に運命とは分かりませんね。その後はどのような経路で帰国できたかは分かりません。木造船で自力脱出したグループが、日本に帰れたこと事態が奇跡ですね。祖父の「運が良かった!」その一言に安堵感がありました。チョットでもタイミングが悪ければ日本に帰れなかったかもしれない。危機一発の帰国であっても、悲壮感を感じさせることもなく体験談として話してくれました。私は今になって初めて体験談の凄さを再認識しました。凄い話をしていたのですね。

 

南洋諸島に派遣された刑務官と受刑者たちが、どの様な状況に置かれていたかの事実を知ったら酷い話ですね。トラック島に残された95人の刑務官、432人の受刑者が飢餓に苦しみながら過ごした島の生活は、想像を絶するものがあったでしょう。刑務官と受刑者はどの様な状態で共存したのでしょうか。受刑者の生存率は極端に悪いですからね。アメリカ軍の捕虜となって帰ってきた刑務官は70人、受刑者は100人あまり(74人?)とは、多くの犠牲者を出し、いかに島の生活が極限状態であったか想像されます。戦争の悲劇を語れば影の薄くなる話なのでしょうが、飛行場建設のために派遣された刑務官と受刑者にも、多くの犠牲を強いた強制労働は、言葉にできないトラック島の悲劇ですね。祖父のように、運よく捕虜にもならずに帰国できた刑務官の複雑な心境は、心の傷として残り、戦地に残った人たちの事は語れずに、心に押し込んでいたのかもしれません。祖父の奇跡の生還を改めて強く感じた次第です。

 

平成 22年 11月 20日

 



ワォー!お久しぶりで~す。

2010-10-23 19:48:22 | Weblog
3年半ぶりのブログです。

今年は猛暑だった夏もやっとすぎて、
今日は秋らしく少し肌寒く感じる風です。 もうすぐ冬ですね
に行きたいな~ のんびりしたいよ~
久しぶりのブログ!何を書いて良いのか 3年半の出来事をというと!
ありすぎ~ 以下省略って事で終わりにしよっと

今年になって初めてのブログです。

2008-02-09 20:11:37 | Weblog

今年もよい年になりますように!願いを込めて、久々のブログです。

明後日は、甥っ子の結婚式です。久しぶりの留袖です。  

箪笥の中から出して見るのも恐いぐらい久しぶりです。

着るのは、今回が3回目です。

1回目は、30年前の私の結婚式でした。

千葉の風習で、落ち着くという意味で披露宴の最後に、

花嫁が着るということで、1回目。

2回目は、20年前の妹の結婚式でした。

長男が生まれて4ヶ月だったので、着てるのがとても大変でした。  

 


お久しぶりです(^O^)/

2007-06-18 15:55:16 | Weblog

最近わたし、デジカメの練習をしてます。

なかなか面白いものです。意外な才能をみつけたりして

Photobackで、写真集も作りました。世界で一冊の写真集ですよ

 


お花見シーズン!(^^♪

2007-03-29 16:49:07 | Weblog

春ですね!

 桜も満開なのかな?ウキウキしても良いはずなのに、風が強くて、

花粉症の人には、辛いものがありますよね!\(◎o◎)/!

これからは、心ウキウキちょっとウトウト(-_-;)気持ちの良い季節です!

                                      

 

 

 

 


3月の花です

2007-03-19 17:19:32 | Weblog

この花は私( … )です (^_-)-☆

 

  


頭!すっきり爽やか!

2007-03-10 12:54:00 | Weblog

見てみる?

頭の中だから見せられないのが残念!

でも、ルンルン気分はわかってヽ(^o^)丿

実は昨日!バリ島仕込のバリバリの技術で

頭皮マッサージを体験しちゃった!(^_-)-☆

気持よくて!とても癒されました(*^^)v

 

 


梅の木にかわいいメジロがやってきた

2007-03-03 17:50:17 | Weblog

家の庭に大きな梅の木があります。

今年もかわいいメジロがやってきました。  

 
 

うまく見えますか?