徒然日記風に・・・

つれづれに記憶と記録を綴ってみたい

カツ丼の恩返し2

2012-06-28 19:47:31 | Weblog

カツ丼の恩返し2 

カツ丼にまつわる話だけどね。俺の青春の物語だよ。 

話は高校生の時代の話だけどね。俺は希望通りの高校に進学して一安心していたよ。進学校だったから勉強して優秀な大学に進むことが第一目標だったけどね。元々運動が好きで勉強は好きではなかった。中学時代は担任の女の先生が遠い縁戚関係で、俺とのルーツが判った段階でクラブ活動を止めさせられた。毎日のように放課後は補習授業をさせられて勉強させられたんだ。効果はてきめんで成績はポップ、ステップ、ジャンプと向上したよ。おかげで希望の進学校に合格をした。恩師のおかげだと感謝しているよ。

この出会いがないと柔道部も止めなかったと思うし、一ランク下の高校へ進学することになったと思うよ。その高校は私立高校で猛勉強組みと遊々人が混同しているような高校で、柔道部で一緒だった中学の番長も進学した高校だよ。番長は暴行して一年生で退学になった。俺もその学校に進学したら、遊々人の仲間入りをしていただろう。俺の人生も、人生観も変わっていたかもしれないね。

中学校のクラブ活動を中途で止めた反動もあって、俺は高校に入ったら運動部に入りたかった。中学校で一年間やっていた柔道部を見学していたよ。そうしたら、中学校からの仲間が俺の側に寄ってきた。そいつは中学校で体操部だった。俺に向かって言ったよ「○○よ、柔道は止めとけよ、お前は体操の素質があるよ、中学校の時も何度も誘っただろ、運動やるなら俺と一緒に体操をやろう」と誘われたよ。そいつは体操部が好きだったけど、素質はあるとはとても思えなかった。体系が体操向きではなく、俺が練習すれば直ぐにでも追いつけるレベルだった。それでも体操が好きで俺を口説き続けたんだ。柔道部なら男らしいけどね、体操はなんとなく女々しく感じたよ。それでも、軽業師のような技には興味があり、宙返りをしたり、忍者のような動きを身に着けてみたいとも思っていた。仲間に強引に引かれて体操部に入ったよ。

新入生の部員は9名位いたよ。皆は中学校から体操をやっていたらしい。先輩はと見れば、男の先輩は3年生が1名、2年生が1名しかいなかった。潰れそうなクラブで、一年生が9人も入って先輩方は大喜びしていたよ。俺は少しがっかりしたね。こんなクラブで、何か身に付くのかなと不安になった。潰れる寸前のようなクラブだから、体操器具が全部揃っていない。競技は6種目あり、床運動、吊り輪、鉄棒、平行棒、鞍馬、跳馬だよ。器具は跳馬と鞍馬がない、平行棒は女子と交代で練習だよ、鉄棒は体育館で組み立てなければ使えない。体育館は狭くて、他の部活と兼用しており、前半、後半に分かれて使っていた。卓球クラブと体操クラブと剣道部で体育館を3つに区分けして使ったよ。体操部は真ん中の5m程の幅を女子と兼用で使った。体育館の横幅では宙返りをするには助走が3歩程度しか走れない状態だった。酷い練習環境だったね。吊り輪は常設だから毎日のように触れたけどね。鉄棒は砂場の鉄棒だよ。バーが固くて撓らなくて練習しづらい、おまけに砂場の反対はブロック塀に松ノ木があって恐いんだ。車輪で吹っ飛んだらお陀仏って感じの環境だからね。跳馬と鞍馬は跳び箱で基礎運動を練習したよ。本物の器具は近隣校にお願いして練習させてもらったよ。

器具が無いから、床、吊り輪、鉄棒、平行棒と集中して練習したから、かえって早く技を身に着けたかもしれない。俺は高校から始めた体操部員だからね。床と鉄棒は劣ってしまうよ。平行棒、吊り輪、鞍馬はスタートラインが一緒だけどね。一年生の部員では劣等生からスタートしたよ。唯一、恵まれたことはクラブ顧問の先生だった。大学時代に関東大会で活躍をした現役の体操選手で、大学を卒業して我が校に新任で赴任して来てクラブ顧問になった。一言で素晴らしい顧問だった。体操理論が凄かった。技を身に着けるための基礎運動を知っていて、一つ一つの基礎運動をクリアーさせて最後に組み立てる。そんな方法の教え方で技を教えた。最後は本人の勇気が恐怖心を克服すれば技は習得できる。恐怖心を克服できない人はいくら体力や素質があっても伸びなかった。

顧問の先生の凄さは、安全対策が凄かった、失敗や事故のパターンを想定してクラブ員全体で補助し安全策を講じた。失敗しても怪我をさせない対策が恐怖心を半減させたよ。何しろ我が校にはセイフティマットが無い時代だからね。寝布団のマットレスを持ち寄ってセイフティマットにしていた状態だよ。失敗して頭から落ちたら危ない状態だからね。首の骨を折って半身不随の障害者になったり、死亡したりの事故が年に数度は何処かで起きていたよ。俺を誘って入部した仲間は鉄棒で落下して首の骨を損傷したよ。幸い怪我は軽く数ヶ月コルセットをつけて直したけどね、退部したよ。俺も鉄棒では数度落下してるよ。無茶をした結果だけど頭から落ちて目の前が真っ暗になった、幸いにも首の骨は無事だったよ。試合中にも仲間が鉄棒で落下して焦ったことがある。落下したマットには人型の冷や汗の後が残ったよ。俺の演技の前の出来事だったから、凄いプレッシャーだったよ。恐怖心を抱えたままの演技は緊張したね。常に事故のパターンは想定していたけどね、目の前で見ると恐怖心で金縛り状態になるよ。事故防止には神経を使ったよ。劣悪な練習環境だったけど、アットホームな雰囲気で楽しかったよ。怪我をすれば選手生命を奪われるからね、体のケアを念入りにしてからの練習だったから大きな怪我もしなかった。クラブ顧問にはワンツーマンの指導を受けて技の習得は早かったよ。伸び伸びとした指導で何のプレッシャーもなかったよ。

一年生での初めての大会は体育館の板張りの床のままでの床運動になった。入部して4ヶ月目の大会で緊張したが、特にまだ宙返りが完璧にできない状態であり恐怖心があった。頭から落ちたら首の骨を折るとの思いがめぐり、恐怖心を払拭できぬまま出番となってしまった。俺は覚悟を決めて宙返りをした。結果は手、足、頭が同時に着くような不完全なものだったがクリアーしたよ。達成感がみなぎってきた。緊張感と恐怖心に打ち勝った満足感だった「次からは宙返りは完璧にできる」俺の恐怖心は無くなった。このときから体操選手らしい演技ができたことにより、クラブの戦力としての仲間入りを果たすことができた。練習は楽しかった、何かできるように成る度に達成感が生まれた。何時しかクラブ仲間の中でも技を身に着けることが早くなった。

県大会で11月の新人戦が行われた。規定演技だけでも参加することになった。30位以内になれば自由演技に出られるのだが、俺の成績は24位に入賞していた。驚いたのはクラブ顧問や先輩方だった。誰も県大会で30位以内に入ったことが無いクラブだったのだ。翌日の自由演技への出場権を得たが、自由演技はしたことが無い、練習したこともない、したがって棄権をした。俺の成績はクラブ活動を始めて8ヶ月目での快挙なので誰もが信じられない結果だった。以後、俺はクラブ顧問の大きな期待を担うことになった。

翌年の県大会では自由演技もできるようにしなければならない。身についた技を組み立て自由演技の構成をしたが難度の高い技がない。一年足らずで6種目の演技を構成して、C難度の技を習得するのは至難のことだったけど、翌年の春までにはどうにか間に合った。できることを中心に演技を構成し、C難度の技を会得し組み入れる方法で全体構成が上手くいった。適切な指導と、焦らずに一歩一歩習得したことが良かったと思っている。目標は春の大会でベスト10位入りだったが甘くはなかった。結果は20数位でとても上位には及ぶものではなかった。当時は、ウルトラCはオリンピック選手の技だからね。高校生のレベルは低く、C難度の技ができれば十分だった。全体のレベルが低いから短期間でそれなりの結果が出せたとは思うけどね。無名校は評価が低く、採点が低いことや有名校のメンバーに惨敗したことが悔しく、打倒!有名校の闘志が湧いたよ。今では体操界には内村航平と言う天才がいるけどね。俺から見れば信じられない技をやっているね。凄いことだよ、奥が深いことは身に沁みて分かっていたけどね、ここまで高難度の技が必要になるとはね、驚きだよ。安全対策が進んだとは言え、命がけのスポーツだからね、恐いスポーツだよ。 

2年生の夏の合宿で吊り輪の練習をしているときに、おふざけで十字懸垂の練習をした。この技は力学的には止めることは不可能な技で、ましてや高校生レベルの筋肉では絶対に止めることは無理な技と考えられていた。肘の曲がった焼き鳥十字で抵抗しても止まらない、ましてや肘が伸ばせない、腕が折れそうな感覚になる、本気で習得できるものとは誰も思ってはいなかった。そんな時、顧問の先生とおふざけのやり取りがあった「十字を止めたら何でも奢ってやるよ」と顧問が言った。俺は「それなら先生、カツ丼を奢ってよ」と言った。顧問は「カツ丼なら誰かが一人でも止めれば全員奢れるな、いいよ!その賭け受けたよ」等の会話が交わされた。誰も叶わぬ約束と笑い飛ばしていたよ。

その後、おふざけで練習の合間に上半身だけでの組相撲をしたことがあった。両足を部員に抱えてもらって、上半身と腕だけで相手を組み伏せる遊びだった。筋力を競う遊びだったけどね、偶然にも俺は顧問の先生と競うことになった。顧問は筋肉隆々でとても勝てる相手ではない。組み伏せられそうになった状態で必死に我慢した、ダメだと思ったとたんに「ポクッ」と顧問の力が抜けた。顧問が痛がって悶絶している、何があったのかわからなかったが、顧問の肩が抜けた、脱臼したのだ。顧問はそのまま病院に直行したよ。後で、顧問が言っていた「俺は関節が弱くて大成できなかった、筋肉は鍛えられても骨格は鍛えられない、これだけは生まれもったものだから、いくら練習しても克服できないんだよ」と言ったんだ。

このとき俺はピンときた「俺の骨は強い、関節も強い、骨格の強さを生かせば十字懸垂は止められるかもしれない」と思ったんだ。関節は一定の角度より曲がらない、限度を超えれば関節が外れて脱臼する、関節の限界点で我慢すれば十字懸垂は止まると考えた「吊り輪には逆水平という力技がある、この技は習得していたので問題がない、肘は伸びている、肩関節は限界より手前の40度程度で止めている、これを90度までもっていって腕を真横に開き、体を縦にすれば十字懸垂の形になる」頭の中でイメージが出来上がった。肘は我慢ができる、後は肩関節がもつかどうかの問題だった。肩関節に引っ掛ければ十字は止まるとの自信はあったが、いきなりは危険で怪我をすることになるだろう。俺は仲間に手伝ってもらい、立ったまま腕を後ろに引き上げ限界点を探しながら腕を開き、体を持ち上げてもらう練習をした。力の入れ方が分かってきた、毎日練習するうちに体が浮くようになった。十字を止める力はある、肩は壊れないとの確信を得た。後は完成度の問題だった、体が垂直になり、腕は水平にならなければ完成にはならない。肩関節を捻ってあるので胸が落ちて、体が垂直にならない等の問題があったが、練習を重ねることにより、体を起こすことができた、最後の一歩は体を荷台に乗せるような感覚で肩関節に全体重を乗せた、十字懸垂はピタリと止まったよ。俺はこの姿勢でゆっくりと15数えることができた。試合では5秒間止めたよ、3秒では誤魔化しと見られる可能性もあったからね。

この技を身につけた効果は大きかった。他選手や審判団や指導者の見る目が変わったよ。俺の演技の採点は高得点が出るようになった。俺の名前が県下で意識される存在になった。クラブ顧問は嬉しそうにカツ丼を全員に奢ってくれた「カツ丼で十字懸垂を止める奴がいるなんて思わなかったよ、凄いよ、ビックリしたよ」と言って褒めてくれたよ。おふざけの賭けだったけど、十字懸垂をピタリと止めたことによって俺の体操の評価は上がったよ。俺の筋力で十字懸垂を止めることは誰も理解できなかったようだ。先生を脱臼までさせてしまったお詫びのようなもんだね。俺は以後「十字懸垂は技だよ、力だけでは止まらない、俺は骨格で止めているよ、コツがあるんだよ、これは技だよ」と言っているよ。

そして、2年目の春、クラブ活動の最後ともいえる県大会に臨んだ。この大会でベスト5位以内に入らなければ関東大会には出られない、全国大会にも出られない。6月には国体予選があるといっても、ここでベスト5位に入賞しなければクラブ活動は終了していただろう。進学校だからね、3年生は大学受験で追い詰められて時間がなくなっていた。たぶん、クラブ活動は終わりにして受験勉強していたと思う。

県大会での初日、規定演技が始まった。演技の精度もあり、スケールも大きくなって自信があった。力はベスト5位以内に入る自信があった「ライバルの演技はみてきた、俺の方が上手い」との自負心があった。顧問の先生も期待していた。しかし、結果は最悪だった。演技は失敗もなく演じることはできたが評価が出ない、審判の採点が低いのだ。結果は10位だった。規定を10位で終了したのでは総合5位以内に入るのは諦めざるをえない。ベスト5位以内はどう考えても無理な事態になってしまった。俺は諦めと、目に見えない敵への怒りが込み上げ自暴自棄になっていた。人間が目で見て採点する評価ほどいい加減なものはない、名門校への甘さと無名校の悲哀差を強く感じて悔しさを払拭できなかった。

帰宅すると「どうだった?」と親父に聞かれたけど、ダメだったと応えるのが精一杯でそのまま部屋に篭もった。涙が流れてきてどうにもならない、ベットに横になり、怒りを静める努力をしても涙が溢れてくる。泣き声のような状態になり声が出ない。そんな時だった、親父が部屋に入ってきた「悔しいのか、そんなことで男が泣くんじゃねえ、お前は凄い、たった2年でここまで結果を出すなんて凄いぞ、誰もできないことだぞ、十分にやっただろ、お前が負けていないと思えばそれが結果だよ、審判員が理解できなかっただけだ、もう結果は求めるな、明日は無になれ、悔しかったらお前の演技を見せ付けてやれ、失敗しても良いだろ、思い切ってやれ、体操をやるのもこれが最後だろ」と言って部屋を出ていった。俺は大学にいって体操を続ける気持ちは無かった。あくまでも、高校時代の部活動と考えていた。誘われて高校から始めた部活動でこんな結果が出るなんて考えてもいなかった。面白く楽しみながら無心でやっていた部活動が思わぬ結果を出し、頂点に届きそうに成ったとき欲が出た。頂点に立てば未曾有の快挙になる、あと一歩で届くかもしれないと思っていた俺は強欲になっていた。規定演技に出たのかもしれない、守りの演技でコンパクトになっていたかもしれない。俺は規定演技10位の結果で諦めがついた、親父の意見で身も心もスッキリした。明日の自由演技ですべてを出し切り、部活動の終大成にする決心ができた。

我が校から30位以内に入賞して自由演技に出場できるのは俺一人だった。演技のグループ分けで俺は有名校のメンバーが5人もいるグループに配属された。あまりの偶然にビックリしたけどね、俺はこいつらより上手いって自負心があったからね、嬉しかったよ。俺の演技はグループの6番目だからね、直接比較されるからね、前の演技者が上手ければ採点は高くなる、それを上回る演技をすれば採点はより高くなる。直接比較では誤魔化せないからね、素直に採点されるよ。俺はグループでトップの採点を連発したよ、劣ったのは跳馬と鞍馬だった。器具が無く、極端に練習していない種目だったからね。4種目の採点はトップだったけどね、2種目で総合点を落としたけど、自由演技の順位は1位だった。規定と自由演技を足して総合得点を出したら5位になって入賞したよ。正に奇跡とも言える大逆転だった。

有名校と同じグループで演技できた為に、関東大会への出場権を得たよ。俺自身、夢のような出来事だった。クラブ顧問も仲間も大興奮だよ。最後の最後に結果を手に入れた、誰もが信じられない大逆転劇だった。親父の一言が俺の心を軽くした。肩の力が抜けて体は軽かった、有名校への反発心が発奮させた「俺の方が上手い」心で叫ぶ最後の自己主張が実ったよ。関東大会に出場して帰ってくると俺の評価は上がって定着していた。全国大会、国体と出場して体操クラブの活動を終えたよ。2年7ヶ月余りの部活動だった。ほんの一瞬だけ学校を挙げての応援をしてくれたけどね。卒業後は顧問の移動により数年で廃部になってしまったよ。寂しい結末だけどね。

最初から同じことがもう一度できるかと言われたら「できない」と言うね。この快挙を実現するには様々な運が結びついて良い結果を出した。指導者にも恵まれていたし、仲間にも助けられた。怪我で練習できない時期も数度あったけど克服出来た。強運でもあったけど、周りの人々にも恵まれていたよ。すべてのタイミングが好転したよ、2度と同じタイミングで好転するとはとても思えないね。一度でもタイミングを外せば結果は得られなかっただろう。自分自身信じられない結果だった。これも、俺にとっては「カツ丼の恩返し」だね。

十字懸垂を止めてカツ丼を奢らせたことが、俺の体操の演技の評価を上げたからね。結果を出すことによって顧問に恩を返すことができた。顧問と交わした賭けを実現させてみたかった。カツ丼なんて普段から食っていたからね、特別食いたいほどのものではなかったけどね、もし実現したら、先生の初任給では可哀想だと思ってカツ丼にしたんだよ。まさかの実現で俺自身驚いているよ。

良き指導者に恵まれれば思わぬ結果が出ることもある。ヒョンナきっかけでヒントを得ることもある。本人の感性と資質にもよるけどね「人間は一人では何もできない、色々な人に支えられているんだよ」って言うことだろ。義理人情の世界だろ。一宿一飯の恩義とはヤクザ社会のものではないよ、人間としての感性の問題だよ。

人情が希薄になって殺伐とした社会になれば、人間としての価値を失っているって事だろ。強欲で、弱肉強食の世界なんて創りたくないね、人情のある人間社会を構築したいと思うね。古き良き時代の人情にも触れてみたいだろ。義理人情と言う言葉が俺は好きだよ。まともな人間社会には必要なものだよ。

 

 


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