徒然日記風に・・・

つれづれに記憶と記録を綴ってみたい

戦時中の刑務官、トラック島の悲劇

2010-11-23 18:25:38 | Weblog

私の夫が書いた回想録です。祖父に子供のころに聞いた話が現実的で、リアルな話だったことに気がつき、トラック島の事を調べて書いたそうです。ドラマチックな話だけを聞いていて、現実はこれほど大きな犠牲者を出した話だとは思わなかったそうです。新たに戦争の悲劇を知りました。トラック島の悲劇は隠蔽されていたのですね。

 

 

戦時中の刑務官、トラック島の悲劇 

 

戦時中の刑務官が、受刑者を連れて南洋諸島に行った話は、刑務官であった祖父から聞きました。飛行場建設のための強制労働者として受刑者を働かせたそうです。祖父はトラック諸島に行って、受刑者を使って滑走路を造っていたと話していましたので、たぶん派遣先はトラック島だと思います。祖父がトラック島から帰国したときの話は聞きましたが、取り残された刑務官や受刑者がいた事は知りませんでした。取り残された刑務官や受刑者たちが沢山いたのなら、多くの犠牲者が出て、僅かな人々しか生還できるはずがありませんね。ネットに記載されていた情報では、飢餓に苦しみながら多くの死者を出したという悲惨な内容でした。祖父が何処に所属していたのかは正確に分かりません。千葉刑務所の看守(刑務官)から、配属されてトラック島に行ったと聞いています。当時、年齢は41歳位だと思います。役職は看守部長だったと聞いています。捕虜になることもなく日本に帰ってきた数少ない生還者の一人です。

 

「刑務官と受刑者のためのレクイエム」―終戦の日に寄せて―を読ませてもらい、トラック島の事実を知りました。祖父は運よく帰って来ましたが、残された刑務官と受刑者たちは飢餓状態となり、多くの人々は亡くなり、生き残った人々がアメリカ軍の捕虜となって、僅かな生存者が帰ってきたのですね。

 

刑務官150人、受刑者1800人という多くの人々が南洋諸島に派遣されたと記載されていました。捕虜になる前に帰ってきた刑務官は10数名と僅かだったと想定されます。トラック群島に取り残された刑務官は95人、受刑者は432人と記載されていました。1800人の受刑者が432人になっている経過は分かりませんが、飢餓状態で多くの人々が亡くなり、終戦後、最後に帰国できたのは刑務官70人、受刑者100人あまりになったと記載されていました。記録が少なく生存者や犠牲者の数が不確定ですが、他の文献の記述ではトラック島の受刑者は1300人との記載があり、終戦時の生存者は74人との記載があります。

 

刑務官の犠牲者は確認できる人数で36人+25人=61人以上であり、帰国できた刑務官は確認できる人数で4人+70人=74人と祖父が木造船で脱出したグループ(15人?)ということになりますね。確認できる人数で150人-40人-95人=15人(木造船で脱出したグループ?)なら最大値で89人の刑務官が帰国できたことになりますが、木造船の人数は不確定です。他の文献の記述では刑務官の犠牲者は40名との記載もあり、93名の生存が全体で確認されたような記載もあります。

 

受刑者の犠牲者は1800人-20人-100人=1680人を最大値とする犠牲者がでた可能性がありますね。受刑者の生存確認ができる人数で20人+100人=120人あまりでは9割以上の受刑者が犠牲になったことになります。他の文献の記述によって受刑者が1300人であったとしても、終戦時の生存者が74人であれば、全員見殺しにされたともいえるトラック島の悲劇ですね。

 

捕虜にならずに帰国できた刑務官は最大値で19名以内であり、木造船に乗って自力で帰国した祖父のグループが15名以内だったことになります。刑務官ですら、まともに日本に帰国できた人数は10数名しかいなかったということは、正に祖父の帰国は奇跡的な生還だったのですね。

 

私が話を聞いたときは小学生だったので、残された人々がいたこともその後どうなったかも祖父には聞けませんでした。置き去りになった人が沢山いたということは犠牲者の多い酷い話です。私は祖父の話を、取り残された人々が帰ってきた最後の帰国話だと思っていました。帰国できたことは「運が良かったな、よく帰れたな」と当時は感嘆していました。だから、私は子供ながらも「人の運命は自らの意思だけでは変えられるものではない」と思っていました。「人の命は一瞬にして決まる、運が悪ければ死に、運が良ければ生きている」と不思議な感覚で受けとめて「人はいつ死んでもおかしくはない」と死に対する恐怖と運命を感じました。

 

祖父が私にトラック島の話をしたのは、昭和39年頃です。既に20年も経過していました。私が話を聞ける年になったと思って話したのか、それとも話したくない事だったのか分かりません。最近になってから、私がトラック島の刑務官について調べていたら、横浜刑務所で「赤誠隊及び図南報国隊殉職者の石碑」の再慰霊祭が昭和39年6月に行われたと記載されていました。終戦時に埋設して隠されていたものが掘り起こされ、補修復元されたと書かれていました。たぶん、祖父はこの記事でも見てトラック島のことを思い出し、昭和39年頃に私に話したのかもしれません。印象に残っている差障りのない事だけを話したのかもしれません。受刑者がどうなったかまでは話しませんでした。

 

もしも、祖父がトラック島を脱出する木造船にも乗れなかったら、生きては帰れなかったかもしれません。受刑者に殺された可能性もあります。少数の刑務官が多くの受刑者を監督することは、刑務所内とは違い、何時、受刑者に寝首を刈られるか分からない恐怖と緊張感があったと話していました。特に寝るときが一番恐いので、刑務官の見張りを立てて睡眠を取ったといっていました。祖父は頭ひとつ抜けている程の大男でしたので、威圧感があり、受刑者たちも警戒しているようでしたが、油断できない日々だったそうです。戦地での刑務官たちと受刑者の関係は厳しい緊張関係にあったと推測できます。

 

祖父の班には名うての極道がいたと言っていました。若い刑務官たちが恐がり嫌がったので、祖父が預かったそうです。受刑者たちのリーダーです。極道の世界では大親分らしく、祖父も「一家皆殺しにするぞ!」と脅かされたそうですが、受刑者の立場をよく分からせて理解させたそうです。お互いに生きては帰れない状況を話したそうです。脅し切れないことが分かると、受刑者のリーダーは忠実によく働き、他の受刑者たちを纏めて動かし、指示をして作業効率をアップしたと言っていました。どの班よりも統制が取れていて受刑者の監督は楽だったそうです。

 

班の統制は取れていて順調な日々を過ごしたある日の事、リーダーの受刑者が、何処からかタバコをくすねてきて吸っているところを別の刑務官に見つかる事件が起きました。見つかった刑務官に規則違反で厳しく叱責されたそうです。リーダーの受刑者は担当の祖父に迷惑をかけると思い込み、祖父に小指を詰めて持ってきて、迷惑をかけたことを謝罪したそうです。先走って指を詰めるなんて、想像もしていなかった事態に驚いたと言っていました。私の記憶が定かではないのですが、祖父が配給のタバコをこの受刑者に少し与えたものかもしれません。リーダーの受刑者を可愛がっていたとの印象があります。

 

受刑者が、紙に包んだ物を持ってきて謝るので、「何だ!」と言って開けてみたら、白い蝋の塊のようなものに紐が付いていて、よく見たら爪があり小指だったそうです。小指には白い糸のようなものが1センチ程付いており、それは筋だったそうです。タバコの不始末で小指ですからね、驚きですね、極道のけじめのつけ方ですか。私はリアルな話でビックリしました。小指を噛み切るなんて狂気の沙汰ですからね、背筋がゾッとして絶対無理だと思いました。祖父は、刃物で切ったようなものではないので、どうやって小指を落としたのか聞いたら「刃物がないので、堅いもの(鉄板?)を小指に当てて石で叩いた、どうしても筋が切れなかったので、取れかけている小指を口に咥えて引き抜いた」と言うことだそうです。それにしても凄い話ですね! 祖父はこの行動をどう捉えたのか分かりませんが、この受刑者と祖父の間には心の絆があったのかもしれません。痛がるので直ぐ医者に治療させたそうですけどね、相当な痛みで苦しんだと言っていました。

タバコ1本の代償にしては大きいですね。祖父は他の看守からタバコの話は聞いたそうですが、大きな問題にする気はなかったと言っていました。よく働くリーダーなので、注意する程度で治めるつもりでいたようですが、本人は責任を強く感じたようです。祖父は先走った事をして驚いたと言っていました。感覚の違いですね、昔の極道の心粋ですかね。ヤクザ映画を見て、指を噛み切るシーンを見たときは祖父の話が思い出されました。背筋がゾッとして痛みもリアルに感じましたよ。トラック島の飛行場建設にも、刑務官と受刑者の間には、様々な人間模様やドラマがあったのですよ。小指の思い出話には男の意地や生き様を感じますね。祖父にとっても印象的な出来事で私に話したのだと思います。祖父もタバコ1本で指を詰めた心粋には圧倒されたのでしょうね。

 

「どんなに悪い奴でも人間、扱い方ひとつで心は通じる。受刑者を恐いと思ったらだめ、信じきってもだめ、馬鹿にしてもだめ、力だけで抑え込んでもだめ、人として扱わなければ心は通じない。刑務所の中とは違って、受刑者の扱い方は非常に難しい」等と言っていました。刑務官は常に受刑者の報復と暴動を恐れていたようです。

祖父は刑務官や受刑者たちを残して引き上げてきた事は話しませんでした。生きるためとはいえ、複雑な思いを抱いていたのではないでしょうか。戦局は悪く、日本にはもう帰れないと何度も覚悟したそうです。高熱を出して病気になり、最後の帰国船と思った船に乗れなかったときは「もうだめだ!日本には帰れない」と諦めたそうです。しかし、その帰国船は魚雷攻撃で撃沈されてしまい、乗船者は全員死んだと言っていました。「あの船に乗っていたら俺も死んでいた、人の運命なんて分からない。突然、高熱が出てあの船に乗れなくなったのは、先祖が俺を守ってくれたのかもしれない」とつくづくと運命を語っていました。

 

その後、漁船と言っていたような記憶がありますが、刑務官仲間がボロボロの木造船を調達してきて、命がけで船に乗って(15名?)島を脱出したそうです。戦況は沖でアメリカ軍が待ち構えていて、脱出を試みた船は次々と撃沈されていて、脱出するのは不可能の状態だったそうです。祖父の乗った船は、闇夜にまぎれて出航したと言っていました。潜水艦の魚雷にやられる覚悟の出航だから助かるとは思わなかったそうです。沖に出たら、船を狙った魚雷が2発、シュルシュルと音をたてて船の横腹めがけて向かってきたそうです。1発はど真ん中で間違いなく船に当たるコース「もうだめだ!」と死を覚悟したそうですが、運よく、2発の魚雷は船底を通過して当たらなかったそうです。「木造船は船底が浅いため魚雷は当たらなかった、ボロボロで頼り無くても木造船で救われた」と言っていました。

 

祖父の帰国は、二つの絶望が幸運に転じて命が救われ生還できたのです。正に運命とは分かりませんね。その後はどのような経路で帰国できたかは分かりません。木造船で自力脱出したグループが、日本に帰れたこと事態が奇跡ですね。祖父の「運が良かった!」その一言に安堵感がありました。チョットでもタイミングが悪ければ日本に帰れなかったかもしれない。危機一発の帰国であっても、悲壮感を感じさせることもなく体験談として話してくれました。私は今になって初めて体験談の凄さを再認識しました。凄い話をしていたのですね。

 

南洋諸島に派遣された刑務官と受刑者たちが、どの様な状況に置かれていたかの事実を知ったら酷い話ですね。トラック島に残された95人の刑務官、432人の受刑者が飢餓に苦しみながら過ごした島の生活は、想像を絶するものがあったでしょう。刑務官と受刑者はどの様な状態で共存したのでしょうか。受刑者の生存率は極端に悪いですからね。アメリカ軍の捕虜となって帰ってきた刑務官は70人、受刑者は100人あまり(74人?)とは、多くの犠牲者を出し、いかに島の生活が極限状態であったか想像されます。戦争の悲劇を語れば影の薄くなる話なのでしょうが、飛行場建設のために派遣された刑務官と受刑者にも、多くの犠牲を強いた強制労働は、言葉にできないトラック島の悲劇ですね。祖父のように、運よく捕虜にもならずに帰国できた刑務官の複雑な心境は、心の傷として残り、戦地に残った人たちの事は語れずに、心に押し込んでいたのかもしれません。祖父の奇跡の生還を改めて強く感じた次第です。

 

平成 22年 11月 20日

 



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1 コメント

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Unknown (dankkochiku)
2010-11-24 12:13:04
「刑務官と受刑者のためのレクイエム」のブロガーです。こちらへお邪魔し、拝読しました。戦争はいつも下の者ほど悲劇をもたらします。昨日起こった北朝鮮-韓国との砲撃戦、拡大しないことを祈るばかりです。

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