ザウルスの法則

真実は、受け容れられる者にはすがすがしい。
しかし、受け容れられない者には不快である。
ザウルスの法則

ザウルス哲学メモ (2) “可能性” について

2016-04-02 11:33:06 | 哲学・歴史・考古学

 

わたしの最大の誤り

わたしは失敗の多い人間であり、その多くは誤った思い込みに起因していると言える。中でもおそらくわたしの最大の誤りと考えられるものがある。それは、「人間は誰でも真実を歓迎する」 という思い込みである。わたしは生まれてから優に半世紀以上もこの誤った観念のもとに生きてきた。そして、つい最近、これがとんでもない誤りであることに気がついたのである。

もちろん、真実を歓迎する人間はいることはいる。しかし、そういった人間は世の中のほんの一握りに過ぎず、圧倒的多数は、必ずしも “真実” を歓迎しないのだ。それどころか、むしろ “真実” を敬遠、忌避するというのが現実だった。

この誤った思い込みのために、わたしは実に多くの時間と労力を無駄に費やしてきた。“真実” というものがごく限られた人間の関心事であることが分かっていたならば、わたしはそういうひとたちだけに発信してきただろうし、それによって、無駄に “敵” を作らずに済んだかもしれない。   2015/10/09 

 

 目の前にあっても見えないひとたち

 多数意見が正しくて、少数意見はたぶん間違っているのだろう、と思って生きている人には何年経っても “重要な真実” が見えてくることはない。いくらせっかく目の前に “重要な真実” が転がっていてもわからないのだ。いくら説明されても、そんな “重要な真実” が自分の目の前に転がっているわけがない、と確率的に判断するばかりで、自分で検証しようとしないのである。

自分の頭、自分の感性で判断しないで、いつもエラいひとが代表しているような権威ある多数意見に従っているだけのひとたちにはいつだってエキサイティングな “重要な真実" は見えないのだ。 彼らはいつも “つまらない真実” に甘んじざるを得ない宿命にある。   2015/10/18 

 

その時代に重要な真実は、常に最初は少数意見として浮上する

どんな重要な真実も、最初は多数のひとたちが馬鹿にするような少数意見として浮上する。いつも多数意見に与(くみ)して生きているひとたちは、そうした重要な真実にたまたま行き当たっても、自分で判断できないので、少数意見だというだけで笑い飛ばすしか方法がない。自分の頭と感性で物事を判断できるごく一部の人間だけがそうした少数意見に注目する。多数意見になるのに50年も百年も待たずに、わかるひとにはリアルタイムに一瞬でわかる。    2015/10/18 

 

 

 “可能性” は1かゼロである。可能性に大小や高低はない

 

「その可能性は極めて小さい」 とか、「その可能性が高い」 といった表現が新聞、テレビ、週刊誌、ネットに氾濫している。その影響でそういった言い方をするひとがまわりにも増殖している。内容的にはかなりレベルの高い論客でもこういう表現を平気で使っている場合がある。こうした表現を見たり、聞いたりするたびにわたしはガックリしている。

可能性というものは有るか無いかのどちらかであって、その間(あいだ)はないのだ。 “1” か “0” ゼロ なのである。

これはヴィトゲンシュタインが口を酸っぱくして言っていたことである。可能性には大きいだの、小さいだの、高いだの、低いだのは無いのである。そういう表現を使っているひとは “論理的な雰囲気” を醸し出して多少気取ったつもりなのだが、実は自分がものごとをきちんと論理的に考えていないことをさらけ出しているようなものなのだ。

あなたのまわりにもいるはずだ、「その可能性は小さい」 「その可能性が高い」 などと言いながら、自分は論理的思考に長けていると思いこんでいる人間が。

 

A:「来週関東地方に大地震が起きる可能性がある」 と言うことと、

B:「来週関東地方に大地震が起きる公算が大である」 と言うこと、

には天と地ほどの違いがある。A は常にあるのだ。しかし、 Bがそんなに頻繁にあっては困る。

 

 

“宝くじに当たる可能性”

「可能性がある」 とは論理的に矛盾がなく成立し得て、科学的にも決して不可能なことではなく、実際に起こり得ること、成立しうることをいう。

たとえば、「今日、宝くじを1枚買うとそれが当たって5億円が手に入る」 ということはゆうに「可能性がある」 ことだ。それは論理的にも矛盾はなく十分に成立しうる事象である。

しかし、「買っていない宝くじが当たって5億円が手に入る」 となると、これは論理的に無理があって成立しえず、「可能性がある」 とは言えないことになる。そもそも 宝くじを買っていないのであるから 「当たる」 可能性はゼロである。

また宝くじを1枚だけ買った人と、まとめて3千枚買った人でも、5億円が当たる可能性はどちらにも等しくあるのだ。どちらも5億円が当たる可能性は “ゼロ” ではなく、 “1” なのだ。どちらの人も枚数に全く関係なく、単に宝くじを持ってるというだけで、可能性は “1” なのだ。

宝くじが封筒に1枚入っていようが、カバンに3千枚入っていようが、そこには区別はない。宝くじを持っているというだけで同じなのである。一方、宝くじを持っていない人たちの場合は、宝くじが当たって5億円が手に入る可能性は、どう足掻いても “0 ゼロ” なのだ。この “1” と “ゼロ” の違いこそ、“可能性” という概念の本質である。

いくらこう説明しても、多くのひとは何となく、可能性  "possibility" には “程度の差” があるように根強く思っている。それは単に、マスコミによる 「~という可能性が高い」 などといった通俗的な非論理的誤用を活字と音声でさんざん刷り込まれたためである。

実は、“程度の差” があるのは、 “確率 probability”  もしくは、“公算 likelihood” なのである。程度の差が言えるのは、“公算” もしくは “確率”、“蓋然性” のほうであって、“可能性” ではないのだ。

確率が高い、公算が大きい、蓋然性が高い、などと正しく言えばいいだけのことだ。

せっかく “可能性” とは論理的にはっきり区別される、きちんとした言葉と概念がありながらも、「可能性が大きい」 だの、「可能性が低い」 だの 「可能性が高い」 だのと平気で言っているとなると、これは日本語に問題があるのではなく、個々人の論理的思考力の問題ということになる。日本語のせいにはできない事柄である。

こう言うと、必ずやこう反論する人間がいるはずだ。日本語の “可能性” という言葉には “確率” “公算” という意味も含まれているのであって、“可能性が大きい” “可能性が低い” という言い方は間違いではないのだ、云々」 と。わたしには、そういうセコいことを言う人間のセコい心理が手に取るようにわかる。

いかにももっともそうに聞こえる この “現状肯定論” の致命的な点 は、“可能性” という用語の非論理的な誤用によって、可能性” という言葉の本来の意味、元々の概念が忘れられ、失われ、論理的思考が損なわれるという害悪をなしているところにある。

つまり、“可能性”  と “公算や確率”  との概念的区別が自分でもつかなくなり、聞く側、読む側までも非論理的な思考に引きずり込むという重大な弊害があるのだ。“可能性” という “哲学的に非常に重要な概念” の “通俗的な論理的誤用” に貢献しているのである。

いくら開き直って反論しても、けっきょくは自らの単なる 言葉の貧困 論理的思考力の欠如 を露呈しているだけなのである。本人はカッコつけているつもりなのだが、哲学的無知、非論理性をさらけ出しているのである。

 

「こぶし大の隕石 が降ってきて、あなたの頭に命中してあなたが即死する可能性 がある。」

この可能性を誰が否定できようか?絶対無いと誰が断言できようか?この事象が物理的に生起することを妨げるものは何もなく、この命題には、論理的にも科学的にも何の矛盾もない。この可能性が、ある(1) か、 ない(0 ゼロ) かと問われれば、ない(ゼロ)とは言い切れないだろう。そして、“ゼロ” でなければ “1” なのだ。“1” ということは、“可能性がある” ということなのだ。

もちろん、それが実際に起こる “確率” はたしかに極めて低いと言える。つまり、可能性はあるが、実現する確率は極めて低い、ということである。あなたにはこの区別ができるだろうか?この区別ができるのなら、もう「可能性が高い」だの、「可能性が低い」だの、「可能性が大きい」だの、「可能性が小さい」だの という言い方は金輪際やめることだ。

 

最後にもう一度言おう。

“可能性” は有るか、無いかである。

“可能性” は “1” か “0 ゼロ” である。

そこには程度の差はない。

程度の差、度合の大小があるのは、確率、蓋然性、確からしさ(probability)と 公算(likelihood)である。

「可能性が高い」だの、「可能性が低い」だの、「可能性が大きい」だの、「可能性が小さい」だの という言い方は、すべて論理的に誤りである。こういった表現を平気で使っている人間は、“可能性” という言葉の論理的な意味が理解できていないことを自らさらけだしているのである。

 

 

   2015/11/01

 

 

  

犬を食べる

日本は今や空前のペットブームである。隣の半島国家における犬を食べる習慣に眉をひそめるひとたちが日本にもいる。わたしが不思議でならないのは、そうしたひとたちや、多くのペットオーナーたちが 牛や豚の肉 を “日常茶飯事”で 平気で食べていることだ。家畜として “分類” してあれば、何の抵抗もなく食べている、その思考回路を問うべきである。

犬も猫も牛も豚も、動物学的にはそれほど大きな違いはないのだ。どれも四足の哺乳類である。家畜、食肉用家畜という概念は、人間の側での勝手な分類にすぎず、動物倫理的には、何の意味ももたない。家畜だからといって、苦痛や恐怖を感じないわけではないのだ。

 

「ペットは食べるものではないが、家畜は食べるために存在するのだから殺していい」 という論理は、

「白人は殺してはいけないが、黄色人種は殺していい」 というのと変わらない。

「アーリア人は殺してはいけないが、ユダヤ人は殺していい」 というのと同じなのである。

     2015/11/13

 

 

 

“助ける” のは、“早く” てこそ意味がある。

“遅れた救出” はむしろ “侮辱” となる。“大きく遅れた救出” は “大きな侮辱” となる。

 

2016/03/27

 

 

重要な真実 と そうでない真実

真実にもいろいろある。いや、無数にあるというべきか。しかし、複数のものを相手にする場合、おのずから “優先順位” というものがあるはずだ。真実にも “今、重要な真実” と “今はさほど重要ではない真実”  とを区別し、“真実の序列化” する必要があるのだ。真実だからというだけですべて同一平面上において眺めている人間は、けっきょく無数の “真実” に埋没して、ごく一部の自分にとって重要な真実を自分のために役立てることはとうていできないだろう。

この “序列化” は次第に “階層化” となり、あなた自身の “価値体系” を形作ることになる。大事な点は、これを意識的に行うことである。 

 2016/04/03 

 

未完成の絵: “真実” は常に “断片的” である。

多くの人は “真実” を “完成したジグソーパズル” として期待する。500ピースが全部はまっている一枚の絵として期待する。シンデレラ城を背景にミッキーもプルートもドナルドダックもグーフィーも皆そろっている絵でなくっちゃと思う。まあ、ピースの欠けが数箇所あるくらいは許容するかもしれないが・・・。

現実は、500ピースのうち数十ピースがはまっていればいいほうなのである。あとはすべて空白というのが現実なのである。その数十ピースだけでもきちんとはまっていれば、上等といえる。ミッキーは耳だけ、プルートは尻尾だけ、グーフィーは鼻だけ、背景のシンデレラ城は尖塔だけといった程度である。

しかし、世の中のほとんどのひとは、そんな “未完成の絵” は真実ではないと判断し、捨てて顧みない。

大事なのは、

1. ミッキーの耳、プルートの尻尾、グーフィーの鼻、シンデレラ城の尖塔 を捨てずにおくことである。“部分的な真実” ではあっても捨てずにこだわり続けること である。

2. 合っていないピースを むりやりはめて空白を埋めようとしないこと である。空白は空白のままにしておくことである。

 “真実” は常に “断片的” である。

 2016/04/05

 

 

 

 親が自分の子に対して有する “染脳権"

 

 親が自分の子に対しては染脳権を有していることはどうやらあまりにも自明なことなので、誰も問題にしないようだ。しかし、実際そういった権利があるかのように世間の親たちはふるまっていないだろうか。親子関係のことであり、家庭内のことでもあるので、よほど身体的な暴力に発展して、“家庭内暴力” にでもならないかぎり、第三者による介入はない。

早い話が、親が或るカルト宗教を熱心に信仰していれば、その子供は必然的に “不断の染脳” にさらされることになる。親に依存して生きる子供に、自由意思に基づく選択の自由がどれだけあるだろうか。しかし、誰にもその子供の風前のともしびの無垢な精神を  “救出”  することはできない。それは親の  “染脳権”  の侵害になるからだ。

カルト宗教の例を挙げたのは、極端でわかりやすいからである。言うまでもなく、どんな親も少なくとも自分の子供に対して親が有する、親としての根源的な権利 である、この  “染脳権”  を不断に行使している と言える。

こう言うと、必ずこういう反論があるだろう。「いや、うちは放任主義だから、子供には何も染脳なんかしていませんよ」 と。ほとんどの染脳は染脳者自身の自覚なしに行われている。染脳者が自分のしている染脳という行為を自覚しているケースは例外中の例外である。放任主義者の親は、子供に  “放任主義”  を染脳している。

2016/04/09

 

 

重要な真実は必然的に “断片的” である

全体像が得られないからといって文句を言い続ける人間は、せっかく手元にある断片的な真実をおろそかにするのだ。何十年も真実の探求をしてきた人間なら誰でもわたしに同意するはずである。

2016/04/11

 

思いきったような果敢な行動は、多くの場合、歴史的な見通しを持った人間が取る。

何の見通しも持たない人間は、羊のようにまわりの人間と同じように行動しようとする。

2016/04/13

 

 

 素晴らしいものを創り出す人々は、恐ろしいほどに “捨てている”。芸術でも科学でもそうである。何でもかんでも大事にしているひとが、価値あるものを生み出すことは決してない。

すぐれた創造者は、つねに途方もない差別主義者である。

2016/05/03

 

 

 女性週刊誌とは、紙のおしゃべりである。女性週刊誌を買うひとは、おしゃべりに参加したいのである。

 2016/05/07

 

 

 キャンプとは、虫との戦いである。キャンプ場に着いてから気がつくひとと、行く前から知っているひととがいる。

 2016/05/07

 

 

 “完璧要求のトリック(詐術)” 

“完璧要求のトリック(詐術)” とは、議論において、相手が完璧でないことを明らかにし、それをもって相手の主張を否定し、自分の勝利としようとするセコいまやかしを言う。

たとえば、UFOが存在すると言う人間に対し、「実際に見たんですか?」 と問い、もし イエス ならば、「写真に撮ったんですか?」 と問い、これももし、イエスならば、「インチキ写真は簡単に作れますからね」 と言い、もし、実際にビデオに撮っていて、イエスだとしたら、「素人が撮ったものは専門家が分析しないと価値が無いですよ」 というふうに、どこまでも相手に “完璧”を要求していく論法である。これをうまく使えば、大抵の主張は切り崩せるのだ。

しかし、相手が “完璧” でないことをあげつらって、勝ち誇った気になっている輩(やから)は、人間として非常に品性が卑しい。このイチャモン論法は “完璧要求のトリック(詐術)” というが、このトリックだけで渡り歩いている人間というのは、特にネット上には相当はびこっている。これで畳みかけられると、自分が完璧でないことで気後れして、屈服してしまう人間も世間にはけっこういるのだ。わたしのように、自分はふつうの人間としてもともと完璧ではないことを常々自覚している人間には全然通用しない論法である。

2016/06/29

 

 

真実かどうかを多数決で決めようとするひとたちがいる。道徳的に正しいかどうかも多数決で決めようとするひとたちがいる。いずれも自分の頭で考えるということに極端に不慣れなひとたちである。わたしはこういったタイプのひとたちを “無脳層” と呼んでいるが、彼らは多数派の考えが正しく、それに従っていれば間違いないと思っているのである。「多数決で決める」という言い方は彼らを買いかぶった言い方かもしれない。“大勢に従う” と言った方がずっと現実に即しているだろう。

仮に大勢(たいせい)の考えや判断が間違っていたとしても、それによって自分が孤立することはなく、仲間は大勢(おおぜい)いるから別に困りはしないと思っているのである。つまり、自分の脳ミソはほとんど使っていないのである。

2016/06/29

 

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