「フラットアース? 半信半疑ですね」 と言っておけば、心の広い、やさしい人?
否定しないだけでいい?
どんなに頭が悪くて、判断力がなくても、「フラットアース?半信半疑ですね」 と言っておけば、あのひとは・・・
差別をしない、 多様性を尊重し、 常識に囚われず、 やさしくて、 心が広く、 視野も広い人間・・・
と思ってもらえる? (^-^) (^-^) (^-^)
ここで重要な点は、フラットアースを積極的に肯定する必要もない点だ。否定しないという、ただそれだけで 「心の広い、寛容な人」 として周りに対する自分のイメージアップにつながるということ。そして、当の本人も・・・
自分は 差別をしないし、 多様性を尊重するし、 常識に囚われず、 心が広く、 視野も広くて、 やさしい人間 なんだ、という心地よい自己イメージに酔いしれることができる。
この誘惑にあらがうことのできる人間は、今の世の中に1万人に1人もいないだろう。
フラットアース信者の場合、客観的、物理的現実を確信犯的に無視して、カルト的教義にひたすら帰依する異常な精神病理が見られる。科学的、論理的批判に対しては、最後は病的な陰謀論で徹底抗戦する。球体説は平面説を隠蔽するためのイルミナティの大昔からの染脳工作なんだと。 (^-^) (^-^) (^-^) そして、以下のような滅茶苦茶な理屈を弄する。
NASA は大嘘つきだ。だから、フラットアースは正しい。
南極には謎が多い。だから、フラットアースは正しい。
反ワクは正しい。だから、フラットアースも正しい。 (^-^) (^-^) (^-^)
フラットアース説は、しょせんカルト信仰である。「ちきゅう」 は平らなだけではなくて、フタまであるというのだ!
そして、「天蓋」 が存在する、というその根拠として、なんとキリスト教の聖書を挙げるのだ。
旧約聖書: 「イザヤ書:4章:5節 その時、主はシオンの山のすべての場所と、そのもろもろの集会との上に、昼は雲をつくり、夜は煙と燃える火の輝きとをつくられる。これはすべての栄光の上にある 天蓋 であり、あずまやであって・・・」
つまりフラットアーサーにとって、聖書は絶大な権威なのだ。「常識を疑え!」 と彼らは常々言うのだが、彼らにとって聖書は決して疑ってはならない絶対的権威なのだ。
そして、隕石が現に地球に到達していることすら、フラットアアーサーはまともに説明できない。
けっきょく、キリスト教の聖書を根拠に 「フラットアース」 を喧伝しているのである。ご苦労様です、と言うしかない。
「フラットアース、半信半疑ですね」 と言って、話の分かるフリをする輩は、この程度のフラットアースをきちんと否定する能力がないだけなのだ。
「エセ寛容主義」
これは 「エセ寛容主義」 のバリエーションである。 「寛容主義」 に 「エセ」 が付くのは、その 「寛容主義」 が打算に基づいたポーズに過ぎず、まったく現実に根差していない、証拠も根拠もない主張と態度だからだ。
つまり、 「話の分かる、いい人ぶること」 自体が、「エセ寛容主義」 による染脳の結果なのだ。これは 「多様性カルト」 と表裏一体である。
そして、おそらく幼稚園児にもわかる、最もわかりやすい定式は、
「やさしいひと = いいひと」 である。やさしくないひとは自動的に 「意地悪なひと = 悪いひと」 となる。
「いい人と思われたい」 という、この誘惑にあらがうことのできる人間は、今の世の中に1万人中1人もいないだろう。
20世紀の後半から世界中で知能指数が不可逆的に低下しているという報告がある。しかし、知能だけでなく、どうやらモラルも着実に低下していると考えられる。
LGBT 問題も同じである。 「性の多様性を受け入れる寛容な社会」 を謳っている勢力や政党があるが、これは 生物学的現実を無視した 「エセ寛容主義」 であり、「多様性カルト」 である。
「身体と性の自認が一致しない人が世の中にはいる」 という主張: ふむふむ。
→ 「身体は男性でも、心は女性というひとがいる」 という主張: なるほど。
→ 「半信半疑だけど、そういうひともいるのなら仕方ないか・・・」 という 「エセ寛容主義」 に着地!
→ ぶら下げた男が女湯に闖入! → 「えっ、 でも、ま、しょうがないか・・・」
ぶら下げた男が自分の欲望のために平気でウソを言って、裁判ではそれで 「言ったもん勝ち」 となる時代。「多様性カルト」 と 「エセ寛容主義」 はさまざまな経路で人々の脳内に注入される。
「多様性」、「みんな違っていい」、「共存」、「差別や偏見のない社会」、「差異を互いに認め合う」 等々の聞こえのいい美辞麗句にひそむ共産主義的な 「文化侵略的情報操作」 と 「文化破壊的染脳工作」・・・ うっかりこれを指摘する人間は、「意地悪なひと = 悪い人」 となってしまう! (^-^; (^-^;
移民・難民問題も同じ。 「文化の多様性を受け入れる寛容な社会」 を謳っている勢力や政党があるが、これは 異文化共存の困難と、他国での失敗をまったく無視した 「エセ寛容主義」 であり、「多様性カルト」 である。これは、優れて共産主義イデオロギーと呼ぶべきものである。ちなみに 「イデオロギー」 とは 「構造化したプロパガンダ」 のことである。
さて、こうした 「エセ寛容主義」 と 「多様性カルト」 が蔓延する現代の日本の精神状況の背景には、日本人の 「判官びいき」 があると見ることもできる。
「判官びいき」 とは、「弱者とみなされる反体制派への不合理な共感と支持」 とされている。実はこの 「判官びいき」 は、日本人のメンタリティの根幹をなす 「長いものには巻かれろ」、 「寄らば大樹の陰」 という 徹底した「お上への盲従」 を補完する 「表面的アンチテーゼ」 にすぎないのだ。「表面的」 とは 「うわべだけの」 、 「実質を伴わない」 という意味だ。
つまり、あまりにも権威主義的で体制擁護派の人間は、さすがに自分でもそのバカさ加減がわかるので、ちょっとだけ 「反体制派」 に共感をして、自分はお上をありがたがっているだけのバカじゃないぞと思いたいのだ。お上を困らせる反体制派、反逆分子への一時的仮託という空想上の反抗によって、実際上の 「お上への盲従」 を補完しているという自己満足的な心理メカニズムである。
ある意味で、「判官びいき」 が歌舞伎や講談や浮世絵といった大衆芸術の世界で定番のテーマになっていく過程は、そのまま日本人の心性において権威主義がすっかり根を下ろして支配的になっていく過程でもあったのだ。
「判官びいき」 は、英語では 「アンダードッグシンパシー」 と言う。「負け犬への共感」 である。
そして、「大勢順応主義」、「権威主義」 は、「バンドワゴン心理」 と言う。 「バンドワゴン」 とはパレードを先導する楽隊を乗せた馬車のこと。その鳴り物入りのパレードに加わりたくなるメンタリティーを 「バンドワゴン心理」 と言う。流行や大勢に容易に流される人間の軽佻浮薄な心理を言う。
つまり、「エセ寛容主義」 がはびこる前提として、社会における過度な権威主義と大勢順応のバンドワゴン心理の土壌があるということなのだ。そういった社会環境にある人間の心に 「エセ寛容主義」 や 「多様性カルト」 が 「優しさ万能主義」 として、いくらでも浸透してくるのである。
そして、ここから 「思いやりワクチン」 だの 「やさしい猫」 だのがいくらでも紡ぎだされてくる。そして、こうした 「思いやり」 「やさしさ」 「こころ」 を冠したプロパガンダを錦の御旗にして大衆の染脳が進む。
とにかく、否定しないだけでいいので、積極的に肯定する必要はない。全然頭を使わなくていいのだ。
否定しない、つまり、差別しない、排除しない、というだけで、「ポイントアップ確定」!
否定しないことを表明するだけで、常識に囚われない、心が広く、視野も広い人になった気分になれるのだ。そして、ダイバーシティだの、インクルージョンだのといった、何かちょっと進歩的な流れに乗ったような気にさえなれるのだ。
今日の 「多様性カルト」 の時代は、思考力も判断力もない人間が 「否定」 をしないだけで、「やさしいひと」 としてまかり通る、夢のような時代だ!
そして、否定しない(単に否定できないだけなのだが)人間が圧倒的多数であれば、それをいいことにのさばるのが、「心は女性の輩」 であり、「可哀想な難民・移民」 であり、「地球は平ら信者」 なのだ。
女とは認められない。
そんなに女になりたければ、去勢すればいいのでは、、。
去勢して下さい、チョン切ってやれ!
付いてる限りは無理です。
あの北海道首狩り事件、、
要するに欲望が押さえられない、下半身に支配された
魂を持たない哀れな男、自分で人生の幕を引いたのだ。
いい気味だ。
ルナ容疑者、下半身も一刀両断切り落としてやってれば
、、、、(この後は遠慮しておきます)
人格と言説は別物です。
「論戦における人格派と言説派:自分の気に入らない相手の主張」
https://blog.goo.ne.jp/zaurus13/e/dc7e234fa6da5be6824c204a7ed0013e