ザウルスメモ
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「全員賛成の改善案」
席上、誰もが称賛するような改善案というものがたまにあるものだ。しかしそれらが意味することは、その場のすべての人間の怠慢の暴露である。「そんなことをなんでもっと早く思いつかなかったんだ!いったい何をやっていたんだ?!」 「そんなことはもっと早くに誰かが気がついていなくてはいけなかったんじゃないか?」 ということである。 2015/03/01
「もっと早く知っていれば・・・」
「もっと早く知っていればよかった」、と思うようなことがときどきあるものだ。「10年前から知っていれば、この10年間、そんなムダなことをせずに済んだのに」、とか、「そんなに有害だということをもっと早く知っていれば、やっていなかったのに」、とか、「そんなにいいものならば、もっと早くから使っていればよかった」 といったことである。
しかし、考えてみたことがあるだろうか?「もっと早く知っていればよかった」とあなたが思うようなことは潜在的には無数にあるのだ。そのうちのごくわずかがたまたま “幸運にも” あなたの目に触れてきただけなのである。 2015/03/14
テレビの美男美女
テレビは幼児にも楽しめるように製作されている。番組もコマーシャルも。毎日1時間以上テレビを見る人間は、幼児のように受動的になり、電波染脳に頭脳を差し出していると言える。
テレビには中毒性がある。依存性がある。テレビは視聴者にチャンネルを変えさせないように、スィッチを切らせないように、そのままいつまでも見続けさせるために、視聴者を引っ張っていくために、ありとあらゆる手段を計算ずくで駆使している。0.1秒刻みの臨床心理学的な高度な戦略である。
テレビは周到に計算されたジャンクフードである。実はいわゆるジャンクフードも消費者の心理についての周到な計算に基づいて作られている。テレビとジャンクフードは恐ろしいほどよく似ている。
不要かつ有害だが、中毒性がある。
日常的、習慣的に消費される。
イメージ性が強く、実質に乏しい。
容易に安価に大量に作れる。
テレビの戦略の一つに、美男美女、見栄えのいい男女、子供、犬猫を使う方法がある。これはあまりにもありふれた方法であるが、非常に強力であり、大きな効果がある。顔立ちのよい男女の映像はそれだけで視聴者に “快感” を与えているのである。リモコンのスィッチを切ろうとしていた指を一瞬でも止めさせることができるのである。美男美女はテレビというジャンクフードに使われている “砂糖” である。理屈を超えて視聴者のDNAに直接働きかけていると言ってもいいだろう。 2015/03/22
イメージ商品
資本主義社会においては、物品やサービスはすべて商品として市場に投入されるために、必然的にすべての商品は “イメージ商品”化 することになる。わかりやすく言うと、目につくものが売れ、見劣りのするものは売れない、ということである。曲がったキュウリは売れ残る。パッケージのへこんだ商品は中身には影響がなくても売れ残る。前日の夜にテレビで宣伝したレトルト食品が翌日には売れ切れる。
さらに言えば、たとえば、“ヘルシーなイメージ” が重要なのであって、実際に健康にいいかどうかはさほど重要ではない。“美味しそうなイメージ” が重要であり、実際の味は二の次である。“便利そうなイメージ” が重要であって、実際に便利かどうかは二の次である。“ そうしrて、テレビやマスコミや車内広告に、”速いイメージ” “モテるイメージ” “トクなイメージ” “オシャレなイメージ” “流行っているイメージ” が氾濫することになる。
そして、消費者の側も、実はそうしたイメージ商品の、“イメージをこそ消費” しているという現実がある。売る方も、買う方もお互いさまで、商品はもはや “イメージ伝搬の媒体” になっていると言えるほどである。
こうした欺瞞的な経済システムにうんざりしているひとも出てきている。買え、買え、買え という不断の圧力から自由になりたい、煩わされたくない、というシンプル派のひとたちである。そして、そういう人たち向けの商品のラインナップも実はしっかりと市場の一角を占めている。無印良品などがそれである。これは彼らにはかなり誘惑的である。 2015/03/22
競争好きな日本人
日本人は “争い” “戦い” は好まないが、 “競争” は大好きである。競争においては目標は同じである。世界には “競争” を好まない人々もいる。 2015/03/25
ひとはなぜ怒るのか?
ひとはなぜ怒るのか?怒っているひとは、“誰かに” 怒っていると言える。
誰かを責めている、攻撃している。怒るとは、どういうことか?
2015/03/26
“バカにされたくない” 症候群
多くの凡人にとって、この 「バカにされたくない」 という動機がさまざまな言動、選択、行動の根底にある。日本人は特にこれが強いのではなかろうか。この幼児的な動機のさらに奥深くには、常に比較、競争、差別の中に生きながら、劣等感と優越感の間を絶え間なく上下している心理がある。バカにされないように、バカにされないようにしながら生きている人間が世の中の大半を占めているのではなかろうか。他人や周りからの評価が気になって仕方がないというより、他人にどう見えているかこそが “自分自身” なのである。つまり、自分という存在に内面というものがなく、 外側から見える “表面” だけなのである。だからこそ、他人からの目や評価の対象となる “表面”だけを取り繕うことになる。バカにされないようにするために、さりげなく自慢話をしたり、ブランド品を身につけたり、知ったかぶりをしている人間を目にしない日はない。 2015/04/04
食べ物の話
大学生たちが延々と1時間以上も食べ物の話をしているような国に未来はない。 2015/03/27
理解
ほんとうに理解したひとはいつまでもそこにはいない。
そこにいるひとは本当に理解していないひとたちである。 2015/03/29
ハゲ
ハゲの話が可笑しいのは、それに悩む心の底に “セックス” の問題が横たわっているからである。 2015/03/30
不幸、災難の意味
大きな災難や不幸に見舞われた人間は、周囲のひとたちよりも世の中の真実や宇宙の真理をよりよく知る機会に恵まれたとも言える。しかし、残念なことに、そのことに気づかず、自らがこうむった損失、被害をいつまでも恨めしく思うだけに終わっている人間がほとんどである。 2015/03/30
技能の上達
外国語、楽器、スポーツなど、どんな技能の上達にも、有能なインストラクター、師匠につくことが不可欠である。書籍やDVDの致命的な点は、こちらが気付かないミスを指摘してくれないことである。
実際、技能の上達において、最大の妨げになっているのは初心者の側の誤った思い込みである。初心者はなかなかこれに気付かず、いつまでも同じ間違いを繰り返して、ムダな時間を費やす。有能なインストラクターにはこれがすぐにわかる。この初心者の勝手な “思い込み”“先入観” を切り崩すのが彼らの仕事であり、ここにこそインストラクター、教師、師匠としての存在価値がある。しかし、彼らの多くは彼ら自身がいくら“達人”であっても、教える才能を兼ね備えているとは限らず、単に 「練習しかないです」 と言うだけに終わっているケースが非常に多い。
有能なインストラクターはみずから“やって見せる”ことができるだけでなく、生徒のつまずき、行き詰まりを説明し、それからの脱却方法を示すことができる。 2015/04/02
DNAの意味
アンジェリーナ・ジョリーがアジア系の孤児を養子にしたとかを知った時に、わたしも世間並みに、「そんな血も繋がっていなければ、文化的背景も全く異なる子供を養子にするなんて」 と思ったものだ。先日大塚家具の社長と次代の社長となった実の娘との間で会社の経営方針をめぐって骨肉相食む紛争が持ち上がっていることをニュースで知った。自分のDNAの半分(も)引き継いだ娘や息子でも必ずしも親である自分と常に意気投合というわけにはいかない、どころか、むしろうまくいかないことの方が多いのが現実である。これが、家業や職業でカブっている場合は、かなり難しいと思う。
うまくいっているようなケースは、そもそも先代が大したことがないか、後代が大したことがないか、どちらも大したことがない場合に決まっている。「偏見」のそしりを受けるかもしれないが、わたしはそう思っている。どちらも一流の人間だったら、ぶつからないわけがないだろう。
さて、自分の子供とはできるだけ “家族” としての付き合いだけにするに越したことはないというのが、わたしの持論である。それはおそらく、というか、間違いなく、このわたしが自分の仕事に厳しく、ライフスタイルにうるさいからである。いくら自分と顔つきや、体質や、口癖が似ていても、意見が合うわけではない。はっきり言って、この自分とDNA的には何ら共有するものが無くても、このわたしと趣味が合い、意見が合い、世界観、人生観が近い人間は大歓迎なのである。
自分の子供を見ていると自分と体質的に似ている点、性格が似ている点がいやでも目につき、DNAの進化論的な連続性を痛感させられる。娘の口癖の中にまったくこのわたしと同じものがあるのだが、当人は気づいていないようだ。ある意味で恐ろしい。DNAの継承など、単に持病が引き継がれているだけのようなものである。 2015/04/04
盲信
盲信は破局(カタストロフィー)を醸成する。 2015/04/05
怒っているひと
怒っているひと、何かに腹を立てているひとは、そのとき必ず自分のほうが正しいと思っている。そして、相手が間違っていると思っている。
2015/04/09
「失くしてよかった!」
大事な原稿のファイルをうっかり消去してしまったとか、どうしても見つからなくなってしまったという経験は、多くの人にあるのではなかろうか。 また、パソコンがクラッシュして中のデータがすべて “回収不能” になるというもっと深刻な “デジタルディザスター” に見舞われたことがあるひとも少なくない。そういった、またすべて一から始めて再現しなくてはならない場合、結果的に元の原稿よりもいいものができたりすることがある。元原稿中の重大なミスを見つけたり、元原稿を数段上回る出来栄えになったりすることがあって、「失くしてよかった!」 と思うことすらある。こうしたケースを “積極的回復, positive recovery” と呼びたい。
人生におけるさまざまな失敗、災難にも同様のことが言えるように思う。しかし、回復、つまり “立ち直り” が “積極的”、つまりプラスの回復になるか、元原稿に及ばない “消極的”、つまりマイナスの回復に終わってしまうかの違いは偶然によるものではない。これは当人の性格と姿勢による。常に前向きに創造的に考える人間にとってはあらゆる機会が、“積極的回復”のチャンスとなる。逆に、いつも後ろ向きに考える人間にとっては、うまくいかないことの正当化のための格好の理由がまた一つ増えることになる。 2015/04/10
ハゲ 2
前回、ハゲの話をしたが、けっきょくハゲの悩みの核心は、セックスなのである。つまり、ハゲるということは、性的な相手(パートナー)としの資格を喪失していることを“記号学的に”表出しているのである。もちろん、この“記号”は単なる “しるし” にすぎないのだが、決定的な指標であるかのように世間では思われているのである。だからこそ、いわゆる “若ハゲ” は深刻なのである。実際は、性的な能力と “ハゲ” との間に直接の相関関係はないのだが、「ハゲ → 高齢 → 性的能力の欠如」 というゆるやかな等式が定式化してしまっているために、この中間項の “高齢” が実際にはなくても通用するようになったのである。
それにしても、一部のひとびとにとってはあまりにも不当な “公式” ではなかろうか。実は、これは悩みをかかえる一部の男性たちにとっては、残酷な話であるが、女性の方が誰にでもわかるこの “指標” を頭に貼り付けている男性を敬遠するという現実があるようだ。つまり、“性的能力欠如” の “指標”を さらしている男性と一緒に歩くことに抵抗を覚えるということである。なぜならば、それは「訳あり商品」という、いやでも目に入るタグを付けたままの服で歩いているようなものであり、結果的にみずからの商品価値を下げるおそれがあるからである。 2015/04/11
店が客を選ぶ
資本主義の社会では金がすべてなので、年齢制限商品(タバコ等)などの一部の法的規制品(銃火器等)は別として、どんな人間も金さえ出せば買えて、金さえ出すならどんな人間にも売るのが通例である。「お客様は神様」 ということである。しかし、店側にしたら、歓迎しない客、売りたくない客というのが必ずいるはずである。
客が店を選ぶ、客が商品を選ぶ、というのがあたりまえに思っているひとが多いが、店が客を選ぶ、商品が客を選ぶ時代が来ているように思う。そもそも、購入側がイニシアチブを持ち、販売側に対して常に優位にあると考えるのは間違っている。取引においては両者は対等であるはずだ。販売側が卑屈になる必要はまったくないのだ。
「こういう客には来てほしくない」
「こういうお客さんに来てほしい」
「こういうお客さんにしか売りません」
「いくら金を出したって、この商品の価値がわからない人には売りたくない」
「この商品は “要相談” です」
「この客はどういう使い方をするかわからないので、誓約書を書いてもらおう」
等々 2015/04/24
“食べる” とは、空中給油である
すべての生命は空中給油しているようなものである。飛び立ってから寿命が尽きて墜落するまでずっと空中給油しているのである。飛行中に故障が起きても空中で修理しながら飛び続ける。 2015/04/28
“宣伝” とは戦略的伝達である。
"Advertisement" is strategic communication. ザウルス辞典 2015/04/29
大衆は何を買うべきか常に教えて欲しがっている。
People always want to be told what to buy.
2015/04/29
行き詰りの原因
行き詰りの原因はほとんどの場合、誤った思い込みにある。誤った思い込みというものに自分で気づくにはとてつもない時間がかかるものである。死ぬまで気付かないケースが大半ではなかろうか。実際、時間が経てば経つほど思い込みから脱け出せなくなってくるのだ。こんなことになんで気がつかなかったんだろう、というようなことでわれわれはいつも行き詰っているのだ。
それほどまでにわれわれ人間は先入観、偏見、思い込みに囚われて生きている。
行き詰まり、問題が解決できない状況において、能力の欠如が原因であることは実際はまれである。能力の欠如だと決めつけたがるのは、そうすれば自分に責任がなくなるからであり、気休めになるからである。
前例のない問題を解決するためにはできるだけ複数の人間で取り組むことだ。 2015/05/05
思考 とは 会議 である。
“考える” とは、“頭の中で会議すること” である。 ザウルス辞典
“思考” とは “脳内会議” である。
2015/05/05
議論 とは 共同建築 である。
議論することは、共同で建築することであり、大聖堂の一部分を一緒に作りあげる作業である。 ザウルス辞典 2015/05/05
“真・偽“ は一つの価値基準にすぎない。
“真・偽“ は一つの価値基準にすぎない。“美・醜” “損・得” “正・邪” “快・不快” “聖・俗” “美味しい・不味い” 等々いろいろあるうちの一つにすぎない。今日の日本人の多くは “損・得” “快・不快” 美味しい・不味い” “カワイイ・可愛くない” で生きている。日本人は歴史的に見ても “真・偽” にこだわる民族とは思えない。 2015/05/20
理解 とは 既知のものとの連続化 である。 ザウルス辞典 2015/05/22
どんな宗教も自らに対する批判を許さない。
どんな宗教も批判を歓迎できるほどの寛容さはない。 批判はしょせん “言葉” である。しかし、どんな宗教も 権力や暴力よりも “言葉” による批判を恐れる。権力や暴力によって犠牲者が出れば、晴れて殉教者になる。しかし、“言葉” による批判を許したら最後、総本山までが崩壊するのは必至である。その教義がただの反故になるのは時間の問題である。そこが宗教というものの致命的な弱点であり、限界である。 2015/05/24
2つ以上の宗教の信者になることはできない。
2つ以上の宗教の信者になることはできない。宗教は本質的に排他的である。排他的とは不寛容ということである。そうである。寛容な宗教というものはありえないのだ。寛容であったら宗教ではなくなるのだ。それが宗教というものである。
2つ以上の音楽ジャンルの愛好家になることはできる。ジャズファンであり、クラシックファンであり、演歌ファンであり、ロックファンであることはできる。
2つ以上の料理の愛好家であることは可能である。中華料理ファンであり、フランス料理ファンであり、インド料理ファンであり、懐石料理ファンであるひとはいる。
2つ以上の宗教の信者になることはできない。キリスト教徒であり、イスラム教徒であり、仏教徒であり、ユダヤ教徒であり、ヒンズー教徒であるひとはいない。2つの組み合わせすら不可能である。
宗教は本質的に “排他的” である。“排他的” であるということは、“不寛容” であるということである。すべての宗教は “不寛容” である。
1つの宗教の信者になることは、他のたくさんのすべての宗教との対立関係に入ることである。それは言いすぎだろう、とあなたは思うかもしれない。しかし、冷静に考えてみてほしい。一つの宗教の信者が、他の宗教の教義を受け入れれば、“背教者” であり、“改宗者” である。
“不寛容” とは、相手に自分と同等の権利を認めないことである。真理は自分の側にあり、自分は常に正しく、間違っているのは相手の方だと最初から決めていて、批判を許さないことである。こうした態度はすべての宗教の信者、とりわけその教祖に共通している。
つまり、自分が唯一絶対であると思い込み、自分を常にひとよりも上に置きたい人にとっていちばん居心地の良い、権威ある拠り所が宗教なのである。そういうひとたちが集まってくるところが宗教であり、 “教会” なのである。
“信仰心の篤い、敬虔な信者” というイメージからはほど遠いかもしれないが、これがもろもろの “信者” の実態である。 2015/05/24
科学とは、産業化された知識である。“科学的” と “非科学的”
科学とは、産業化された知識である。規格化され、大量に再生産できるようにされた知識である。科学は知識のスーパーマーケットである。現代人はスーパーマーケットで手に入るものだけが信頼性のあるものであるかのような錯覚に生きている。 2015/05/24
余分な金はひとを堕落させる
余分な金はひとを堕落させる。余分な金が多ければ多いほど堕落せずにいることは至難の業である。女性の場合、余分な金が多ければ多いほど結果的には不幸になる傾向がある。しかし、問題はたいていのひとが自分が持っている金は十分ではないと思っていることだ。 2015/05/27
しあわせな夫婦
しあわせな夫婦というのは、大勢の中にいるとそこだけが時代の流れから取り残されたように見えるものだ。 2015/05/27
“科学的” と “非科学的”
“科学的” と “非科学的” という言葉を対比させると、ふつうのひとは自動的に前者が正しくて、後者が間違っている、と考える。“科学的” は “マル” で、“非科学的” は “バツ” だと思う。
しかし、 “科学” は “知”、“知識一般” の一部にすぎないことを忘れているひとは多い。それどころか、“科学” 以外の知識は、不完全で、未熟で、価値のない、まさに “非科学的” な知識であるとわれわれは思いこまされている。“非科学的” というレッテルを貼られることは、知の世界からの追放宣告に等しい。
ここでよくある誤解をあらかじめ取り除いておきたい。“科学” イコール 西洋の知識 ではない。欧米にも いわゆる “科学” に属さない知識はある。どこの国にも、どんな文化にも “科学” に属さない伝統的な土着の知識がある。
それでは “科学” とは何か? “科学” とは産業化された知識であり、商品化された知識であり、教科書化された知識である。規格化され、商品化され、制度化された知識である。再生産、普及を容易化され、伝達、伝搬を容易化された知識である。 2015/05/30
“習慣” と “理論” (1)
ほとんどのひとは “習慣” にしたがって生活している。“理論” にしたがって生活しているひとは千人に一人もいない。 “習慣” にしたがった生活とは多くの場合、惰性的な、無反省な生活であり、そこに改善、向上の余地はほとんどない。一言で “習慣” と言っても、それは多くの習慣の寄せ集めであり、その個々の習慣も、多くは親や他人からのコピーである。
“理論” にしたがった生活とは、“習慣” を疑うところから始まる。 2015/06/13
“習慣” と “理論” (2)
“習慣” の多くは、実は “理論” である。“常識となった理論” であり、“硬直化した理論” なのである。根拠が問われなくなった、ほとんど “儀式化した理論” が多くの“習慣” の実態である。
たとえば、毎朝牛乳を飲むという習慣は、半世紀以上前の、「牛乳はカルシウムが豊富なので骨を丈夫にする」という、今日ではすでに否定されている “時代遅れの理論” に基づく行動である。牛乳が骨を丈夫にするどころか、逆に弱くし、がんをはじめ多くの健康障害の原因となるという証拠が積み上がっている今日では、有害で危険な習慣となっている。
しかし、すべての習慣が誤った理論であるわけではない。根拠が問われることなく自動的に繰り返されている行動でも、その元となっている理論が誤りであることが明らかにされていないものも無数にある。特に支障がなければ、いつか覆される時がくるまで繰り返されていても、特に問題もなさそうな習慣は山ほどある。
洋式の便器が今日のように一般化する以前は、日本の“便所”には利用者がしゃがむ和式の便器が一般的であった。この和式トイレは現在でも駅や公園といった公共施設の一部には頑固に残存しているが、この残存はそれなりの積極的な “理論” があってのことである。ちなみに“理論” とは “理由づけ” である。「コストが安く済む」「洗浄しやすく衛生的」「トイレ使用時間が短い」といった点で “洋式” に勝る という 確固たる “理論づけ” があるのである。
つい最近の医学ニュースによると、霊長類の排便行動との比較の結果、そもそも人間の排泄器官はしゃがんで排便するようにできているとのことである(たしかに森の中に洋式トイレはなかっただろう)。実際に実験によっても洋式トイレの場合のように腰かけるよりは和式トイレの場合のようにしゃがむ方がずっと排便しやすいことが証明された。そして、しゃがんでの排便の方が便秘になりにくく、痔にもなりにくいということも明らかになった。イスラエルの研究者による論文である。このように古い習慣が新たな理論によって息を吹き返す可能性すらあるのだ。 2015/06/29
わたしはフランス人を食べることに反対である。
わたしはフランス人を食べることに反対である。
わたしは犬や猫を食べることに反対である。
わたしは牛や豚を食べることに反対である。
人間も生き物であり、どんな生き物もわたしには友だちだからである。
わたしは友だちを食べたいと思わない。
2015/06/29
肉食の歴史
世界の宗教人口で第3位のヒンズー教の信者にとって、牛を殺して食べるなどということは今日でも “ありえないこと” である。
日本人が牛や豚を殺して食べるようになったのは肉食民族の欧米人のサル真似である。日本人も長いこと動物を殺して食べるということは忌まわしいことと考えていた。美味しい、不味いいぜんに動物や人間を殺してその肉を食らうということは禍々しいことだった。だからこそ、業は被差別民の職業としての歴史がある。まともな人間はそういうことはしない、という観念があるからである。
同じアジア人でも半島や大陸のひとびとは同じ民族、同じ国民同士で大殺戮を繰り返してきた歴史があり、敵の人間の肉を食らうことも何ら珍しいことではなかった。しかし、日本の歴史ではそうした事例は皆無ではないかもしれないが、稀有である。 2015/07/18
言葉に出して語れる以上のこと
われわれは言葉に出して語れる以上のことを知っている。言葉にできるのは1%にもならない。 2015/09/01
カナリヤ理論
かつて炭鉱では坑内での作業中に、地中からの有毒ガスによって坑夫が犠牲になることがしばしばあった。そのため有毒ガスの検知器として、鳥かごに入れたカナリヤが使われた。カナリヤが鳴きやみ、止まり木からパタッと落ちたら、有毒ガスが出てきている証拠であるから、坑夫たちは一斉に地上に避難したのである。
電磁波過敏症という人たちがいる。このひとたちは人一倍電磁波に敏感で、ふつうのひとがなんともないような電磁波的環境でもさまざまな不具合を訴えるひとたちである。
乳糖不耐性というひとたちがいる。このひとたちは牛乳などの乳製品に対してさまざまな障害的反応を起こす人たちである。
小麦アレルギーというひとたちがいる。このひとたちは小麦製品に対してさまざまな障害的反応を起こす人たちである。
化学物質過敏症というというひとたちがいる。このひとたちは特定の化学物質に対してさまざまな障害的反応を起こす人たちである。
電子レンジで調理した場合、味が落ちることがわかるひとがいる。ふつうのひとはなかなかわからないものだが、ごく一部には味の劣化だけでなく、それを食べることによって不調を訴えるひともいるのだ。
さて、カナリヤ理論では、こうした自分より敏感なひとの悲痛の叫びを自分の代わりに早く危険を察知して報せてくれていると考える。
人間の感覚、感受性の差は千差万別で、だれもが同じレベルの感受性を備えているわけではなく、一部には特定の刺激に対して通常よりもはるかに敏感に感じ取ることができるひとがいることを忘れてはいけない。この事実を謙虚に受け止めることだ。自分の感覚で何でもわかるなどというのは無知の極みであり、とんでもない思い上がりであることを知るべきである。
カナリヤがさえずるのをやめて、止まり木からパタッと落ちても、「自分はまだ何も感じないから問題ない」 と思っているひとが世の中の大多数である。 「ただちに健康に影響があるわけではない」 である。カナリヤの犠牲をムダにしてはならない。
2015/09/19
枝野理論 「ただちに健康に影響があるわけではない」
2011年3月11日以降、枝野長官がテレビで繰り返していた 「ただちに健康に影響があるわけではない」 というフレーズは、実に “名言” であった。ある意味で、常にその場その場の “表層” に生きる日本人の心性にストレートに “訴える” 殺し文句であった。
「高圧電線の真下にずっと住んでいるけれど、別にこれといったことはないですよ」
「わたしの祖父は87才で死にましたが、毎日タバコ一箱吸ってましたけどね」
「遺伝子組み換え食品なんかいちいちチェックしていませんけれど、家族の健康状態に特に問題はないですよ」
「スマホは毎日肌身離さず持ち歩いて使っているけれど、別にこれといって健康被害とかはないっすよ」
「携帯電話の基地局のアンテナがうちの目の前のマンションの屋上にあるけれど、特にわたしに体調不良とかはないですね」
「電子レンジで温めるほうが鍋で温めるより栄養が逃げないし、手間もかからないし、低コストでしょ?」
「IH調理器 のほうが安全だし、レンジ周りもきれいで助かるわ」
「ここから原発が見えるけど、何かあったら、けっきょくどこに住んでいても同じですからね」
ちなみに枝野長官は当時頻繁にテレビで上記のフレーズを繰り返す一方で、自分の家族はこっそりとシンガポールに避難させていた。シンガポールの日本人社会では、日本から続々と政府高官の家族が避難してくるので、日本はそんなにひどいことになっているのかと大騒ぎになっていた。
2015/09/19
気持ちがスッキリしました。
昨日より、少し自分が賢くなった感じ。
私の思考が洗練されたようで、
すっきりしました。
目からうろこ!もあり。
日頃思ってたふんわりと感じていたこもを、見事に言語化されていて、「賢いなあ」(私が上から評価するのもおこがましいですが。)と、
感嘆したり。
「失くしてよかった」では、
失くしてばかりいる私を勇気づけてもらいました。
私は、失敗してしまった後、
何故か、それよりもっといい事が起こるのです。
似てるな、と、思いました。
ここを読んで、ほほうー!と、
笑ったり、深刻になったりして、頷ける自分は、まだまだ、人生を楽しめそうです。
学ぶ楽しさです。
哲学カテゴリー
楽しみにしています。
更新大変でしょうが、
頑張って下さい。
そこにいるひとは本当に理解していないひとたちである
上記の言葉がとても印象的でした、ありがとうございました。
とても励みになります。ありがとうございました。