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南京の人口は20万人から25万人にどうやって増えたか-その7

いままで述べてきたもの以外で、人数・人口について触れている安全作成の文書を見てみよう。

 

第1,「第七号文書(Z 10 11 12)」(1937年12月18日)には、「われわれが保護している二〇万の市民の苦難と窮迫は、貴国軍隊が何らかの措置をとって、安全区を徘徊する日本兵の間の無秩序状態をやめさせるよう要請することを、焦眉の急としております。」とあり、安全区の人口が「二〇万」であることが分かる。

第2、「第二十二号文書(Z 38)」(1938年1月17日)には、「日本軍当局が自治委員会に対して米一〇〇〇袋を割当てたこと、その引き渡しが今朝始まったことを知りました。この量が早急に一日米一〇〇〇袋に増量されて、二五万人の需要をもっとよく満たすことができるようになるものと信じます。」とあり、安全区の人口が「二五万」に増えているのが分かる。

つまり、これら一連の文書自体で、人口が増加したのは「南京市」ではなく「安全区」であることが分かるのである。

 

また、責任者であった松井石根の「陣中日記」の1938(昭和13)年2月6日には次のような記事がある。

 

「支那人民ノ我軍ニ対スル恐怖心去ラス寒気ト家ナキ為メ帰来ノ遅ルルコト固トヨリ其主因ナルモ 我軍ニ対スル反抗ト云フヨリモ恐怖 不安ノ念ノ去ラサルコト其重要ナル原因ナルヘシト察セラル 即各地守備隊ニ付其心持ヲ聞クニ到底予ノ精神ハ軍隊ニ徹底シアラサルハ勿論 本事件ニ付根本ノ理解ト覚悟ナキニ因ルモノ多ク一面軍紀風紀ノ弛緩カ完全ニ恢復セス 各幹部亦兎角ニ情実ニ流レ又ハ姑息ニ陥リ 軍自ラヲシテ地方宣撫ニ当ラシムルコトノ寧ロ有害無益ナルヲ感シ浩歎(ママ)ノ至ナリ(中略)尚軍紀風紀問題ニ就テハ矢張第十六師団長以下ノ言動宜シカラサルニ起因スルモノ多キ語ラレ 全ク従来予ノ観察ト同様ナリ」(財団法人偕行社『南京戦史資料集2』(1993年)168頁)

 

松井の「陣中日誌」から分かることは、日本軍に対する恐怖心と寒さにより市民がなかなか戻ってきておらず、その理由として「我軍ニ対スル反抗ト云フヨリモ恐怖 不安ノ念ノ去ラサルコト其重要ナル原因ナルヘシト察セラル」とある。また、日本軍の軍紀・風紀が乱れており、そのために「軍自ラヲシテ地方宣撫ニ当ラシムルコトノ寧ロ有害無益」とまで述べている。

 

南京の人口が増えているなどということは、安全区による文書、ラーベの日記、松井石根の「陣中日誌」などからみて明らかに間違いである。20万人から25万人に増えたのは、南京市ではなく、その中にあった安全区の人口なのであり、人口の移動があったということである。つまり、安全区以外は危険であるため、5万人の難民が安全区に逃げ込んだというのが正確な言い方であろう。

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