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井上源吉『戦地憲兵-中国派遣憲兵の10年間』(図書出版 1980年11月20日)-その22

〈中国人農夫から伺える日本兵の印象(1944年6月18日)〉
 
 
 岳州を出発してすでに三日目であった。残りの食糧は少ないし、城内へはいれば米の入手も困難と思われた。私たちはここで手分けして米を集めることになった。私のはいった農家には、中年の農婦がただ一人でひそんでいたが、私の姿を見ると恐怖のためか物もいわずあわててズボンを脱いだ。そして寝台の上へ上ったと思ったら、そのままあおむけになり、「救命呀、救命呀」と悲痛な声で叫びはじめた。体は許すから命だけは肋けてくれ、と訴えているらしい。   
 
「不要、不要、俺は憲兵だ。悪いことはせん。早くズボンをはけ」私はうわずった声で命令した。女は「謝々、謝々」と礼をいいながらズボンをはき、乱れた髪をかきあげていた。この光景を他人が見たら、強姦のあとだと思われるだろう。そう思うと、彼女の行動がもどかしかった。   
 
 女が身支度をととのえるのを待ち「米があったら売ってくれ」と告げると、女はやっと私の来意を知って安心した様子で「米ならここにあります。少なくて申しわけないのですが、どうぞお持ちになって下さい」と台所のすみから三リットルほどの米を持ち出してきた。(220頁)
 
 
 
 
 
〈敗戦直前の長沙の様子(1944年8月)〉
 
 
 八月にはいると水陸とも昼間に兵員や物資を移動することはほとんど不可能に近くなった。漢口を発った船の六、七十パーセントは途中で空襲を受けて撃沈破され、無事に長沙まで到着するのはわずかに三十パーセント前後となってしまった。そのため湖南方面の物資の不足は急を告げ、大米産地域にありながら玄米さえ入手できぬありさまとなった。兵隊たちは周辺村落の田から未熟の籾(もみ)を集め、これを鉄カブトのなかでついて急場をしのぎ、野戦病院では薬も包帯も不足して、苦しむ患者をみすみす見殺しにしなければならないという哀れな状態であった。土間に寝ワラを敷いただけのそまつな病室で、連日四十度に近い息苦しい暑さにたえかねた患者たちは、つぎつぎと息をひきとっていった。その患者の大部分は極度の栄養失調によるものだった。しかし、これらの患者に与えるカユに用いる米さえ満足には手にはいらなかった。病院では死体を集め裏庭に直径二十メートルもの穴を堀り、このなかで一括して火葬にした。遺骨はドラムかんに詰めて保管していたが、これを後方へ送ることさえもむずかしかった。(225頁)
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