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信仰について

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聖書にはこう書かれている。
「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存知である。」(マルコ13・32)と。

聖書歴

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関連記事:仏陀が探求したものとは

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https://www2.lit.kyushu-u.ac.jp/~indology/3words.html

ひとはいかにして激流を渡るのであるか?
いかにして海を渡るのであるか?
いかにして苦しみを超えるのであるか?
いかにして全く清らかとなるのであるか?

ひとは信仰によって激流を渡り、
精励によって海を渡る。
勤勉によって苦しみを超え、
智慧によって全く清らかとなる。

Suttanipaata 183-184

生まれたものには、生の次に必ず死がある。
生まれ、生まれて、ここに死す。
実にいのちあるものどもには、かかる定めがある。

Therag. 553

昼夜は過ぎ行き、生命は滅び去る。
死すべきもの(=生きもの)の寿命の尽きることは、
あたかも小川の水のごとし。

眠れない人には夜は長く、疲れた人には1里の道は遠い。
正しい真理を知らない愚かな者にとっては、
生死の道のりは長い。

「わたしには子がいる。わたしには財がある」と思って
愚かな者は悩む。しかしすでに自分が自分の者ではない。
ましてどうして子が自分のものであろうか。
どうして財が自分のものであろうか。

男も女も幾百万人と数多くいるが、財産を貯えたあげくには、
死の力に屈服する。

いくら財産を貯えても、最後には尽きてなくなってしまう。
高い身分地位もついには落ちてしまう。
結びついたものはついには離れてしまう。
生命はついには死に至る。

Udaanavarga I, 18-22


※ 老いについて

ああ短いかな、人の命よ。百歳に達せずして死す。
たといそれより長く生きたとしても、また老衰のために死ぬ。

人が「これはわがものである」と考える物、--- それは(その人の)
死によって失われる。
われに従う人は、賢明にこのことわりを知って、わがものという観念に
屈してはならない。

夢の中で会った人でも、目がさめたならば、
もはやかれを見ることができない。
それと同じく、愛した人でも死んでこの世を去ったならば、
もはや再び見ることができない。

「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、
死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである。

Suttanipaata 804, 806-808

この世における人々の命は、定まったすがたなく、
どれだけ生きられるかわからない。
いたましく、短くて、苦痛をともなっている。

生まれたものどもは、死を遁れる道がない。老いに達しては、死ぬ。
実に生あるものどもの定めは、このとおりである。

熟した果実は早く落ちる。それと同じく、生まれた人々は、
死なねばならぬ。かれらにはつねに死のおそれがある。

たとえば、陶工のつくった土の器がついには
すべて破壊されてしまうように、
人々の命もまたそのとおりである。

若い人も壮年の人も、愚者も賢者も、すべて死に屈服してしまう。
すべての者は必ず死に至る。

かれらは死に捉えられてあの世に去って行くが、
父もその子を救わず、親族もその親族を救わない。

見よ。見まもっている親族がとめどもなく悲嘆に暮れているのに、
人は屠所に引かれる牛のように、一人づつ、連れ去られる。

このように世間の人々は死と老いによって害われる。
それ故に賢者は、世のなりゆきを知って、悲しまない。


汝は、来た人の道を知らず、また去った人の道を知らない。
汝は(生と死の)両極を見きわめないで、いたずらに泣き悲しむ。

泣き悲しんでは、心の安らぎは得られない。
ただかれにはますます苦しみが生じ、身体がやつれるだけである。

見よ。他の[生きている]人々は、また自分のつくった業にしたがって
死んでゆく。
かれら生あるものどもは死に捕えられて、この世で慄えおののいている。

たとえば家に火がついているのを水で消し止めるように、
そのように智慧ある聡明な賢者、立派な人は、悲しみが起こったのを
速やかに滅ぼしてしまいなさい。--- 譬えば風が綿を吹き払うように。

己が悲嘆と愛執と憂いとを除け。己が楽しみを求める人は、
己が(煩悩の)矢を抜くべし。

(煩悩の)矢を抜き去って、こだわることなく、心の安らぎを得たならば、
あらゆる悲しみを超越して、悲しみなき者となり、安らぎに帰する。

Suttanipaata, 574-582, 584, 587, 591-593

※ 欲望につ

全世界は欲望の火が燃えたっている。全世界は焼かれている。
全世界は焦がされている。全世界はゆらいでいる。

AN I, p. 156 G.

世界はどこも堅実ではない。どの方角でもすべて動揺している。
わたくしは自分のよるべき住所を求めたのであるが、
すでに(死や苦しみなどに)とりつかれていないところを
見つけなかった。

この(煩悩の)矢に貫かれた者は、あらゆる方角をかけめぐる。
この矢を引き抜いたならば、(あちこちを)駆けめぐることもなく、
沈むこともない。

Suttanippata 937, 93

あらゆるものは原因があって生じる。
その原因を如来は説いた。
そしてまたその滅却をも。
偉大な沙門はこのように教えたのである。

Mahaavagga 23, 5

苦しみを知らず、また苦しみの生起するもとをも知らず、
また苦しみのすべて残りなく滅びるところをも、
また苦しみの消滅に達する道をも知らない人々、 ---

かれらは心の解脱を欠き、また智慧の解脱を欠く。
かれらは(輪廻を)終滅させることができない。
かれらは実に生と老いとを受ける。

しかるに、苦しみを知り、また苦しみの生起するもとを知り、
また苦しみのすべて残りなく滅びるところを知り、
また苦しみの消滅に達する道を知った人々、 ---

かれらは心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。
かれらは(輪廻を)終滅させることができる。
かれらは生と老いとを受けることがない。

Suttanipaata 724-727

明らかな知恵によって四つの尊い真理を見るときに,この人は迷える生存の妄執を破り摧く道を明らかに知る。
風によって吹き上げられた塵が雨によって静まるように,ひとが明らかな知恵によって見るときに,諸々の欲望の思いが静まる。

Udanavarga XII 1-2

もろもろの現象は無常である。
生じたり滅したりする性質をもっている。
生じてはまた滅する。
それらのものが静まれば安楽である。 

DN II, 157 (Mahaaparinibbaana-s.) ; Jaataka 1, 392

安らぎ(涅槃)は虚妄ならざるものである。
諸々の聖者はそれを真理であると知る。
かれらは実に真理をさとるが故に、
快を貪ることなく平安に帰しているのである。

Suttanipaata 758

ここに集まった諸々の生きものは、地上のものでも、空中のものでも、
すべて歓喜せよ。
そうしてこころを留めてわが説くところを聞け。

心を統一したサキャムニは、(煩悩の)消滅・離欲・不死・勝れたものに
到達された、---その理法(ダンマ)と等しいものは存在しない。
このすぐれた宝は理法のうちに存する。
この真理によって幸せであれ。

夏の月の初めの暑さに林の茂みでは枝が花を咲かせたように、
それに譬うべき、安らぎに赴く妙なる教え(ダンマ)を
(目ざめた人、ブッダが)説きたもうた。
--- ためになる最高のことがらのために。
このすぐれた宝が目ざめた人(ブッダ)のうちに存する。
この真理によって幸せであれ。

われら、ここに集まった諸々の生きものは、
地上のものでも、空中のものでも、神々と人とのつかえる
このように完成した<目ざめた人>(ブッダ)に礼拝しよう。
幸せであれ。

われら、ここに集まった諸々の生きものは、
地上のものでも、空中のものでも、神々と人とのつかえる
このように完成した<教え>(ダンマ)に礼拝しよう。
幸せであれ。

われら、ここに集まった諸々の生きものは、
地上のものでも、空中のものでも、神々と人とのつかえる
このように完成した<つどい>(サンガ)に礼拝しよう。
幸せであれ。

Suttanipaata, 222, 225, 233, 237-239

世界大百科事典内の色即是空の言及

【般若心経】より

… 内容は,表題のとおり,広大な般若経典の心髄をきわめて簡潔にまとめたもので,観自在菩薩(観音)が般若波羅蜜多(完全なる智慧)の行を修めて五蘊(ごうん)(存在の五つの構成要素)が空(無実体)であると悟ったことから説き起こし,仏弟子舎利子に対し,いっさいの存在が空であることを説き,最後に真言を説いている。とくに物質的存在は無実体であり,無実体なるものが物質的存在であるという意味の〈色即是空,空即是色〉という文句はよく知られる。 サンスクリット原典は古くから日本に伝えられ,とくに法隆寺に伝わる小品の貝葉(ばいよう)(609年将来)は貴重な文化財となっている。…

【菩提】より

…しかし諸法皆空を覚った覚者から見ると,存在するものは有も空も超越した実在そのものであるから諸法実相である。このような一段高められた菩提では,色即是空であるとともに空即是色なので,おなじ菩提でも浅深の差があることがわかる。一方は否定的な覚であり,一方は肯定的な覚で,いずれも存在に執着と煩悩がない点で菩提なのである。

モルモン教の信仰~カルト宗教もそうですが人が何かを信じる状態になった時,いかなる科学的論理も要をなさない

https://www.churchofjesuschrist.org/study/manual/true-to-the-faith/faith?lang=jpn

 

 

 

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