そういえば写真に残してありました、北城屋のいがまんじゅうw
毎度毎度の、『カミさんへの献上品』にてござそーろー(立場低っ
地元では比較的メジャーどころの和菓子屋さんでありますね。

つぶ餡+よもぎx3個 漉し餡x3個のセットでございます。 価格とかもチェックしておくべきか・・・
あー そういえば子供達には通称"おっぱいまんじゅう"を1個ずつ orz
これが、また。 食べ始めるまでが大騒ぎなんだわぁ _| ̄|○ il||li
追記:いがまんじゅう関連のエントリまとめ(Je@nの分だけ)
"いがまんじゅう"の起源と分布とか
>明日にでも歴史博物館の館長の所へ突撃してみようか♪
水曜スペ○ャル「我々探検隊は遂にその幻の物体との接触に成功したっ!」
今年もそんな季節に差しかかりつつ
その後少々調べてみました。(かなりの邪推を含むので鵜呑みしないように)
江戸後期には西三河/東三河と明確に分かれていた様子で、(東三河=吉田藩←譜代大大名)
牛川の渡しor吉田大橋を超えると西三河と仮定した場合、
"いがまんじゅう"の東限は豊川にあたると考えて良いのでは、ないかと。
また、現在の豊川市/新城市境界に流れる境川も江戸期の国境に当たる筈なので、
新城市以北以東も"いがまんじゅう"圏外と考えてよさそうな気がします。
そう考えると豊橋市民であっても"いがまんじゅう"に馴染んでる人、そうでない人別れてて不思議じゃない。
埼玉にも"いがまんじゅう"が存在し、また全国各地に同様の食品が別名称で存在することから、
江戸中後期、街道と宿場が整備され大衆経済(伊勢参拝)が発展して以降のシロモノだと考えるのが妥当であるように思う。
糖分は高級品だった筈ですしねw
最終的に残る疑問符は、『何故西三河で残り、現在も脈々と受け継がれているか?』であります。
あ、他に。
知多半島に"いがまんじゅう"が根付いてるかどうか知ることが出来れば、
伝播が江戸後期なのか幕末~明治初頭期なのか判断できる材料が残っているかもしれない。
毎度毎度の、『カミさんへの献上品』にてござそーろー(立場低っ
地元では比較的メジャーどころの和菓子屋さんでありますね。

つぶ餡+よもぎx3個 漉し餡x3個のセットでございます。 価格とかもチェックしておくべきか・・・
あー そういえば子供達には通称"おっぱいまんじゅう"を1個ずつ orz
これが、また。 食べ始めるまでが大騒ぎなんだわぁ _| ̄|○ il||li
追記:いがまんじゅう関連のエントリまとめ(Je@nの分だけ)
"いがまんじゅう"の起源と分布とか
>明日にでも歴史博物館の館長の所へ突撃してみようか♪
水曜スペ○ャル「我々探検隊は遂にその幻の物体との接触に成功したっ!」
今年もそんな季節に差しかかりつつ
その後少々調べてみました。(かなりの邪推を含むので鵜呑みしないように)
江戸後期には西三河/東三河と明確に分かれていた様子で、(東三河=吉田藩←譜代大大名)
牛川の渡しor吉田大橋を超えると西三河と仮定した場合、
"いがまんじゅう"の東限は豊川にあたると考えて良いのでは、ないかと。
また、現在の豊川市/新城市境界に流れる境川も江戸期の国境に当たる筈なので、
新城市以北以東も"いがまんじゅう"圏外と考えてよさそうな気がします。
そう考えると豊橋市民であっても"いがまんじゅう"に馴染んでる人、そうでない人別れてて不思議じゃない。
埼玉にも"いがまんじゅう"が存在し、また全国各地に同様の食品が別名称で存在することから、
江戸中後期、街道と宿場が整備され大衆経済(伊勢参拝)が発展して以降のシロモノだと考えるのが妥当であるように思う。
糖分は高級品だった筈ですしねw
最終的に残る疑問符は、『何故西三河で残り、現在も脈々と受け継がれているか?』であります。
あ、他に。
知多半島に"いがまんじゅう"が根付いてるかどうか知ることが出来れば、
伝播が江戸後期なのか幕末~明治初頭期なのか判断できる材料が残っているかもしれない。
お父さんアイスクリーム食べたい。
と娘
この私に買いに行けと?
しょうがない。着替えもせずにキーを持つ。
わたしバフェね!
嫁よ遠い方のミニストップいけと?
帰るコールは必要だ。
ウチは逆に施行済みですから・・・
「欲しい物があるならじーちゃんばーちゃんに言いなさい」条例
うーん吉田城がそんな境界線上にあるのはおかしい
五十三次の宿で考えるのも良いかもだ…
この辺りは『藩史事典』(秋田書店刊)やネットでも確定的な記述が見当たりませぬ。
私が(非常に限定的に)色々調べた限り、
どうも御油宿を含む赤坂~牛窪地域は幕府領らしく。
小坂井周辺も幕府直轄領だったんじゃなかろうか?
境界として他に考えられそうなのがあんま無いのよさ。。。
吉田~西大平間で幕末まで残存した藩が無いし;;
調べ始めると摩訶不思議世界満開でさー
特に江戸後期! 転封やなんやかで
「内3000石を誰某に」
「相模国内で2万石を加封される」
・・・んもぉ わけわかめ(ぉ
実際現場は誰が指揮してたんだよ?と思いたくなるほどでー
当時の浜松/掛川/駿府~江戸へ東海道沿いに東進する仮想敵への防衛線として、
吉田城は理想的な西の要で豊川を境と考えるのも、
ある意味合理的かもしれないとか思ったんですけど。
ま、歴史ヲタじゃないんで"邪推""邪推"(あ、ニゲタ
『江戸中期後期、
吉田藩/旧新城藩/田原藩域を除く東三河一部(幕府天領)に、
いがまんじゅうが伝播した。』
こう考えてもいいジャマイカ!!
もぉgdgd。。。。
ネットで判明
なんと、形を変えつつ伝播しているのだw
キーワード「愛知県の郷土料理」「いがまんじゅう」
高校の時、現国の教師が言っておりましたとさ、
「東海道沿いに『だらぁ(三河弁)』にも色々在って、"だらぁ" "ずらぁ" "らぁ" "やらぁ(ごく一部)"」なんだとか。
あまり気にする人はいないけど、
コレはコレで立派な地域の文化なんじゃないかと思うことがある。