前回のブログで個がはっきりするために他人と比較して自分をわかろうとすると、比較することから逃げられないのでは?と仮説を書きました
今日はその過程でわたしが発見したことがあるので共有したいと思います
家族との話で時々わたしが経験することです
家族へわたしの考えを伝える
家族は否定的でイライラし始める
攻撃的な感じでわたしに対応をするし論点がずれているように感じるので
わたしはじぶんの意見を正しく伝えようと意見を押す
「そういうことではないです。そういう意味ではないんです」など。
でも思い込んでいるのかへんな方向で話が進むし、わたしも不愉快になり語調が強くなる
いつもこのやり取りで(またこの展開だ。同じような型にいつもはまるな)と気づいているが画期的な打開策がなかった
落ち着くのを待ったり、複数人で報告したり、「まあ、もういいか」とあきらめたり、そういう感じだった
ところがこの個を認識するときにじぶんを信じることでしか個を認識することは難しいのではないかという仮説を書いてみるとこの型が少し違って見えてきた
じぶんはじぶんなのだ
わたしはわたしのことしかできない、という感覚があると本当にじぶんとそれ以外がくっきりしてきた
上記のやり取りって、相手が不安だったり、怖かったりしている気がした
新しい何かや、方向性を変更することで不安に思っていたり怖がっていたりする
家族とのやり取りでわたしは「それはあなたが不安なんだ」と気づいた
だから否定的だったり、中止させようとしたりする
それは賛成しない、とかいう。
でも良くみて、聞いているとそのひとが不安なんだと気づいた
そしたら急に「その不安はわたしが引き受けてない。あなたの不安をわたしは解消しない」とはっきり思った
それはあなたのことだから、自分でやったらいいですよと思った
そしたらわたしがすっかり落ち着いて全くイライラもしないし、それ以上のことが必要でないこともわかった
すごくわたしと私ではない人がはっきりして、私以外の感情の世話をわたしはしないとはっきり思った
なんだかおもしろいことに気づいたな、と一人感じた
もう少し経験を重ねていきたいと思う