亡父の出身は北多摩「清瀬の中清戸」で、、自分らは、そこを「田舎、田舎と」呼んで育ちました、、、。
17回忌は本家の当主さん(自分とは従兄弟の関係で、同い年で、昔から親しみを、しかし、池袋から30分ほどのトコで、専業農家の家業を継いでおり、、、自分にはとてもマネが出来ないなと、、、)ほか、兄、妹や、その連れ合い等で、、少人数の14名で、、
場所は本家さんの目の前が、菩提寺の「安松山・全龍寺(開創400年とか、曹洞宗です、関東地方には多い、庶民的な禅宗の宗派のようです、金子姓のお墓が20基位はあります、多分たどれば皆さん、ご親戚かと、、、)」
お爺さんに用意してもらった、自分らのお墓にはまだ、親父のみ、、そのうち自分達もですが、、、その隣二つも、叔父さん達のお墓と、、、息子たちのお墓を用意してくれた「お爺さん・弥三さんには感謝ですね」、、。
ところで、ご先祖さまは、、言い伝えでは、、入間群、八高線沿線の金子郷(高麗川の隣に金子と言う駅があります)から、江戸の中期頃移ってきたと、、、
本家さんのお墓には、、墓石が20基ほどあって、、読み取れるもののうち、寛政10年(1798年)のものが一番古く、そのほか10基ばかりは戒名も、年号も風化で読み取れないとか、、おそらく、江戸中期の享保(1716年)の頃かと、、昔の中清戸のでも、かなり古い方と、、言われてるとか、、(多分、江戸幕府が出来て、、人口増に備えた新田開発での移住だったのかなと、、)
写真2枚目、会食場所は清瀬駅近くの、本家さん知り合いの「きんぺい寿司」さんにて
3枚目は、お寺さんと本家さんの前の街道「志木街道」、見事なケヤキ並木が残ってます、、小っチャイ頃、スイカを貰いに行った時の「せみの鳴き声が凄かった」思い出が、、この街道は、昔し、秋津方面の物資を「柳瀬川」に運んで、、江戸へと、、
なお、一説では武蔵の国の有力な武士団で、平安末期から鎌倉時代に掛けて活躍した、「武蔵七党の一つ、村山党の一族(全龍寺さんにも村山姓のお墓が10数基ありますね)の金子氏がご先祖と、、」、、、多分、今の武蔵村山あたり、なんでしょうか、、。
「武蔵七党」の名を知ってる方は、かなり歴史通かと、、、今年の「大河ドラマの平清盛」でも、、これから放映される「保元・平治の乱」で、、武蔵七党として、源義朝方について戦功を上げた、「金子十郎家忠」と言う武将(金子駅の近くにお墓があるとか)の名が、、、各種の歴史書に出てきますね、、。
パソコン無い時代は、これら調べるのに随分、本を漁りましたが、、今は、ネットで簡単に検索Okです、、ご自分のご先祖調べたい方は、、、まず苗字をネットで検索してみれば、、正確には、お寺の過去帳等ですけどね、、、