佐渡で私の好きな灯台の一つ
弾崎(はじきざき)灯台
大佐渡の北端にある灯台です♪
ここは、登る朝日と沈む夕日が両方楽しめる場所だとか
残念ながら、私が訪ねた時は、日中30度越え~(~o~)
とてもとても
暑くて旅情や風景を楽しむ気候ではありませんでしたが
ここは、何度訪ねても
何故か懐かしく、せつない
どこか、「人として大切なこと」を思い出させてくれるような
そんな時の流れの中から心がふっとよみがえるような
そんな気持ちにさせてくれます
それは、この銅像のせい??
そう、ここは、「おいら岬の~灯台守は~♪」の歌でご存知の
(↑知らないって(・・? (汗)貴方は最近のボーイかギャルですね☆)
昭和32年 松竹映画 「喜びも悲しみも幾年月」
(木下恵介原作・監督・脚本)ロケ地です
以下 銅像の説明から記述しました。
この物語は、海上保安庁灯台部の前身である通信省灯台局の
「一灯台守」夫婦の手記をもとにして造られた物語で
映画の中では標識技手、有沢四郎(佐和啓二)と
妻きよ子(高峰秀子)の演ずる灯台守夫婦が岬や島の存在を
判断するのに灯台以外何も無かった昭和初期の時代に
暗夜を航海する船舶の安全のため、365日間休むことなく
人生の喜びと悲しみも犠牲にしてただ一筋の光にすべてを
捧げて全国各地の灯台を守った、25年間にわたる感動の年代記である。
有沢夫婦は、太平洋戦争に突入した昭和16年に九州の女島灯台から
この弾崎灯台に赴任し、B29が爆音を轟かす昭和20年静岡の
御前崎灯台に転勤するまで、この地で灯台守として活躍し、
荒れ狂う暴風雨で防波堤の灯台の灯りが今にも消えそうになった時、
砕け散る怒涛の中に小舟に身を託して光と守ったこともあった。
なお、佐渡の撮影は昭和32年に実施された。
全国の灯台職員に感謝して 佐渡汽船株式会社
この場所へは、「はじきのフィールドパーク」の園内から行くことができます☆
弾崎(はじきざき)灯台
大佐渡の北端にある灯台です♪
ここは、登る朝日と沈む夕日が両方楽しめる場所だとか
残念ながら、私が訪ねた時は、日中30度越え~(~o~)
とてもとても
暑くて旅情や風景を楽しむ気候ではありませんでしたが
ここは、何度訪ねても
何故か懐かしく、せつない
どこか、「人として大切なこと」を思い出させてくれるような
そんな時の流れの中から心がふっとよみがえるような
そんな気持ちにさせてくれます
それは、この銅像のせい??
そう、ここは、「おいら岬の~灯台守は~♪」の歌でご存知の
(↑知らないって(・・? (汗)貴方は最近のボーイかギャルですね☆)
昭和32年 松竹映画 「喜びも悲しみも幾年月」
(木下恵介原作・監督・脚本)ロケ地です
以下 銅像の説明から記述しました。
この物語は、海上保安庁灯台部の前身である通信省灯台局の
「一灯台守」夫婦の手記をもとにして造られた物語で
映画の中では標識技手、有沢四郎(佐和啓二)と
妻きよ子(高峰秀子)の演ずる灯台守夫婦が岬や島の存在を
判断するのに灯台以外何も無かった昭和初期の時代に
暗夜を航海する船舶の安全のため、365日間休むことなく
人生の喜びと悲しみも犠牲にしてただ一筋の光にすべてを
捧げて全国各地の灯台を守った、25年間にわたる感動の年代記である。
有沢夫婦は、太平洋戦争に突入した昭和16年に九州の女島灯台から
この弾崎灯台に赴任し、B29が爆音を轟かす昭和20年静岡の
御前崎灯台に転勤するまで、この地で灯台守として活躍し、
荒れ狂う暴風雨で防波堤の灯台の灯りが今にも消えそうになった時、
砕け散る怒涛の中に小舟に身を託して光と守ったこともあった。
なお、佐渡の撮影は昭和32年に実施された。
全国の灯台職員に感謝して 佐渡汽船株式会社
この場所へは、「はじきのフィールドパーク」の園内から行くことができます☆
弾崎灯台の話題から逸れましたね。わたしは、小木半島西端にある沢崎灯台辺りの海岸が好きです。一番は深浦の景色かな。ぼけーっと眺めながら、何時間でもいられるような気がします。
いいことですよね…ほんと
佐渡の文弥人形をご存知の方、少ないです。
能楽の方が有名かな…やっぱり。
私は文弥人形の方が、見ていて「理解できる」んで
(汗)好きですね
実は昔々…文弥人形舞台にに見とれていて、側溝に落ちた思い出があります(>_<)
今でも逆に思い出となっています^_^;
(そのお祭りも地域のためのお祭りだったように記憶しています)
以下、わたしのブログから一部を再録します。
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文弥人形は大神宮の社殿の中で上演されました。演じたのは真野の「真明座」、演目は近松門左衛門作「吉野都女楠」の二段ノ一と二です。これが実に素晴らしかったです。太夫(女性でした)の熱演、人形そのもの、そして遣い手たちの技。近松のストーリーを存分に楽しむことができました。
開演前に、観客には麦飯のおにぎり、どら焼き、お茶が配られました。毎年この日に地域の行事として行われてきた「麦飯まつり」の一環なんだなぁ、と感じ入りました。観客は30人ほど。観光客を呼ぶためのイベントではありませんから、まさに和気あいあいといった雰囲気でした。もっと大勢の人に見てほしい、という気持ちの一方で、こういう純粋な良さを保ち続けてほしいという相反する気持ちも抱いた夜でした。
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濱田守太郎さんの教えを受けたカナダ人のジョニ・ウェルズさんは今も佐渡に住んで、幅広い活動を続けています。羽茂大崎の若者が中心の虫紋座という文弥人形グループにも関わっていますね。
初耳です そのお祭り☆
私若いころ?何故か縁あって人形遣いの第一人者であった濱田守太郎さんの舞台を何回もまじかで見させていただきました
文弥人形に対しては情熱的な、厳しい、でも素晴らしい方でした
(人形から離れると佐渡弁丸出しの普通のおじいちゃんでしたよ(笑)
文弥人形って能楽と違ってなんか味があって、庶民のものって感じで、もっとじっくり見ておけばよかったなぁ…
と今ころ思ってます…はい(汗)m(__)m
7月に、文弥人形を観るために真野新町の「麦飯まつり」に行ったんですが、まつりのイベントの一つとして上映された映画が、これでした。
わたしは時間が合わなくて観ませんでしたが。