北海道大夕張は三菱鉱業の城下町みたいだったな
SS物置と言うブログを拝見させてもらった
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敗戦当時、北海道には朝鮮人三万七一七一人(全国の四一パーセント)、中国人三〇七九人(同三〇パーセント)がおり、炭鉱・鉱山・土建・港湾部門等で強制使役されていた。敗戦後彼らは、ただちに、戦時中の日本の労務管理の責任追及を開始した。それらの戦後「暴動」事件について、桑原真人『近代北海道史研究序説』が、『北海道警察史』を基礎に、その後の発掘によって補充し、四五年八月一五日から一一月二八日までの間の三一件を収録している。彼らの要求は、労務管理への不満・待遇改善・送還問題等が多い。
そのうち、九月一九日から一〇月中旬にかけての、三井美唄・三菱美唄と三菱大夕張炭鉱の場合は、白人俘虜のイニシアチブによる中国人寮解放にはじまった。解放された三菱美唄の中国人が三井美唄を訪問したのがきっかけで、三井美唄の中国人の態度が変わり、衣服支給を要求、寮や現場の係官を襲撃した。さらに、九月二四日には、両美唄から一三四人が大夕張に出向き、戦時中同様の待遇に激怒し、「食糧増配、衣服支給、自由外出」などを要求した。翌二五日夜には、中国人約四〇〇人と警官隊の大衝突がおこり、警官一人が死亡のほか多数の重傷者も出た。このため、翌日から、「中国人にたいして白米八合のほか肉、魚などが毎日支給」(『炭鉱十年史』)されることになった。いきおいづいた大夕張の中国人は、三〇日、角田に出向いた。角田の中国人は賃金交渉をはじめ、会社側の一日五円案にたいして、本国からの強制連行のさいの条件、一日九〇円を主張し、労務課長を殴打・監禁する事態にいたった。結局一〇月一〇日、占領軍の斡旋により、着山以後一か年分二五〇〇円(貸付物品代五〇円をふくむ)で解決した。真谷地・大夕張・三井美唄などでも、これに準じた金額が支払われることになった。
中国人の動向は朝鮮人にも波及した。七〇〇〇人ちかく朝鮮人のいる夕張炭鉱では、一〇月五日、朝鮮人労働組合を結成し、八、九日、ストライキを決行した。占領軍は再三にわたって布告を発し、鎮静化をはかった。結局、帰国促進・食糧改善等を一括する三〇〇万円の要求にたいして、五万円で妥結したが、以後彼らの稼動率は、一〇月には三六パーセント、一一月には一九・六パーセントと激減した。
中国人・朝鮮人の帰国要求にたいして、一〇月四日函館に上陸した米軍司令官ブルース少将は、一一月一日、「北海道の炭鉱にある華人、朝鮮人に対する布告」を出した。中国人・朝鮮人の帰国はすみやかにみとめられるべきであるが、いまは船がない、帰国までの間、米軍のため石炭増産のために働くことを要望する、というものであった。こうしたなかで「暴動」はほぼ一一月いっぱい継続する。
(「昭和の歴史8 占領と民主主義 ・焦土からの再生と独立への試練」神田文人、小学館、1989年1月1日初版)P105-106
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1945年生まれで 幼稚園に行った頃からの記憶しか無いが
その頃には朝鮮人や中国人は大夕張にはほとんどいなかったと思う
会社から金をもらって帰国したのだろう
親父から朝鮮人暴動の話は聞いたことがある
ロシア正教徒であった親父は人種差別を嫌っていたので朝鮮人を庇っていたらしい
それ故 終戦後 朝鮮人からの被害を受けなかったと聞く