「後漢書」
馬韓在西 有五十四國 其北與樂浪 南與倭接
辰韓在東 十有二國 其北與濊貊接
弁辰在辰韓之南 亦十有二國 其南亦與倭接
「魏書」
韓 在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接
方可四千里 有三種 一曰馬韓 二曰辰韓 三曰弁韓
辰韓者 古之辰國也
從郡至 倭 循海岸水行 歷韓國 乍南乍東
到 其北岸 狗邪韓國 七千餘里
北岸とあるが金海は伽耶 でも 倭人の北岸でもある
卓淳は今の大邱市周辺
伽耶の領域は
現在の全羅南道 慶尚南道 慶尚北道の一部の地域
半島の倭国群を伽耶連合と言う
列島倭国群と密接な関係にはあるが
ヤマトとは距離を置く 自立した首長国連合ではある
任那日本府と言う言葉は後世の言葉だが
「倭宰」(やまとのみこともちのつかさ)
または
「倭府」(やまとのみこともちのつかさ)はあった
朝鮮半島のこの地域を抑えるための軍事政治拠点である
当時ヤマトは 中央集権国家ではない どちらかと言うと 封建国家に近い
列島及び朝鮮半島に 強い影響力はあるが
全てヤマト領とするほどにはなっていない
絶対中央権力ではなかった
九州を管理制圧するために置かれたのが太宰府(おおやまとのみこともちのつかさ)
このように 朝鮮半島に管理制圧拠点を置く必要があった
関東を含む東国や東北を抑える軍事政治拠点が必要であったし
本格的 ヤマトによる中央集権国家は天武天皇まで待つ必要があった
朝鮮半島の覇権を失ったのは継体天皇の頃
ヤマトは百済に全羅南道地域を割譲する
「日本書紀」
[六年夏四月辛酉朔丙寅、遣穗積臣押山、使於百濟。仍賜筑紫國馬卌匹。冬十二月、百濟遣使貢調、別表請任那國上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁、四縣。哆唎國守穗積臣押山奏曰「此四縣、近連百濟、遠隔日本、旦暮易通、鶏犬難別。今賜百濟合爲同國、固存之策、無以過此。然縱賜合國、後世猶危、況爲異場、幾年能守。」大伴大連金村、具得是言、同謨而奏。廼以物部大連麁鹿火、宛宣勅使。]
哆唎國守穗積臣押山(たりのくに の みこともち ほずみのおみ おしやま)
朝鮮半島には ヤマトによる國守(くにのみこともち)と言う派遣官僚がいた
任那地域は現在の全羅南道で ヤマトの官僚が常駐していた
全羅南道地域のヤマトから派遣された官人の前方後円墳は姿を消し
伽耶連合の反対にも関わらず ヤマトは 任那を百済に割譲してしまった
伽耶諸国はヤマトに恨みを抱いた
当然だろう ヤマトに裏切られたのだから
と 同時に
ヤマトの援助を失った伽耶は やがて台頭してきた新羅に併合される
磐井の乱は 伽耶と利害を共にする九州諸国のヤマトへの抵抗でもあったようだ
この頃は列島では 人々は既に古墳人になっていた
倭人も縄文人も伽耶人も亡命漢人も交雑を重ねていた
倭(やまと) 大倭(やまと) 大和(やまと) 日本(やまと)
倭(和)訓ではすべてヤマトと読む
ヤマトが天皇家発祥の場所だろうな
色んな説があるが まだ 定かではない
だから 素人があれこれ想像する余地が出来る