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態度がデカかった倭王達

2021-04-12 09:16:01 | 極東古史考
未だに分からない

何故 
卑弥呼や倭の五王の記述が
日本書紀は勿論古事記にもない
古事記は天武天皇の考えがかなり含まれているのだが 
無い?

いずれ解明される時が来るのかも知れないが 
ま いい
積み重ねの結果として歴史はもう既に決まっている 
我々が分からないだけだ
だから現代人の推測が間違っていようと歴史にはかすり傷すら与えられない
だから我々は安心して推測を間違えてもいい 
過去に起きた事実は変わることはないから
でも 事実を知りたいのは事実だな

「宋書」
東普の時代
晉安帝義熙九年(413)
高句驪王高璉「使持節、都督營州諸軍事、征東將軍、高句驪王、樂浪公」
百濟王餘映「使持節、督百濟諸軍事、鎮東將軍、百濟王」
高句麗は征東将軍と樂浪公 百済は鎮東將軍と王に除せられている
義熙十二年(416)
百濟王餘映「使持節、督百濟諸軍事、鎮東將軍、百濟王」
百済が 督から都が付いて都督に上がった

南北朝 宋の時代

少帝景平二年(424)
高句驪王高璉「使持節、散騎常侍、都督營平二州諸軍事、征東大將軍、高句驪王、樂浪公」
高句麗は散騎常侍、都督營平二州諸軍事、征東大將軍
営州と平州つまり遼西郡と遼東郡 昔の燕国並みの広さだ
大国として扱われた
元嘉二年(425)
百濟王餘映「使持節、都督百濟諸軍事、鎮東將軍、百濟王」
百済は鎮東將軍から鎮東大將軍へ昇格
倭国王珍 自稱「使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王」
倭国は自称なのだ
俺は「使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王」だ
国内でそう決めたんだからだから中国は素直に俺を除正しろと要求した
除正 倭国王珍「安東將軍、倭國王」
でも 貰ったのは「安東將軍、倭國王」だけだった
だがこんな事でめげる倭ではなかった
元嘉七年(430)
百濟王餘毗 復修貢職 以映爵號授之
百済は代替わりして同じ爵位をもらった
元嘉二十年(443)
倭國王濟遣使奉獻 復以為「安東將軍、倭國王」
倭国にも取り敢えず以前の称号を与えた
元嘉二十八年(451)
加 倭國王濟「使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事,安東將軍」
ここで初めて「使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事,安東將軍」と
フルラインナップの称号を貰う
使者はホクホクとして帰路についた
世祖大明元年(457)
百済王毗死 子慶代立 遣使求除授 詔許
百済 又同じ称号を受ける
世祖大明六年(462)
倭王世子興 宜授爵號「安東將軍、倭國王」
倭国は代替わりしたら
「使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事」が無くなってしまった
順帝昇明二年(478)
興死 弟武立 自稱「使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭王」
武は雄略帝と推測されているが
今度は
「使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王」
を 自称した
詔除武「使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王」
ほぼ要求は入れられたが
都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事の内
さすがに百済は外された
百済は既に王として除正してあるので
中国としては入れるわけにいかなかったのだろう

「南史」では
詔除武「使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王」
齊建元中(479~481)除武「持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍
百済と同じ鎮東大將軍になり
梁武帝即位(502)進武號「征東大將軍
百済を抜いて 高句麗と同じ征東大將軍になった

だが なったとたん興味を失ったのか 
貰っても価値があんまし無いと思ったのか
中国の史書から消える

次に出てくるのは 遣隋使 遣唐使からだ
飛鳥奈良時代 知識吸収 中国の書籍を買いまくった時代
現在でも 多分 現地中国より中国古文献の数は多いと思う

「舊唐書」
日本國者 倭國之別種也
以其國在日邊 故以日本爲名
或曰 
倭國自惡其名不雅 改爲日本
或云 日本舊小國 併倭國之地
其人入朝者 多自矜大 不以實對 故中國疑焉
日本はもと小国だったが倭国を併合した
入朝する者は以前の使者と違って態度がでかい 
よって中国はこれを疑う と ある

以前の倭国の使者は朝貢国としてのへりくだりがあったが
遣唐使は中国との対等な付き合いを求めたのだろう
中国的常識では 対等すなわち生意気なのだ
飛鳥奈良時代は 日本の古代における明治維新みたいなもんだな

日本は古墳時代がもっとも面白い時代なのに
写本はおろか金石文すらちらほらしかない

卑弥呼の時代と同時期 
畿内には巨大な箸墓古墳という巨大な前方後円墳が築かれている
ヤマトと倭国の二大勢力の併存時代が古墳期だ
ヤマトが倭を吸収してゆく過程の文献があればなぁ
でも その内 分かってくるだろう

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