壬申の乱は明治維新に先行する壬申維新だったようだ
突然 数式が解けた時のように 分かった と言う時がある
国号「日本」とか「天皇」とか 現代人でも違和感のない呼称
初めて対外を意識した 統一「日本国」の国家概念や政治行政制度を作り上げた
明治維新が 徹底した欧米の政治や法律や文化の学習であったように
壬申維新は 徹底した唐の政治や法律や文化の学習であったようだ
自分は漢字を見るとつい音読みで理解しようとする
だから漢字が異なると別のものと考えやすい
和訓で読むと
「王」も「大王」も「おおきみ」で「天皇」で「すめらみこと」になった
その後 「額田王」「ぬかたのおおきみ」の様に一般化されていった
日本書紀は「やまとふみ」であり 古事記は「ふることふみ」
「倭」も「大倭」も「大和」も「日本」も 全部「やまと」と読む 何も変わっていない
「任那日本府」は「みまなの やまとの みこともちの つかさ」
「大宰府」は「おおみこともちの つかさ」
「国府」「司」は「つかさ」で地方行政府の置かれた地域や建物を指す
中央政府から派遣された官僚が 行政や軍事統括を行う役所が「つかさ」
「大宰帥」は「おおみこともちの そち」あるいは「おおみこともちの そつ」
後代「おほみこともちのかみ」で九州全域の行政軍事長官
参考にした唐の制度では都督に当たる
「大弐」「少弐」は「すけ」
気になるのは倭人伝の伊都国の官名「一大卒」だ
「一大」は「すけ」 「卒」は「師」で「そつ」或は「そち」では?
そうすると 卑弥呼は九州の地方政権となってしまうが
ずっと後の時代であるが
百済の二品官 「達卒」和訓で 「だちそち」がある
当時の 高句麗語 百済語の発音は 日本書紀に詳しい
百済の雅称である「意流」「尉礼」「意呂」
現地名では 国王は「於羅瑕」オルシ 妻は「於陸」オロである
これも とても気になる
律令制では 長官(かみ) 次官(すけ) 判官(じょう) 主典(さかん)
「帥」は親王任国で使われる事が多い
親王が現地に赴任しない場合 現地の事実上の長官は「権帥」となる
そうすると 漢字は異なっても 「そち」「かみ」「すけ」「じょう」「さかん」の官位順になる
天武天皇の諡は天渟中原瀛真人天皇「あまの ぬなはら おきの まひとの すめらみこと」
瀛(おき)は道教東方三神山の一つの瀛州
真人(まひと)は優れた道士を言う
道教の天皇大帝は神格化された北辰である北極星
神器は 「鏡」 と 「剣」 である
天皇大帝は 「紫宮」 あるいは 「紫微宮」「紫宸殿」「大極殿」などと呼ばれる宮殿に住んでいる
そして紫色を最高の神聖な色としている
天武帝は 道教がいたく気にってたようだ
「続日本記」で 地方官名を調べてみる
己未。以直大壹石上朝臣麻呂。爲筑紫総領。
直廣參小野朝臣毛野爲大貳。
直廣參波多朝臣牟後閇爲周防総領。
直廣參上毛野朝臣小足爲吉備総領。
直廣參百濟王遠寶爲常陸守。
甲子。遣正六位下藤原朝臣房前于東海道。
從六位上多治比眞人三宅麻呂于東山道。
從七位上高向朝臣大足于北陸道。
從七位下波多眞人余射于山陰道。
正八位上穗積朝臣老于山陽道。
從七位上小野朝臣馬養于南海道。
正七位上大伴宿祢大沼田于西海道。
道別録事一人。巡省政績。申理寃枉。
秋七月甲午。詔曰。籍帳之設。國家大信。逐時變更。詐僞必起。
宜以庚午年籍爲定。更無改易。
以
從五位上大石王爲河内守。
正五位下黄文連大伴爲山背守。
從五位下多治比眞人水守爲尾張守。
從五位下引田朝臣祖父爲武藏守。
正五位上上毛野朝臣男足爲下総守。
正五位下猪名眞人石前爲備前守。
以災異頻見年穀不登。詔減京畿及大宰府管内諸國調半。并免天下之庸。
やはり「かみ」は列島諸国の地方長官だな