日本書紀における武内宿祢と三国史記に出てくる于道朱君は同一人物であると言う仮説がある
これは 昔から推測されていることだが
仮説としては 面白いし その可能性はかなり確実と思えるが
文献資料からの類推だけなのが根拠が薄い 考古資料 金石資料からの裏付けが必要だろう
履中天皇以前の暦年があまりにも神話的長さなのだ
魏志倭人の条では
倭人の年の数え方が中国の1年を2年と数えているとの風習が記載されている
その事で 2倍歴を提唱する人もいる
朝鮮の三国史記 巻45 昔于老伝 朴堤上伝を読んでみる
昔于老
奈解尼師今之子 或云角干水老之子也 助賁王二年七月 以伊飡爲大將軍 出討甘文國破之 以其地爲郡縣 四年七月 倭人來侵 于老逆戰於沙道 乘風縱火 焚賊戰艦 賊溺死且盡 十五年正月 進爲舒弗邯兼知兵馬事 十六年 高句麗侵北邊 出擊之 不克 退保馬頭柵 至夜 士卒寒苦 于老行勞問 手燒薪櫵暖熱之 羣心感喜 如夾纊 沾解王在位 沙梁伐國舊屬我 忽背而歸百濟 于老將兵往討滅之 七年癸酉 倭國使臣葛那古在館 于老主之 與客戲言 早晩 以汝王爲鹽奴 王妃爲爨婦 倭王聞之怒 遣將軍于道朱君討 大王出居于柚村 于老曰 今玆之患由吾言之不愼 我其當之 遂抵倭軍 謂曰 前日之言 戲之耳 豈意興師至於此耶 倭人不答 執之 積柴置其上 燒殺之乃去 于老子 幼弱不能步人抱以騎而歸 後爲訖解尼師今 味鄒王時 倭國大臣來聘 于老妻請於國王 私饗倭使臣 及其泥醉 使壯士曳下庭焚之 以報前怨 倭人忿 來攻金城 不克引歸
論曰 于老爲當時大臣 掌軍國事 戰必克 雖不克 亦不敗 則其謀策必有過人者 然以一言之悖 以自取死 又令兩國交兵 其妻能報怨 亦變而非正也 若不爾者 其功業 亦可錄也
朴堤上
或云毛末 始祖赫居世之後 婆娑尼師今五世孫 祖阿道葛文王 父勿品波珍飡 堤上仕爲歃良州干先是實聖王元年壬寅 與倭國講和 倭王請以奈勿王之子未斯欣爲質 王嘗恨奈勿王 使己質於高句麗 思有以釋憾於其子 故不拒而遣之 又十一年壬子高句麗 亦欲得未斯欣之兄卜好爲質 大王又遣之 及訥祗王卽位 思得辯士 往迎之 聞水酒村干伐寶靺·一利村干仇里迺·利伊村干波老三人有賢智 召問曰 吾弟二人 質於倭·麗二國 多年不還 兄弟之故 思念不能自止 願使生還 若之何而可 三人同對曰 臣等聞歃良州干堤上 剛勇而有謀可得以解殿下之憂 於是 徵堤上使前 告三臣之言而請行 堤上對曰 臣雖愚不肖 敢不唯命祗承 遂以聘禮入高句麗 語王曰 臣聞交鄰國之道誠信而已 若交質子 則不及五霸 誠末世之事也 今寡君之愛弟[7]在此 殆將十年 寡君以鶺鴒在原之意 永懷不已 若大王惠然歸之 則若九牛之落一毛 無所損也 而寡君之德大王也 不可量也 王其念之 王曰 諾 許與同歸 及歸國大王喜慰曰 我念二弟 如左右臂 今只得一臂 奈何 堤上報曰 臣雖奴才 旣以身許國 終不辱命 然高句麗大國 王亦賢君 是故 臣得以一言悟之若倭人不可以口舌諭 當以詐謀 可使王子歸來 臣適彼 則請以背國論 使彼聞之 乃以死自誓 不見妻子 抵粟浦 汎舟向倭 其妻聞之 奔至浦口望舟大哭曰 好歸來 堤上回顧曰 我將命入敵國 爾莫作再見期 遂徑入倭國 若叛來者 倭王疑之 百濟人前入倭 讒言新羅與高句麗謀侵王國倭遂遣兵 邏戍新羅境外 會高句麗來侵 幷擒殺倭邏人 倭王乃以百濟人言爲實 又聞羅王囚未斯欣·堤上之家人 謂堤上實叛者 於是出師將襲新羅兼差堤上與未斯欣爲將 兼使之鄕導 行至海中山島 倭諸將密議 滅新羅後 執堤上·未斯欣妻孥以還 堤上知之 與未斯欣乘舟遊 若捉魚鴨者 倭人見之 以謂無心喜焉 於是堤上勸未斯欣潛歸本國 未斯欣曰 僕奉將軍如父 豈可獨歸 堤上曰 若二人俱發 則恐謀不成 未斯欣抱堤上項 泣辭而歸 堤上獨眠室內晏起 欲使未斯欣遠行 諸人問 將軍何起之晩 答曰 前日 行舟勞困 不得夙興 及出 知未斯欣之逃 遂縛堤上 行舡追之 適煙霧晦冥 望不及焉 歸堤上於王所 則流於木島 未幾使人以薪火燒爛支體 然後斬之 大王聞之哀慟 追贈大阿飡 厚賜其家 使未斯欣 娶其堤上之第二女爲妻 以報之 初 未斯欣之來也 命六部遠迎之 及見握手相泣 會兄弟置酒極娛 王自作歌舞 以宣其意 今鄕樂憂息曲 是也
日本書紀 巻第九 仲哀天皇九年
氣長足姬尊(神功皇后)おきながたらしひめのみこと即位前期
氣長足姬尊、稚日本根子彦大日々天皇之曾孫、氣長宿禰王之女也。母曰葛城高顙媛。足仲彦天皇二年、立爲皇后。幼而聰明叡智。貌容壯麗。父王異焉。
九年春二月、足仲彦天皇崩於筑紫橿日宮。時皇后傷天皇不從神教而早崩、以爲、知所崇之神、欲求財寶國。是以、命群臣及百寮、以解罪改過、更造齋宮於小山田邑。
三月壬申朔、皇后選吉日、入齋宮、親爲神主。則命武內宿禰令撫琴。喚中臣烏賊津使主、爲審神者。因以千繒高繒、置琴頭尾、而請曰、先日教天皇者誰神也。願欲知其名。逮于七日七夜、乃答曰、神風伊勢國之百傳度逢縣之拆鈴五十鈴宮所居神、名撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命焉。亦問之、除是神復有神乎。答曰、幡荻穗出吾也、於尾田吾田節之淡郡所居神之有也。問、亦有耶。答曰、於天事代於虛事代玉籤入彦嚴之事代主神有之也。問、亦有耶。答曰、有無之不知焉。於是、審神者曰、今不答而更後有言乎。則對曰、於日向國橘小門之水底所居、而水葉稚之出居神、名表筒男・中筒男・底筒男神之有也。問、亦有耶。答曰、有無之不知焉。遂不言且有神矣。時得神語、隨教而祭。然後、遣吉備臣祖鴨別、令擊熊襲國。未經浹辰、而自服焉。且荷持田村【荷持、此云能登利。】有羽白熊鷲者。其爲人强健。亦身有翼、能飛以高翔。是以、不從皇命。毎略盜人民。
戊子、皇后欲擊熊鷲、而自橿日宮遷于松峽宮。時飄風忽起、御笠墮風。故時人號其處曰御笠也。辛卯、至層増岐野、卽舉兵擊羽白熊鷲而滅之。謂左右曰、取得熊鷲。我心則安。故號其處曰安也。丙申、轉至山門縣、則誅土蜘蛛田油津媛。時田油津媛之兄夏羽、興軍而迎來。然聞其妹被誅而逃之。
夏四月壬寅朔甲辰、北到火前國松浦縣、而進食於玉嶋里小河之側。於是、皇后勾針爲鉤、取粒爲餌、抽取裳縷爲緡、登河中石上、而投鉤祈之曰、朕西欲求財國。若有成事者、河魚飲鉤。因以舉竿、乃獲細鱗魚。時皇后曰、希見物也。【希見、此云梅豆邏志。】故時人號其處、曰梅豆羅國。今謂松浦訛焉。是以、其國女人、毎當四月上旬、以鉤投河中、捕年魚、於今不絶。唯男夫雖釣、以不能獲魚。既而皇后、則識神教有驗、更祭祀神祗、躬欲西征。爰定神田而佃之。時引儺河水、欲潤神田、而掘溝。及于迹驚岡、大磐塞之、不得穿溝。皇后召武內宿禰、捧劒鏡令禱祈神祗、而求通溝。則當時、雷電霹靂、蹴裂其磐、令通水。故時人號其溝曰裂田溝也。皇后還詣橿日浦、解髮臨海曰、吾被神祗之教、頼皇祖之靈、浮渉滄海、躬欲西征。是以、令頭滌海水。若有驗者、髮自分爲兩。卽入海洗之、髮自分也。皇后便結分髮、而爲髻。因以、謂群臣曰、夫興師動衆、國之大事。安危成敗、必在於斯。今有所征伐。以事付群臣。若事不成者、罪有於群臣。是甚傷焉。吾婦女之、加以不肖。然暫假男貌、强起雄略。上蒙神祗之靈、下藉群臣之助、振兵甲而度嶮浪、整艫船以求財土。若事就者、群臣共有功。事不就者、吾獨有罪。既有此意。其共議之。群臣皆曰、皇后爲天下、計所以安宗廟社稷。且罪不及于臣下。頓首奉詔。
秋九月庚午朔己卯、令諸國、集船舶練兵甲。時軍卒難集。皇后曰、必神心焉、則立大三輪社、以奉刀矛矣。軍衆自聚。於是、使吾瓮海人烏摩呂、出於西海、令察有國耶。還曰、國不見也。又遣磯鹿海人名草而令視。數日還之曰、西北有山。帶雲横絚。蓋有國乎。爰卜吉日、而臨發有日。時皇后親執斧鉞、令三軍曰、金鼓無節、旌旗錯亂、則士卒不整。貪財多欲、懷私內顧、必爲敵所虜。其敵少而勿輕。敵强而無屈。則姧暴勿聽。自服勿殺。遂戰勝者必有賞。背走者自有罪。既而神有誨曰、和魂服王身而守壽命。荒魂爲先鋒而導師船。【和魂、此云珥岐瀰多摩。荒魂、此云阿邏瀰多摩。】卽得神教、而拜禮之。因以依網吾彦男垂見爲祭神主。于時也、適當皇后之開胎。皇后則取石插腰、而祈之曰、事竟還日、産於茲土。其石今在于伊都縣道邊。既而則撝荒魂、爲軍先鋒、請和魂、爲王船鎭。
冬十月己亥朔辛丑、從和珥津發之。時飛廉起風、陽侯舉浪、海中大魚、悉浮扶船。則大風順吹、帆舶隨波。不勞㯭楫、便到新羅。時隨船潮浪、遠逮國中。卽知、天神地祇悉助歟。新羅王、於是、戰々慄々厝身無所。則集諸人曰、新羅之建國以來、未嘗聞海水凌國。若天運盡之、國爲海乎。是言未訖間、船師滿海、旌旗耀日。鼓吹起聲、山川悉振。新羅王遙望以爲、非常之兵、將滅己國。讋焉失志。乃今醒之曰、吾聞、東有神國。謂日本。亦有聖王。謂天皇。必其國之神兵也。豈可舉兵以距乎、卽素旆而自服。素組以面縛。封圖籍、降於王船之前。因以、叩頭之曰、從今以後、長與乾坤、伏爲飼部。其不乾船柂、而春秋獻馬梳及馬鞭。復不煩海遠、以毎年貢男女之調。則重誓之曰、非東日更出西、且除阿利那禮河返以之逆流、及河石昇爲星辰、而殊闕春秋之朝、怠廢梳鞭之貢、天神地祇、共討焉。時或曰、欲誅新羅王。於是、皇后曰、初承神教、將授金銀之國。又號令三軍曰、勿殺自服。今既獲財國。亦人自降服。殺之不祥、乃解其縛爲飼部。遂入其國中、封重寶府庫、收圖籍文書。卽以皇后所杖矛、樹於新羅王門、爲後葉之印。故其矛今猶樹于新羅王之門也。爰新羅王波沙寐錦、卽以微叱己知波珍干岐爲質、仍齎金銀彩色及綾・羅・縑絹、載于八十艘船、令從官軍。是以、新羅王、常以八十船之調貢于日本國、其是之縁也。於是、高麗・百濟二國王、聞新羅收圖籍、降於日本國、密令伺其軍勢。則知不可勝、自來于營外、叩頭而款曰、從今以後、永稱西蕃、不絶朝貢。故因以、定內官家屯倉。是所謂之三韓也。皇后從新羅還之。
十二月戊戌朔辛亥、生譽田天皇於筑紫。故時人號其産處曰宇瀰也。
朝鮮の桓檀古記や日本の富士古文献などの近世の知識で作られたトンデモ本は論外として
自分は 日本書紀も 朝鮮の三国史記も
古い年代の長大さをを除いて
王統譜や記載されている出来事などはほぼ事実と考えている
自己の歴史を有利に書くのは何処の国でも同じ
後の歴史官達の勘違いはあるだろうが 全て捏造などあり得ないことである
三国史記における王子未斯欣は 日本書紀に記載される微叱己知波珍干岐と同一人物だ
三国遺事では新羅17代の王 奈勿尼師今36年(391年)の出来事
高句麗好太王碑文 百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民
にある耒卯年つまり 辛卯年(391年)に倭は百済・加羅・新羅を臣民にした
日本書紀の紀年
もし紀年を三干支繰り上げれば 氣長足姬尊(神功皇后)の11年(391年)が辛卯年である
だが この出来事は仲哀天皇9年の出来事 だ?
干支は8世紀の後付のものなので 出来事をメインに神功天皇元年が391年としたらどうだろう?
調べてみよう
やはり 応神天皇の時期かな?
出来事が起こった年代はわかったが ただし日本書紀の記述と暦年は合わない
日本書紀の姿勢は 百済本記に曰く とか 或る書に曰くとか データの列記がしばしば見られる
これは 知りうる資料は全て出した 構築は 後の世の人に任せる の 態度と思う
古事記の様に 矛盾を無視し一貫性をもたせた書物とは編纂の姿勢が異なる
自分は整合性が取れなくても 矛盾しても 出来るだけ得た可能性のある情報を併記する日本書紀の方が客観的姿勢と思う
645年 蘇我蝦夷・入鹿の蘇我本宗家が滅び 帝記 日嗣の原資料が失われてしまった
船恵尺が国記を火中から拾い出して中大兄皇子へ献上したと言うが定かではない
馬子とか蝦夷とか毛人とか韓子とか鞍作とかの名は 母親の出自系統を言う 現代の感覚ではヤマトとのハーフ
蘇我氏は関東の蝦夷や南韓の帰化工人集団を支配下置き 力のバックボーンとした
当時 鈴鹿山系以東の地域は軍馬の生産地であった それに伴う皮革工人の豪族もいた
中臣氏である藤原氏は常陸の日高見の在地豪族集団で 帰化人系と考えるのは錯誤している
常陸は ひたみち 和語でひなみち 都から遠い場所 ひな なのだ
そこに定住し現地化したヤマト集団 鹿島・香取が本拠地だ
現在でも 藤を一字含む藤原系 安倍氏系 高橋系などが東国集団の末裔である
中央貴族ではないが天皇家とは結びつきがある 安東阿部 奥州藤原が後に存在したのは その理由のためだ
平将門を考えてみるといい
祭祀を司る最高の長としての九州倭種の系譜 官僚勢力としての熊襲隼人の系譜
政治を司る実務の長としての関東縄文種の系譜
関西は倭種が優勢で 関東は縄文種が優勢で 九州は熊襲隼人種が優勢に見える
この住み分けは現在でも続いている
現在 祭祀の中心と政治の中心は東京にある
三種融合がうまくいったのだなぁ と 思っている
三国史記 三国遺事 金石文である高句麗好太王碑などの それぞれの記載事項
全て一致した年が 391年であり ヤマト軍の南韓における倭種 加羅・任那・後の新羅を制圧した年でもある
そうであるならば
「是年晋武帝泰初二年(漢籍では泰始 AD265年)晋起居注云武帝泰初二年十月倭女王遣重譯貢献」
倭の女王卑弥呼は 265年前後
ヤマトの女帝である氣長足姬尊(神功皇后)の治世は391年前後
氣長足姬尊(神功皇后)は卑弥呼ではない 全く別の人物であることを理解した
ヤマトと倭国が同じと思っていた自分の勘違いがわかった
ヤマトと倭国は 列島における別々の国だったのだ
息子を人質に差し出したり 娘を相手の嫁さんにしたりは
戦国動乱の時代では よくある事である
あの徳川家康だって 幼少時 人質になっていたくらいだ
当時 倭国はヤマトにとって 後の対馬藩と同じような立場になっていた
倭国にとって 長い間培ってきた貿易圏として南韓は重要である
特に弁辰の鉄鉱山の独占権 鉄梃の交易権は大事で
その権益をやすやすとヤマトに渡したくなかった
だが 新興ヤマトは勃興した高句麗・百済・新羅を対立国と認識していた
倭国と同盟を結んだ国々もあったがそれは利害関係においてのみ
基本は潜在的敵対勢力であった
百済や新羅から人質をとっても
ヤマトの葛城襲津彦が新羅のハニートラップに引っかかって加羅を討ったりしてるので
この辺の経緯はかなり錯綜している
ヤマトは北九州に宮を立て 攻撃拠点を北九州に確保し新羅に攻撃をかけた
攻撃した相手は 正確には 旧新羅 伽羅 任那だ
後の新羅 斯蘆国はまだ江原道にいたからだ
ヤマトは 南韓の倭国と北九州の倭国を制圧した
この後も 倭国である九州の反乱は続いた
利害関係だけでは無いだろう
ヤマトとて倭国と全く無縁では無い
倭国の一分派と縄文種の融合がヤマトだからだ
畿内の地名は倭国の地名を移動している
倭種も縄文種もこの頃から日本化してゆく
紀の国は狗奴国の配置 かな?
このサイトで 新羅の王名とか 武内宿祢とか葛城襲津彦とか卑弥呼とかの文字を入力して機械語翻訳の発音を聞いてみた
新羅の王名は朝鮮発音だが 武内宿祢 葛城襲津彦 卑弥呼は
たけうちすぎ かつらぎそつひこ ひみこ としか聞こえない
韓国でも これらは日本語読みなのだろうか? 日本の苗字を幾つか入力してみたが 日本語なのだ 不思議だ
韓国語翻訳
今朝は28度 湿度47% エアコン入れっぱなし
外は 朝から蒸している カラスは元気に鳴いている
朝が来た
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