弥勒山日記

自分の好きな分野を気ままに歩き回り、色々と考えます。
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弥勒山日記 (23)     2015/05/15~2015/06/15

2022年02月24日 13時33分58秒 | 日記
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五月計画 宮崎県 2015/05/10 日曜日
2015/05/15 金曜日 六日目 


宮崎の海岸段丘
古第三紀(6400万年以降)に海底に堆積した四万十層群と呼ばれる地層と、100万年から200万年前にかけて堆積した宮崎層群と呼ばれる地層が約50万年前頃から隆起しはじめ、やがて陸地となったものが宮崎平野である。隆起が速かったため海岸段丘の跡が多く残されている。
南部を最大約20メートルの厚さでシラス(入戸火砕流堆積物)、最大約3メートルの厚さでアカホヤが覆っている。大淀川や一ツ瀬川の下流部は沖積平野となっている。
以上は書物からの抜書きであるが宮崎県はその歴史よりも地形・風土の方がよほど面白いのではないだろうか?

(1)鬼の洗濯板と呼ばれる海岸は日本中にたくさんあるが感動的な風景ではある。
海蝕と言うよりも岩石の摂理割れのようにも見えるが、ここの凹凸の割れは斜めになっているのが興味深い。宮崎海岸が海蝕されながらかなりの速度で隆起していった事によるのだろうか?
(2)何かを採集している人が居た。(3)(4)

時おり雨が降る中で漁村の狭い道を抜けて、海岸沿いのやはり狭い道をほぼ1.5Km走った先に鵜殿神宮はあった。(5)10:26 鵜殿神宮 宮崎県日南市大字宮浦3232 TEL 0987-29-1001  駐車場あり 6~19時 無休
 主祭神:日子波限建鵜草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)
 創祀の年代不詳、古代以来の海洋信仰聖地

(6)(7)中々親切なことだ(8)(9)(10)

神宮本殿の手前に立て札があり、鵜殿山頂に「うがやふきあえずの陵(みささぎ)」があると書いてあったので登ってみた。(11)(12)初めは手入れされたしっかりした石段だったが(13)やがて草生してきて(14)石段とも言えなくなり(15)ただの山道となり(16)頂上近くで再び石段になり

(17)10:51 到着鵜殿神社の祭神のその墓ということになる。
日本の神道は「祖霊神信仰」で先祖の優れた人が亡くなって神になるのだから神様のお墓があっても不思議はない。

雨模様の下で荒石の階段を普通のズックで登るのは厄介だった。おまけに湿度がほとんど百パーセント近くて全身で汗をかいて、まるで水を浴びたようになってしまった。

(18)(19)登りきったら山頂のほとんど頂点部分をぐるりと玉垣と鉄条網で囲んであった。古墳ならば円墳とか方墳とか、あるいは前方後円墳などの決まった形があるけれど、ここは山の頂の狭く尖った部分そのままである。
誰がこれを「陵」であると言いだしたのかは判らないが天皇家関連の陵であると言ってしまえば発掘は不可能になるので真偽は判定不能なのだ。
日本史の源流と言う意味でも「是非! 掘って調べてくれー」と叫びたい気がする。

(20)下りの途中で巨大なミミズに遭遇した。(21)最初は蛇かと思ってギョッとしたが、これはそんな奴が存在する事も知らなかった概ね40Cm位もある巨大ミミズなのでさらにギョッとしてしまった。(22)

絶壁の海蝕洞の中にこじんまりと作られた社はどう見ても自然発生的な神社ではない。(23)(24)かってここを発見した誰かが「これはすごい。ここになにか作らなきゃ」と言って小さな祠でも作ったと言う「始まり伝説」はないのだろうか?(25)

神社の発生には二系統が考えられる。
ひとつは共同体の守り神として守護をお願いする為の場所をつくった事を始めとするもので多くの場合は祖霊信仰と重なっている。もうひとつは自然の驚異や神秘を感じる場所に、神を想定して敬い願い事を奉じる場所として作ったものである。
前者と違い後者は参拝者が特定されない為に伝説が拡大され易く。重厚な、しかし根拠に乏しい伝承が出来上がり易い。他地域の伝説とつながってその根原地であるとの説が出来易く伝説をより大規模にしかねない。


拝殿正面に直系50Cmはあろうかという見事に磨かれた鏡が安置してあった。(26)銅鏡ではないのだがこれが御神体なのだろうか?  そうだとすればこれは忌部につながる祭儀なのではあるまいか。
御神籤売場の若い男性によると、この鏡が参拝者と神をつなぐ通路であると言う。 シャーマンが神とつながる時にも多くの場合鏡が仲立ちを勤めるのは周知の事実である。


拝殿とその後に直接している本殿はその屋根を海蝕洞の天井近くまで設けてあり参拝者は建物のその周囲を回る事ができる。(27)

海蝕洞から出た所で中年の女性二人連れから話しかけられた。会話している内に私たちは名古屋から来たと仰るので筆者は春日井だと言うと二人の内の一人が小牧だと言われる。お隣さんだったのだが近くを通りかけた家族らしい5人連れの内の若い男性が自分達は熱田区だと言う。
びっくりする確率で名古屋周辺の3グループが出会ってしまったのだった。

磨崖仏があると表示されていたので寄ってみた。(28)国東半島の磨崖仏に比べると小さいし、像の表情もイマイチと思いながら引き返すと足を滑らせて路傍の石にしたたかに打ち据えられてしまった。
「思っただけで口には出していないんだぞ !」(29)

道の駅「なんごう」で遅めの昼食を摂りつつ周辺の情報を探ってみたら「宮崎県総合農業試験場」を見つけた。「トロピカルドーム及び有用植物園」との添え書きもあり、「ジャカランダの花」が見事だととも書いてあった。

(30)13:50 宮崎県総合農業試験場ジャカランダの花はすっかり気にいってしまったが草ではなく樹木なので買って帰る訳にもいかなかった。(31)(32)(33)(34)(35)

都井岬を訪問しようと思っていたが、岬のその付け根辺りに差し掛かった頃から霧が出て来た。
もやもやとした霧の塊が寄って来ては過ぎて行く。それを繰り返しながら次第に濃くなって行き、駒返しの門(料金所)では担当者の顔も霞んで見えた。担当者がこの先はもっと濃いので何も見えないだろうと言うので、諦めて引き返す事にした。

友人が経営する画廊「鯛の子ギャラリー」
 宮崎県日南市酒谷乙9163 Tel080-2644-3163

その友人は不在ながら、どんな所にあるのかだけでも見て置こうと思って出かけた。
「鯛の子」というバス停は見つけたのだがギャラリーは見つからなかった。経営者が不在なのだから案内表示などは片付けてあったのかも知れない。

城戸荘旅館 \4500 一泊朝食付き 宿泊
 宮崎県日南市春日15-24 電話番号:0987-23-1011 


2015/05/16 土曜日 七日目


(1)赤レンガ館 宮崎県日南市油津一丁目9番3号 0987-27-3600予定には無かったが昨夜食事をした店で、ぜひ見て置くようにと勧められたのである。
大正11年に当地を代表する豪商であった河野家の分家が立てた蔵だそうで、レンガの材質を見ると余り粒の揃っていない土を使い低温で焼いたのか、爪で擦ってもぼろぼろと崩れるレンガだったが鉄材でしっかりと補強してあった。
「飫肥杉とマグロで栄えた油津の繁栄を物語る歴史的建造物」と言うキャッチコピーに当地の人々の想い或いは執念のようなものを感じてしまう。(2)

(3)飫肥城跡島津の支家が作り、伊東が取って島津に取り返され秀吉の力を借りて伊東が取り返し、豊臣を捨てて徳川について安堵されて明治に至る。
結局は共に鎌倉地頭職であった島津と伊東の奪い合いであって、日向南半にあった島津荘の島津が伊豆から日向北半に移って来た伊東(旧姓 工藤)に負けたと言う事なのだ。

(4)飫肥城歴史資料館名前から判るように飫肥城と伊東家に関する資料だけが、それに関してはくどいほど多量に陳列され詳しく解説されていた。

(5)商家資料館(6)

(7)本町商人通り(国道222号)ここが一番繁華な通りらしくて店が多かったが、厚焼き玉子の店と飫肥天の店が多かった。この二つが当地の自慢食材らしいので昼食に飫肥天うどんを食べた。商家資料館もこの通りに面している。

一本裏の通りに出るとほとんど人通りが無く、旧家が並んでいる。
(8)通りの一つに幅広の水路があり、街が管理している鯉が泳いでいた。体長70m程の巨大鯉もいた。

(9)都城歴史資料館宮崎県都城市都島町 803 電話:0986-25-8011
休館日:毎週月曜日 午前9時30分~午後5時 大人個人¥210

「島津氏の「名字の地」都城 」というパネルがあった。
日向、大隈、薩摩の三カ国にまたがる大荘園である島津荘の下司職に任じられた惟宗(これむね)忠久の子孫が島津を名乗るようになったと書いてあり、これが都城が「島津家発祥の地」と言われる所以であると書いてあった。 
?が頭の中で渦巻いてしまったので事務室の男性に質問したが答えは得られなかった。
大荘園である島津荘の中の一部分である都城と島津氏の関係はやはり解らない。

又、別のパネルによると都城の支配者は北郷(ホンゴウと読む)氏であったが薩摩島津家から何度も養子を迎えた結果、島津と改姓した(つまり、乗っ取られた?)との記述もあったが、これでも都城と島津の関係には繋がらない。

(10)高城(たかじょう)歴史資料館宮崎県都城市高城町大井手2643番地5 電話0986-58-5963
休館日:毎週月曜日 利用時間:午前9時30分~午後5時 大人個人¥210

ここの管理人の説明を受けてやっと島津と都城の関係が分かった。
島津荘の中心が都城であってその祝吉(いわよし:現都城市郡元町3420)に居住した鎌倉地頭の惟宗忠久が島津を名のったが比企の乱で守護職を失い、後に北条執権に依って薩摩、大隈の守護に任ぜられて薩摩に移動した以降明治までそこで続いたようである。(11)

(12)高城歴史資料館の3F展望室からの風景九州南部の内陸地ではあるがかなり広い平野が広がっている。
都城市の面積は653.36 k㎡、東京23区の面積は622.99 k㎡とほぼ同じ広さである。(13)

薩摩・大隅で島津荘に属さない地域は大隅正八幡宮領もしくは公領であり、日向は豊前宇佐八幡宮領と公領を除いた総田数の46.7パーセントが島津荘に属している。との記事もあり、島津荘は平安時代末期には日本でも最大級と言われる規模になっていた。

島津荘中心の都城に住んだ惟宗が島津氏を名乗ったのも理解できるし、その島津氏が薩摩を本拠にした理由もやっと納得できた。

都城温泉
 宮崎県都城市宮丸町3122番地 TEL:0986-23-2222
 営業時間5:00~24:00 定休日 なし 料金:大人(中学生以上)400円
 街中に在って温泉には間違いなさそうだが、建物も客の雰囲気も普通の銭湯だった。

道の駅「都城」 車中泊
 宮崎県都城市志比田町5468 TEL:0986-26-5616


2015/05/17 日曜日 八日目 曇


筆者の想像していた都城は田舎のひなびた町で産物はお茶だけだった。
それは筆者の無知と不勉強のせいなのだが「お茶の都城」のイメージが強すぎてその他に視界が広がらなかったのも原因と言える。
都城は大きな町であって、すき家もあればネットカフェもある。昨夜は入浴のついでに道沿いのコインランドリーを利用した。後足りないのはブックオフ位なのだが、これも見かけなかっただけなのかも知れない。

(1)技の見学館 
ここは予定には無かった施設なのだが、道の駅「都城」の付帯施設なので寄ってみた。
都城市都北町5225-1 TEL 0986-38-4561(代)
定休日・休業日/年末年始 開館時間 AM9:00~PM5:00 無料 (2)(3)どうやら地場産業の展示場らしく、ロクロ木地物、木製家具、焼き物などが並べられていた(4)さすがに都城の名高いお茶のコーナーには力が入っていて説明パネルも多かった。

(5)えびの市歴史民俗資料館
休館日:毎週月曜日 午前10時~午後6時 入館料:無料
宮崎県えびの市大明司2146-2 電話:0984-35-3144  (6)地方の町が運営する資料館としてはかなり充実した施設だった。パネルの一つに「前方後円墳の出現から平城遷都までを古墳時代と言う」とあったがこれは正しいのか?

一般的に古墳時代は3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間を指すことが多い。
中でも3世紀半ば過ぎから6世紀末までは、前方後円墳が北は東北地方から南は九州地方の南部まで造り続けられた時代であり、古墳時代は「前方後円墳の時代」と呼ばれることもある。と文献にあった。

古墳の出現期はこの10数年の間にどんどんとさかのぼっていて、2002/11月に大和古墳群(おおやまとこふんぐん)内に位置するマバカ古墳(奈良県天理市、全長74m)が3世紀前半に築造された最古級の前方後円墳であると奈良県立橿原考古学研究所が発表している。

畿内の古墳群では、6世紀半ばに古市古墳群で前方後円墳の築造が終了した後、前方後円墳は造られないようになり6世紀後半になると全国各地で前方後円墳が造られないようになっていく。との記述もあった。
だから「前方後円墳の時代」は3世紀前半~6世紀後半という事になる。

又、全国的に6世紀の末までに前方後円墳が造られなくなり、畿内でも方墳や円墳がしばらくの間築造されていた時期を古墳時代の終末期と呼ばれている。
前方後円墳の前には墳丘墓、方墳、円墳などもあったが、それを無視して前方後円墳の時代を「古墳時代」とするならば3世紀前半~6世紀後半のしばらく後という事になり、和銅 3年(710年)つまり8世紀初頭の平城遷都までの間には100年前後の差があるので「古墳時代」と「平城遷都 つまり奈良時代」の間に「飛鳥時代」を挟まなければ成らないのだ。

(7)かなり豊富な鉄剣の展示がある。
(8)鉄剣の柄に鹿角が使われている物が多数あった。 

慶民ラーメン本店
宮崎県えびの市向江943 TEL 0984-37-0336 ラーメン\550 餃子\300
豚骨と若干細めの麺は良く合い、奇をてらう事なく良い味をだしていた。バランスの良さはすばらしい。
トッピングは極普通のチャーシュとネギにもやしだったが、スープの素直さは振りかけた胡椒の香りがハッキリと浮き立つことでも解る。
感動という言葉を使うにはためらいを感じるが、勧められただけのことはある美味いラーメンだった。

野尻町歴史民俗資料館
ネットで見つけてメモして置いた住所も電話番号も小林市中央公民館のものだった。公民館の玄関は開いていたが日曜日で内部は無人だったから廊下のポスターを見る以外にはないが、目的の資料館に関するものは無かった。
已むを得ないので次ぎの目的地である道の駅「ユーパル野尻」に向ってから気付いたらこちらも「野尻町」なので、道の駅で情報が得られるかも知れない。

道の駅「ユーパル野尻」 車中泊
宮崎県小林市野尻町三ケ野山4347-1 電話:0984-44-2210
ここにも情報は無かった。非常に混雑していて質問できそうな相手がいないので諦めたが、ここではハーブ祭りをやっていたのでこちらを楽しむことにした。又、ここは温泉付きである上にレストランが遅くまで開いていると言う完璧セットの道の駅だった。
(9)道の駅隣にあった展望台からの風景


2015/05/18 月曜日 九日目


(1)05:30 高千穂河原ビジターセンター
鹿児島県霧島市田口2583-12 0995-57-2505 乗用車 利用料金500円高千穂峰(1574m)峰コース登頂の予定だった。
昨夜が快晴だったので期待していたのだがたどり着いてみると空は厚い雲に覆われていて寒くて、軽いガスも出ており不安な雰囲気だった。

駐車場の入り口に料金所はあったが時間が早いせいか誰もいなかったので勝手に駐車して、一旦は登山装備に着替えたが歩き出す前に雨が降り出したので高千穂登山はあきらめた。
一応の雨具は用意しているのだが景色が見えないのでは登る価値が無く、ましてや噴火の危険がある新燃岳が近い(直線距離約6Km)ので視界不良はとても危険なのだ。

(2)ビジターセンター奥に「霧島神宮古宮址」がありそこまでの道といい広場といい小指の先ほどの軽石が敷き詰められていて、歩く足元でザッザッとかなり大きな音がする。火山からの噴出物だろうか?。遺跡発掘現場での年代決定材料にアカホヤとアイラがあって夫々7,300年前の鬼界カルデラと29,000年前の姶良火山の噴出物であり、遺跡がアカホヤの上にあるのか下にあるのか、あるいはアイラにはどうかでその遺跡の出来た時期が解るのだが宮崎南部の遺跡ではアイラの痕跡がハッキリしない。
それは姶良火山に近過ぎるので火山灰は風で遠くに運ばれてしまい、火山の近くには灰ではなく軽石が降るのである。高千穂又はその隣で1235年に大噴火したお鉢はもっと近いので高千穂麓にあるのはそこの軽石なのかもしれない。

(3)霧島神宮古宮址宮は1235年1月18日に噴火によって焼失してしまい、別の場所に現在の霧島神宮は再建してある。(4)この宮址は場所だけが残っていて1940年(昭和15)に斎場が作られたのだが、この風景を見ていて天孫降臨の意味が見えたような気がしないでもない。

(5)宮崎県は比較的遺跡の少ない県であって弥生時代、古墳時代を通じて特に先進地帯ではなく大勢力の居住があった訳でもなく、失礼な言い方で申し訳ないが過去も現在も一地方に留まっていたのにも拘わらず、日本史に取って重要な天孫降臨譚の場所になったのは何故なのか不思議に思っていた。(6)おそらく祖先伝承が出来つつある時期に人びとの眼を開き記憶に強く焼付けるような見事な噴火があったのではないだろうか? 1500年前に活動を開始したお鉢岳のすぐ横に富士山型の美しい高千穂峰が聳えている。
これは伝承と結びついて新たな伝承を生み出すには十分な状況ではなかろうか。

(7)霧島神宮 鹿児島県霧島市霧島田口2608-5 Tel0995-57-0001今年の目的は宮崎県だったが宮崎県側から高千穂峰に上るのはアプローチが長いので鹿児島県側の高千穂河原ビジターセンターへ行ったのだった。 
そして雨で登れないことから霧島神宮古宮址を訪ねることになり、その結果移転先のこれも鹿児島県側にある霧島神宮を訪ねることになったのであるが、駐車場周りは大規模な工事中だった。
(8)雨も加わって歩き難いこと大変であるが、そんな中にも大形バス2台で台湾からの観光客が来ていた。客達はてんでにばらばらに動き回っていて、ガイドらしいおばさんが大きな声で怒鳴っていた。 話しかけたかったが余りに険しい表情をしているので遠慮した。(9)(10)(11)

午後は霧島山・韓国岳(標高1700m)に登るつもりだったが雨はいっそう激しくなってきた。
幸い今夜宿泊予定の「えびの高原荘」が時間は早いものの部屋を使わせてくれると言うのでチェックインして温泉とビールでのんびりすることにした。 中々の設備であり品良く快適な宿だった。

えびの高原荘
 宮崎県えびの市大字末永1489 Tel0984-33-0161  LAN設備なし
 予約番号:87AV7MFK (税込・サービス料込)11,200円


2015/05/19 火曜日 十日目

(1)12:10 高千穂歴史民俗資料館
高千穂町大字三田井1515 TEL:0982-72-6139 大人:200円
9:00~17:00 休館日:12月28日から1月3日まで(2)小さな施設の割には努力と工夫の跡が見られて好感を持てた。(3)(4)

天孫降臨の地としては、霧島連峰の一山である高千穂峰(宮崎県高原町)と、宮崎県高千穂町の双方に降臨の伝承があるが、どちらの場所が比定されるかの定説はない。
しかし高千穂町の方には目立った山が無く、天から神が降りてくるのなら山の上がふさわしいと思うしこれが平地に降りてくるのなら着陸のイメージになってしまい、乗り物を想定する必要が生じてくるのではないかと思う。

なお高千穂町の天岩戸神社には、天照大神が隠れていた「天岩戸」と伝わる洞窟もあるが天岩戸は高天原にあったのにここには高天原の地名が無い。

これで全ての予定を終えたので帰路につくことにした。


道の駅「サンピコ江津」で車中泊
島根県江津市後地町995-1 TEL0855-55-3151
さすがに距離があって「サンピコ江津」に着いた時は22時を過ぎていた。
本日の走行距離616.2Km


2015/05/20 水曜日 十一日目
本日はひたすら帰路を走るだけ

今回の旅の不思議は日向を見に行って薩摩を知ったと言うことなのかもしれない。
総走行距離は3138.3Km



中部ライフガード展訪問 2015/05/22 金曜日 ポートメッセ名古屋

川内原子炉の再稼動 2015/05/27 水曜日
原子力規制委員会から再稼動の認可が出たとの報道があった。
不安要素に対しては意味のある対策はほとんど打っていないのだから、金のために住民を見捨てたと言われても仕方ないのではあるまいか?
東北大震災の時と同じく、危険が判っていても想定に入れなければ、これは想定外だったとの言い逃れができると考えているのだろうか?。

原子力規制委員会の任務が原子力反対派から原子炉を守ることだと言う皮肉ともジョークとも取れる噂を聞いているが信じたくはない!

放射性廃棄物の処理問題でも同じことをやっている。
地下深くに埋めるのだから絶対安全だと言っている、又大深度地下には個人の所有権が無いから費用も余り掛からないと言っている。それならば霞ヶ関の地下に埋めれば良いではないか! 東京の地価は高いが大深度地下ならばそれは関係ないはずだ。絶対に安全と明言しているのだから何の問題も無いはずだ。
問題なのはそれが実は大変危険で、自分達の近くには置きたくないと言う事実を隠したまま地方を説得しようとしていることで、だからうそ臭い説明しかできないのであろう。ボロの出ない内に見切発車しておきたいと言うことなのだろうか?

地方自治体は経済的問題を抱えているのだから交付金をちらつかせれば簡単に解決すると中央の役人・政治家は考えているようだ。どうせ税金であって自分達の懐は痛まないということなのかな?
地方から上がってくる税金で地方をいいように操る快感があるから役人・政治家は辞められないと言うことなのだろうか?

原子炉が必用であると言う論理は筆者も認める。
しかし原子炉が安全かどうかの問いに原子炉は必用であると答えるのは誤魔化し以外の何者でもない。問題は原子炉を安全にするための努力が金の掛からないものだけを少しだけやってお茶を濁そうとする態度である。

原子炉の必用性と安全性の間のバランスが、費用と強制の間のバランスに置き換えられているのである。

原子炉を安全なものに出来るかどうかは技術上の問題である。
技術上の問題ならばそれは費用と時間とやる気の問題なのだ。




親鴨会桑名散策 2015/06/12 金曜日

かなりの豪雨で目が覚めたが、計画では雨天決行とあった。
気象警報が出れば相談するとあったのでギリギリまでPC mailを立ち上げていたが何のmailも来なかったので出発した。
JR関西線は単線であって上り下りが交差するので、快速といえども余り速くはない。 客の乗り降りはないもののしばしば停車して桑名駅に着いた頃には雨は上がっていた。

「はまぐりプラザ」
桑名市大字赤須賀86-21 Tel0594-22-6010 (1)(2)「蛤(はまぐり)定食」を昼食にする予定だったが時間が早かったためにレストラン開店まで1Fの展示室を見に行った。

ほとんどは写真と説明文でありテーマも蛤、アサリ、蜆に関する物だけなのはこの施設の趣旨からして当然なのだが色々と知ることができてよかった。
特に展示されていた船の模型はどれも平底なので基本技術が河川交通だったことがよく判った。

(3)ハマグリを取る道具。 この土地で何と呼ばれているのか知らないが出雲でシジミを取る同形の道具は「じょれん」と呼ばれていた

(4)はまぐりプラザ前の揖斐川を上流に見る(5)揖斐川を下流に見るここは既に揖斐川を数キロさかのぼった位置であって、水路で熱田へ渡るには一旦海まで下らなければならないことが江戸時代と違う。つまり向かいの島(岬?)は近年埋め立てて造られたのである。

(6)蛤(はまぐり)定食のメインは焼き蛤。
蛤にしては小さくて、大き目のあさりと言ったところだが新鮮な蛤は結構美味い。
蛤ご飯と蜆の味噌汁が付いていたが味噌が濃過ぎて蜆の風味が妨げられていたのは残念だった。


(7)「六華苑」 桑名市大字桑名663-5 Tel0594-24-4466 \310 旧諸戸清六邸宅(8)(9)

(10)鹿鳴館設計者の「ジョサイア・コンドル」の設計だそうで、山林王として成し上がった大金持ちの気概が滲み出ているような建物と広くてよく手入れされた庭園だった。(11)とても暑い日だったが天井が高く趣のある建物内で広い庭と池を渡ってくる風を受けているのは心地好い時間だった。(12)


六華苑と水路を隔てて隣接している「諸戸氏庭園」も見事だった。 他家の古い庭園を買い取りその周りに新しい庭園を付加したらしく、庭園内の部分部分で趣の違いがはっきりとしているのも面白い。 (13)花菖蒲(はなしょうぶ)が見事だった。(14)(15)白状すると筆者は花菖蒲と杜若(かきつばた)をうまく区別できない。(16)
花菖蒲、杜若、あやめは皆キジカクシ目アヤメ科アヤメ属に属していて非常によく似ている。
この三つの内あやめだけは乾燥地に適していて花弁の元にあやめ(文目、網目状)の模様が在ることでこの庭にないことは判る。
杜若の花弁の弁元に白い目型模様があるのが特徴
花菖蒲の花弁の元に黄色い目型模様があるのが特徴 と図鑑に在ったので次回から花にとらわれずに花弁の元をよく見ようと思う。


「七里の渡」ではテレビの取材がやって来て、撮影するから近寄るな、しゃべるな、写真撮るなと高飛車に要求していた。何様と思っているのだろうか? 報道の自由をテレビ局の特権と勘違いしているらしい。
命がけで真実を伝えるのと、茶の間の馬鹿話を取材するのが同列であるはずは無いのだが。

上方と江戸を結ぶ東海道は道としては二箇所で途切れている。
一つは橋のない大井川で、他方は熱田と桑名を結ぶ七里の海路である。徳川政権の政策であって兵力の移動を妨げる多くの策の一つであるのだが、それは江戸時代に発達した商品経済による人・物の動きにも妨げになったはずで、七里の渡がどう係わったかには大きな興味があるのだが今見ている設備は当時のものではないのだ。
戦中の爆撃と伊勢湾台風のおかげで周囲も含めて大きく様変わりしたはずである。しかもこの船着場と熱田側の船着場の間に干拓でできた島が誕生した為にかっての航路は通れなくなっている。


お堀端を歩いて「春日神社」に向かった。付きあってくれたボランテア・ガイドさんがいろいろと説明してくれてメンバーの多くが熱心に聞いていたが筆者には余り関心がないので一人で歩き回った。

春日神社本殿は一つの建物ながら右半分は「桑名神社」、左半分は「中臣(なかとみ)神社」と成っているのも面白い。
ガイドさんが中臣は藤原氏の祖中臣鎌足のことであると言っているのが聞こえたが、大和の中臣は鎌足の父親の代からでありその一族は茨城県の鹿島に居ることとか、中臣を名乗る前は忌部氏であった可能性が高いことなどはご存知ないようだった。


さらに道を南下して「石取会館」ヘ向かう途中で「歌行灯本店」の前を通った。
多くの支店を持つにしてはこじんまりとした本店だったが、店の前に見事に咲いたアジサイの鉢がずらりと並んで女将の散水を受けていた。
かって名古屋の笹島に筆者の属する事務所があった頃は隣のビルに支店があって昼食にしばしば利用させてもらっていた。
ここの一番メニューが店名と同じ「歌行灯」であって、釜揚げうどんと天ぷらと「ゆかり」を掛けた小ごはんがセットになった筆者の大好き料理でもある。

石取会館 桑名市京町37-1 Tel0594-24-6085 見学無料 「石取祭」の山車や祭り関係の小物が展示してあり、映像資料で祭りの模様を見せてくれる。その中で「日本一やかましい祭り」と説明していたがなるほど素晴しく喧しかった。

駐車場に戻る経路で「寺町商店街」を通った。
アーケードのある商店街だが ここでもシャッターを閉めた店が多い。
日本中の古い商店街で「シャッター街」と陰口を叩かれるほどシャッターを閉ざした店が増えて来ている。
商店街側に工夫が足りないのも事実なのだが、一番大きな要因は消費者の購買形態が変ったことである。
そして、全国どこに行っても巨大スーパーができていて、そこへ行けばほとんどの品が手に入るのだ。
商品は豊富であり、新鮮であり、珍しい商品を発見することもある上に連れて行った子供たちを遊ばせる施設もあるので旧態依然の商店街には行く必要を感じなくなってきたのである。

ここ寺町商店街には多少の工夫があって「三八市」というのをやっているそうである。
3と8の付く日 3,8,13,18,23,28日に朝市を行い特売日としているらしい。しかしそれ以外の日はさっぱりだねえと言う。




権兵衛峠 2015/06/15 月曜日 
権兵衛峠を見に出かけた。
峠から経ヶ岳が見えるかもしれない、或いはルートに使えそうな尾根道が無いのか見て置きたかったのである。
木曽町の先で19号線から361号線に入るとすぐにスパイラルがあった。ちょっと変則的な形で∞(無限大を意味する記号)のようなスパイラルだが、以前来た時にこれを通った記憶が無い。

しばらく走ってトンネルを三つ通過すると、さして走らない内に権兵衛トンネルに入ってしまった。全長4467mのかなり新しく立派なトンネルだった。このトンネルも通った記憶が無い。

トンネルを抜けると下りになり、広い道路をすこし走っただけで農村地帯に出てしまった。筆者の記憶では権兵衛峠にトンネルはなく、下りはヘヤピンカーブだらけの狭い道を延々と走ったものである。

権兵衛トンネル開通の話をどこかで聞いていることを思い出した。トンネル入り口の説明パネルに2006年2月4日 開通と書いてあった。
道路は改修されていて、前回筆者が通ったのはそれよりも前の道路だったのである。
それは当然かもしれない。筆者の知っている権兵衛街道はかなりの難路であり冬季には閉鎖されていたので大変に不便だったのである。今回走った感じではおそらく厳冬期にも交通できる便利な生活道路になった事だろう。

中央アルプス北部のこの権兵衛トンネルは標高が1162mであって、中央アルプス南部の清内路トンネルの標高1094mよりは高いものの道幅はもっと広くてヘアピンカーブがほとんど無いために大変通り易い。ちなみに旧権兵衛峠は標高1522mである。
今後は筆者も清内路よりこちらの権兵衛道路を利用することが増えるだろうと思う。

さて今回の目的は権兵衛峠なので分岐を探しながら一旦引き返した。
(1)権兵衛トンネルを木曽側に越してみると広いチェン脱着場がありその脇に谷沿いに登る狭いアスファルト道路が見つかった。
どうやら旧道はここに残っているようであるが、国道表示はもはや無い。
帰宅してから調べた所、この新しい権兵衛道路(国道361号線)は旧権兵衛道路(かってはこちらが国道361号線だった)とは交差しない全く新しいルートであるらしいので筆者に記憶の無いのも当然なことのようである。
GoogleMapを拡大すると旧道が薄く表れてきた 

19号線から361号線に入る道がかっては奈良井から奈良井ダム経由で来ていて筆者が知っているのはこちらの道だった。
現在は姥神峠道路経由となっているので重なるところは全く無いのである。

さて国道361号線の表示はないものの本命らしい道路を見つけて入っていくと、微かな記憶に合いそうな道だったのでどんどんと進んで行った。

道は非常に狭くヘアピンカーブだらけの急登であり、余り通行が無いらしく枯葉枯れ枝で側溝の見えないところもあった。
時折猿があわてて逃げていく。めったに車が来ないので安心してアスファルト上に居たらしい。

(2)冬季閉鎖用のゲートがあり「伊那方面通り抜けできません」と掲示してある。 
そう書いてあっても実際には通れることもしばしばあるので行ける所まで行ってみようと思った。

(3)所々に山道の入り口があり
「米の道 権兵衛峠ルート 山頂まであとXXKm]と表示してある。(4)雪の頃にこの道をたどるのは面白いかもしれない。(5)「....あと0.1Km」の地点から山道を歩いて見ることにしたら緩やかな登り道でたちまち峠についてしまった。(6)正面は伊那方面の下り

(7)(8)しかしこの峠は歩行用の峠であって車では来れない。 

(9)車道には車道の峠があるはずだと思って、車まで戻りさらに走ってみたらすぐに封鎖柵に達してしまって「この先土砂崩落のため 前面通行止」と書いてある。
ここまでされれば無理に行くことはできないのでここを終点と認めよう。

Net記事に寄れば:平成16年(2004)秋の相次ぐ台風によりR361経ヶ岳林道区間(旧国道361号の峠部分)では至るところで山崩れや路肩崩壊が発生。以来、通行止めとなっています。
道路復旧とともに治山工事も行う必要があり、また冬期は工事ができないため工事は長期期間に及びました。R361権兵衛峠道路開通まで木曽~伊那間は通り抜け不可能な状態になっていました。

R361権兵衛峠道路開通後も林道の復旧工事が行われていましたが、平成18年(2006)7月の豪雨により新たな災害が発生。経ヶ岳林道はあちこちで道路崩壊・土砂崩れにより寸断。新たな災害場所の復旧工事により、通行止め期間は2007年初夏頃まで延期となりました。
とあり結局そのままになっているようだ。


古来の街道にある権兵衛峠は見たが筆者の目的としての車で行く権兵衛峠はこの先なので、いつか登山装備を整えてここから徒歩で行きたいと思う。
(10)ここには公衆トイレがあり、5~6台駐車可能な広場にはあやめが咲いていた。(11)ほとんど人が来なくなってしまった場所で看板だけが頑張っている。(12)公衆トイレ横の路は古街道の峠に通じていた。

(13)権兵衛トンネルまで戻ったらここには人の手であやめが植えられていた。(14)あやめと一緒に黄菖蒲も植えられていてあやめの紫と一緒に並ぶと中々の景色だった。




 弥勒山日記 (24)に続く
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