それでも日本人は「戦争」を選んだ 加藤陽子著 朝日出版社
4章 満州事変と日中戦争 日本切腹・中国介錯論
満州事変と日中戦争との説明からこの章が始まる。加藤教授は、満州事変は、「起こされた」という言葉を使う。日中戦争には、「起こった」という言葉を使い講義を進める。満州事変(1931年(昭和6年))は、1929年から2年を掛け、関東軍参謀の石原莞爾らよって事前に準備された計画であり、日中戦争(1937年(昭和12年)は、偶発的な事件である 盧溝橋事件をきっかけで起きた戦争と説明している。
昭和48年発行世界史B(山川出版社)には、日中戦争という文言はない。日中戦争ではなく日華事変と記載されている。日本の歴史教科書において、「日中戦争」という表現が使用され始めたのは、1975年(昭和50年)からであり、それ以前は「日華事変」という呼称が一般的に用いられていた。事変は Incident または Conflict、戦争は Warと英語に翻訳される。加藤教授は、当時の日本人の認識は、日中戦争を戦争として捉えていないことに注目する。太平洋戦戦争後約30年経過後も、日本は中国・ソ連に敗北したのでなく、米国との戦争に敗北した意識であろうか。
満州事変の2か月前、東京帝国大学学生への意識調査を加藤教授は紹介している。満州への武力行使は正当化という問いに対し、88%の学生が「はい」と答えていることに注目する。当時の世論は満州地域への侵攻が正義であったのであろう。満州事変で、関東軍は満州全域を占領し、満州国が1932年(昭和7年)に建国されることになる。関東軍の主導のもと、黒竜江省・吉林省・遼寧省を領域として中華民国からの独立を宣言した。首都は新京(現在の中国吉林省長春市)に定められた。満州国は独立国家とは名ばかりで、その実態は日本陸軍の部隊、関東軍に支配された傀儡国家だった。
満州事変の2年前、1929年世界大恐慌に世界中が困窮し日本も例外ではなかった。日露戦争後の中国内では、日本の戦勝によって獲得されていた権益が守られていないこと、日本が満蒙に巨額の投資をしていること、また満蒙には鉱物資源があり、それを確保することは将来の開戦に足り得るという論議がおこり、この地域を確保する必要があり、満蒙は日本の生命線であり、確保できなければ日本の生存権が脅かされる議論も起きていた。そして、満州事変は、関東軍が仕組んだ柳条湖事件を契機に満州を占領し、日本軍は1992年満州国を設立させたのである。
日中戦争(1937年~1945年)のきっかけとなったのは、盧溝橋事件である。1937年北京郊外の盧溝橋付近で、日本軍と中国軍との間で武力衝突が発生した。日本軍は、「演習中に兵士が行方不明になった」として、中国軍に捜索を要求しましたが、これが拒否されたため、両軍の間で緊張が高まり、突如として銃撃戦が発生し、戦闘が拡大した。上海戦(第二次上海事変) で、大規模な戦闘が勃発し、日華事変(日中戦争)へと発展した。日本軍は南京を占領(南京事件1937年)し、中国各地へ侵攻を進め、全面戦争へと突入した。
満州事変から日中戦争までの6年間にわたり軍部の政治への介入があった。これは立憲制下で正しくない事であったと加藤教授は言う。戦争の勝敗を決するのは「国民の組織」であり、議会政治では出来ないとの考えの延長線上に、軍部は軍部体制を構築して行った。一方、リットン報告書(1932年)での満州事変に対する非難、国際連盟からの脱退(1933年)等、国際的にも日本は孤立して行った。
日中戦争の拡大について、加藤教授は、胡適(思想家・外交官)の貢献を記している。胡適は1935年「日本切腹、中国介錯論」を唱えた。中国は、世界の2大強国となるアメリカ、ソ連の力を借りることを主張した。アメリカの海軍力、ソ連の陸軍力の構築まで、日本軍は中国と戦争を始めることを予想し、日本の攻撃を正面から受け、それが膨大な犠牲を受けても、2~3年負け続けることを説いた。日本は欧米と直接衝突する事を読み解いたのである。やがて、その通りになったのである。胡適は、北京大学の教授 として多くの知識人を育成し、中国科学院(現在の中国社会科学院) の創設に関与し中国学術発展に貢献した。外交官としても、1942年から1946年まで駐米大使を務め、1946年共産党政権になりアメリカに亡命した。1957年(民国46年)から台湾に移り、台湾へ移り台湾の学術界の発展に尽力し、自由主義的な学問の姿勢を守った。また、1939年と1957年にノーベル文学賞候補にノミネートされた経歴も持つ。
加藤教授は、優秀な政治家 汪兆銘も紹介している。国民党ナンバー2であったが、蒋介石に背き、1938年ベトナムに脱出、その後、日本の傀儡政権である南京政権を作った。汪兆銘政権主席として南京・上海地域を統治した。胡適の言う「日本切腹、中国介錯論」では中国は、いずれソビエト化してしまうことを主張した。これもその通りになったのである。汪兆銘は日本と妥協する道を選んだが、1944年南京で病死している。