愚公移山

愚公移山 「根気強く努力すれば、不可能に思えることも成し遂げられる」 ―『列子』「湯問」篇(BC400頃)ー

それでも日本人は「戦争」を選んだ  加藤陽子著  朝日出版社

2024-12-13 23:45:57 | 日記

それでも日本人は「戦争」を選んだ  加藤陽子著  朝日出版社

 序章 日本近現代史を考える 

  この著作(「それでも日本人は「戦争」を選んだ」)は、2009年7月に発行されている。今から15年前の著作である。栄光学園中学校・高校の歴史研究部の中学1年生から高校2年生計17名の生徒を対象にした2007年年末から2008年年始 5日間の集中講義をベースにした著作である。

  序章では、歴史を学ぶ意義・歴史を学ぶことの難しさ・そしてその価値・重要性を説明している。名門校の中学生・高校生、それも歴史を学ぶことに興味をもつ生徒に対しての講義であるが、現在の情勢から将来を展望することに対して重要なポイントを学ぶことが出来る。以下、機微に触れた点を列挙してみた。

  序章は、2001年9・11テロ後のアメリカと日中戦争期の日本に共通する対外認識についての考察から始まる。9・11テロに対する米国の意識は、国内にいる無法者が、罪のない市民を皆殺しにした事件であり、国家権力で鎮圧して良い事例とみなされ、邪悪な犯罪者を取り締まる感覚であり、戦いの相手を戦争の相手、当事者として認めないような感覚に陥った事をあげている。
  一方、1937年(昭和12年)に始まった日本と中国との戦争(日中戦争)は、日本政府が発した声明では「国民政府を相手とせず」、日本軍の言い分は、「報償」であり中国が条約を守らなかったから守らせるために戦闘行為をおこなっていると主張したのであった。当時の近衛内閣のブレインの記述資料からも「討匪戦」、すなわち 悪人(ギャング)を討つというような感覚であったことを述べている。9・11テロに対する米国の意識・行動との共通性を指摘している。

  次に、リンカーン大統領のゲティスバーグでの演説の一節 「of the people, by the people, for the people」と演説した背景を述べている。南北戦争中、北軍の戦意を高揚するため、国民は「人民の人民による人民のための政治を絶滅させないため」身を投げなければならないと、リンカーン大統領は述べた。この演説の一節は日本国憲法前文にも書かれている。日本国憲法で、日本は天皇制から主権は在民国家であることを定義している事を説明している。

  また「歴史は数だ」と断言した政治家レーニンを紹介している。このレーニンの言葉は、戦争の犠牲者数が圧倒的になった際、そのインパクトが歴史を変えることがあると教えていることを述べている。

  E・H・カー(1892-1982、イギリスの歴史・政治学者)を紹介している。第1次世界大戦後(1919年)から1939年迄の20年しか平和が続かなかったことを分析する。日独伊に対する大国の軍事的抑止力を構築できなかったことを問題視している。更に、E・H・カーは、科学が一般化できるように歴史も一般化出来る、即ち、歴史は科学であることを説明している。歴史から学ぶことの意義を提示する。過去の歴史が現在に影響をあたえた事例について、ロシア革命後、レーニンの後継者にスターリンを選んだ事例、すなわち後継者候補のトロツキーがフランス革命の帰結から第2のナポレオンになる事を知った上で、軍事的カリスマを警戒することでグルシアから来た田舎者のスターリンを選んだ結果、スターリンの大粛清の歴史に繋がることになった。明治期、西郷隆盛という人物がいた。ナポレオンとトロツキーと西郷隆盛に共通するのはカリスマ性を持つ軍事的リーダーであった。西南戦争後、政治から軍隊を切り離し統帥権の独立がはかられたことで、日中戦争・太平洋戦争の局面で外交・政治・軍事の連携が取れず、戦争による大量犠牲者を出した。
  
  アメリカの政治学者・歴史学者 アーネスト・メイ(1928 – 2009) の著作「歴史の教訓」を紹介する。その著作では、ベトナム戦争に関する政策を立てていた政府機関の中で最も優秀な補佐官が立案した政策が大きな誤りを生んだことに対し、3つの命題をまとめた。①外交政策の形成者は、歴史が教えたり予告したりしていると自ら信じているものの影響を受ける事。②政策形成者は、通常、歴史を誤用すること。③政策形成者は歴史を選択して用いることが出来る事。
  アーネスト・メイは、第2次世界大戦の終結政策に於いて、アメリカ国民の犠牲という点だけではなく、冷戦時代を考慮すれば、ソ連を牽制するためにも、ドイツ・日本の降伏条件を緩和すべきであったとアメリカの政策を非難している。スターリンの発言から、戦後ソ連が東欧・東アジアへの影響力の行使を予知出来たはずと言っている。 アーネスト・メイはベトナム戦争に深入れしてしまった理由について、アメリカの「中国喪失」の体験をあげる。第2次世界大戦の米英と共に戦勝国となった、蒋介石が率いる中華民国であったが、中国内戦の結果、米国は多額の支援を中華民国にしていたにも関わらず、中国は1949年共産党による中華人民共和国となり共産化してしまった。あくまで介入してアメリカの望む体制を作り上げなくてはならなかったのである。人口10数億の中国の共産化を、ソ連に接して誕生するのを見過ごした中国喪失体験がベトナム介入にアメリカを縛ってしまった。

 

  

 

 

 

 


それでも日本人は「戦争」を選んだ  加藤陽子著  朝日出版社

2024-12-04 15:12:17 | 日記

それでも日本人は「戦争」を選んだ  加藤陽子著  朝日出版社 

 第1章 日清戦争 「侵略・被侵略」では見えてこないもの

 

 1章の冒頭では、日清戦争に至るまでの過程に関して、列強の圧力の中、落ちる中国、伸びる日本といった枠組みではなく、欧米と中国、欧米と日本を別々に捉えるべきである事を指摘している。日本と中国が競い合う物語として過去を見る、則ち中国の文化的、社会的、経済政策を日本と比較することで日中関係を説明する視点を上げている。
日本は1889年大日本帝国憲法を完成させ、1890年商法、民法、民事・刑事訴訟法を交付するなど、軍備だけでなく近代化を図って来た。一方、中国は「華夷秩序」(中国が世界の中心(華)とされ、それ以外の地域や民族が「夷」(周辺の異民族)と見なされる)からの継続を含め、中国と東アジアとの関係を律する朝貢体制が形成されていた。例えば、列強が朝鮮での案件があれば、中国を通し交渉すれば良いのである。フランスがベトナムの港を独占使用する動きに対しては、清国は清仏戦争に打って出る。その結果、清朝に有利な講和も取り付けるなど、1880年代 李鴻章は清国軍隊の近代化を推進していた。
この指摘を踏まえ、昭和48年発行 世界史(新版)B 山川出版社の高校教科書からの日清戦争に関する説明を読むと理解が深まる。

「明治政府は列強の侵略に対抗するために富国強兵政策をはかり、政治・経済・軍事・教育のあらゆる分野にわたって急速な改革をおこない、工業生産の発展に力を注いだ。対外的には、それまで日本・中国双方に帰属する形を取っていた琉球の所有を確保し、さらに琉球人が台湾で土民に殺された事件の責任を回避したのを理由に台湾に出兵した。また清を宗主国とする朝鮮は、江戸時代に日本と交わりをもしちながら、維新政府に対し容易に国をひらかなったが、1875年江華島事件を機にその開国に成功し、条約(日朝修好条規)を結んだ。清はこれに対抗し、また朝鮮内部の派閥問題もからみ(親日派の独立党と日本に清にたよる事大党の対立)、日清間にたびたび紛争が生じたが、1894年全羅道におこった宗教的秘密結社東学党の反乱を契機に、日清両国はついに開戦した(日清戦争)、明治維新以来急速な富国強兵策を進めていた日本は、たちまち清軍を破って、翌年和を結び(下関条約)、清に朝鮮の独立を認めさせて朝鮮進出の手がかりとして、遼東半島・台湾・澎湖島を割譲させて列強の注目を浴びるにいたった。」(昭和48年発行 世界史(新版)B 山川出版社)

 第1章日清戦争では、日清戦争はなぜ起きたかの論点では、教科書にはない視点の一つに、日清戦争は帝国主義戦争の代理戦争であったことを不可避としている。イギリスは、日清間で朝鮮問題による紛争が発生した場合、紛争に対応しロシア軍の南下策を恐れ、日本に対する関税自主権や治外法権の改訂に応じ、日本の清国に対する戦争を容認する立場を取る。一方、清国の李鴻章はロシアに接近しロシアの代理が清国となる図式となる。 日清戦争後 下関条約で、朝鮮は「完全無欠なる独立自主の国」となることで、1878年に締結した日朝修好条規に於ける日本に対する条件は、諸外国にも対等に適用され諸外国にとって貿易上の利益にかなった。
 日本は清国から賠償金(当時の国家予算の3倍の額)だけではなく、領事裁判権廃止、関税自主権の回復、遼東半島・台湾・澎湖島割譲を獲得し、富国強兵策に邁進していく。
 
 この章では日清戦争開戦から終戦そしてその後の日本の変遷を具体的に著者の歴史的見解を説明している。
日本と中国が競い合う物語として日清戦争を見る、則ち中国の文化的、社会的、経済政策を日本と比較することで日中関係を説明する視点を上げている。この二国間の関係は欧米列強以上に深い歴史を持つ。次の章に読み進めたい。