それでも日本人は「戦争」を選んだ 加藤陽子著 朝日出版社
第1章 日清戦争 「侵略・被侵略」では見えてこないもの
1章の冒頭では、日清戦争に至るまでの過程に関して、列強の圧力の中、落ちる中国、伸びる日本といった枠組みではなく、欧米と中国、欧米と日本を別々に捉えるべきである事を指摘している。日本と中国が競い合う物語として過去を見る、則ち中国の文化的、社会的、経済政策を日本と比較することで日中関係を説明する視点を上げている。
日本は1889年大日本帝国憲法を完成させ、1890年商法、民法、民事・刑事訴訟法を交付するなど、軍備だけでなく近代化を図って来た。一方、中国は「華夷秩序」(中国が世界の中心(華)とされ、それ以外の地域や民族が「夷」(周辺の異民族)と見なされる)からの継続を含め、中国と東アジアとの関係を律する朝貢体制が形成されていた。例えば、列強が朝鮮での案件があれば、中国を通し交渉すれば良いのである。フランスがベトナムの港を独占使用する動きに対しては、清国は清仏戦争に打って出る。その結果、清朝に有利な講和も取り付けるなど、1880年代 李鴻章は清国軍隊の近代化を推進していた。
この指摘を踏まえ、昭和48年発行 世界史(新版)B 山川出版社の高校教科書からの日清戦争に関する説明を読むと理解が深まる。
「明治政府は列強の侵略に対抗するために富国強兵政策をはかり、政治・経済・軍事・教育のあらゆる分野にわたって急速な改革をおこない、工業生産の発展に力を注いだ。対外的には、それまで日本・中国双方に帰属する形を取っていた琉球の所有を確保し、さらに琉球人が台湾で土民に殺された事件の責任を回避したのを理由に台湾に出兵した。また清を宗主国とする朝鮮は、江戸時代に日本と交わりをもしちながら、維新政府に対し容易に国をひらかなったが、1875年江華島事件を機にその開国に成功し、条約(日朝修好条規)を結んだ。清はこれに対抗し、また朝鮮内部の派閥問題もからみ(親日派の独立党と日本に清にたよる事大党の対立)、日清間にたびたび紛争が生じたが、1894年全羅道におこった宗教的秘密結社東学党の反乱を契機に、日清両国はついに開戦した(日清戦争)、明治維新以来急速な富国強兵策を進めていた日本は、たちまち清軍を破って、翌年和を結び(下関条約)、清に朝鮮の独立を認めさせて朝鮮進出の手がかりとして、遼東半島・台湾・澎湖島を割譲させて列強の注目を浴びるにいたった。」(昭和48年発行 世界史(新版)B 山川出版社)
第1章日清戦争では、日清戦争はなぜ起きたかの論点では、教科書にはない視点の一つに、日清戦争は帝国主義戦争の代理戦争であったことを不可避としている。イギリスは、日清間で朝鮮問題による紛争が発生した場合、紛争に対応しロシア軍の南下策を恐れ、日本に対する関税自主権や治外法権の改訂に応じ、日本の清国に対する戦争を容認する立場を取る。一方、清国の李鴻章はロシアに接近しロシアの代理が清国となる図式となる。 日清戦争後 下関条約で、朝鮮は「完全無欠なる独立自主の国」となることで、1878年に締結した日朝修好条規に於ける日本に対する条件は、諸外国にも対等に適用され諸外国にとって貿易上の利益にかなった。
日本は清国から賠償金(当時の国家予算の3倍の額)だけではなく、領事裁判権廃止、関税自主権の回復、遼東半島・台湾・澎湖島割譲を獲得し、富国強兵策に邁進していく。
この章では日清戦争開戦から終戦そしてその後の日本の変遷を具体的に著者の歴史的見解を説明している。
日本と中国が競い合う物語として日清戦争を見る、則ち中国の文化的、社会的、経済政策を日本と比較することで日中関係を説明する視点を上げている。この二国間の関係は欧米列強以上に深い歴史を持つ。次の章に読み進めたい。
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