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それでも日本人は「戦争」を選んだ  加藤陽子著  朝日出版社

2025-01-04 12:30:34 | 日記

それでも日本人は「戦争」を選んだ  加藤陽子著  朝日出版社
2章 日露戦争 ー朝鮮か満州か、それが問題ー

     昭和48年発行 世界史(新版)B 山川出版社の高校教科書からの日露戦争に至る過程での記載を抜粋する。 「三国干渉で日本の南満州進出をはばんだロシアは、義和団事変に際し満州に大軍を送り、事変終了後も撤兵せず、更に朝鮮に圧力を加えたので、日本軍は直接脅威を感ずるようになった。このため極東において利害関係を同じくする日英両国は共同してロシアに対抗しようとし、日英同盟が結ばれた(1902年)。アメリカもさきの門戸開放声明からロシアの行動を不快としていたので、日本はイギリス・アメリカの経済的援助を背景に強硬な態度をとり、1904年の日露戦争となった。」


    日露戦争までの過程を世界史(新版)Bで確認し、第2章日露戦争を読み進めると、この章の副題「朝鮮か満州か、それが問題」、この副題が日露戦争のキーワードなのかが認識される。第1章日清戦争では、なぜ日清戦争が起きたかの論点で、加藤教授の視点の一つに、日清戦争は帝国主義戦争の代理戦争であったことを不可避としている。イギリスは、日清間で朝鮮問題による紛争が発生した場合、紛争に対応しロシア軍の南下策を恐れ、日本に対する関税自主権や治外法権の改訂に応じ、日本の清国に対する戦争を容認する立場を取った。一方、清国の李鴻章はロシアに接近した。ロシアの代理が清国となる図式となった。


    この2章では、日露戦争も代理戦争であったことを加藤教授は言う。ドイツ・フランスはロシアに財政的援助をあたえ、イギリス・アメリカが日本に財政的援助をあたえた。日清戦争の前、イギリスは日英通商航航海条約で不平等条約の一部訂正を約束したが、日露戦争の前、アメリカは日本に同様の約束をした。日露戦争中は、中立の立場の中国も日本に義援金を渡す等、戦場においても日本軍支援に廻ることになる。
日本の日露戦争の軍事費用を調べた。(ChatGPT) 最終的軍事費予算は約17億4642万円。日本銀行は戦費調達のため、計4回外債を発行している。第1回外債(1904年3月)は高橋是清がロンドンで交渉し、1000万ポンド(約2億4300万円)を調達。 第2回外債(1904年11月) 同じく1000万ポンドを調達した。そして、第3回外債(1905年3月)は、ニューヨークで1500万ドル(約3億円)を調達、第4回外債(1905年7月)も、 ニューヨークで3000万ドル(約6億円)を調達した。外債発行により、総額約13億円を調達した。内訳は 第1回、第2回外債はロンドン市場で発行。イギリス投資家からの資金が中心。第3回および第4回外債はニューヨーク市場で発行。特に、ユダヤ系銀行家ジェイコブ・シフの協力が大きかった。この外債発行で、必要な戦費を調達し日露戦争を戦い抜くことが出来たのである。


  日露戦争以前、ウィーン大学ローレンツ・フォン・シュタイン教授は、山形有朋・伊藤博文にロシアからの脅威を警告している。朝鮮半島を第3国に占領されないようにせよと警告したのである。加藤教授はこのことに注目する。日清戦争後、朝鮮をめぐる問題に関しては日中では解決されていたが、ロシアと日本間ではそうではなかった。1897年朝鮮は、大朝鮮国の国号を大韓帝国に変え近代化を目指す開国を行う。これを最初に承認したのはロシアであった。韓国をめぐって日本、ロシアとは均衡状態であったのである。ロシアは、義和団事変に際し満州に大軍を送り、事変終了後も撤兵せず、更に朝鮮に圧力を加え、三国干渉で日本より遼東半島を中国に返還させた報酬として、関東州(大連・旅順)と南満州鉄道の利権も獲得していた。日本はロシアに対し、1904年2月6日に外交関係を断絶。宣戦布告は、2月10日に日本側から発せられた。宣戦布告に先立ち、1904年2月8日夜から、日本海軍は旅順港に停泊していたロシア艦隊に奇襲攻撃を行った。この攻撃により戦争が事実上開始された。
      日露戦争開戦から一年半の間に、日本・ロシア共、双方約20万人の死傷者を出した。特に、二〇三高地の戦いでは勝利をおさめたものの、肉弾戦を強いられ日本軍述べ13万人部隊の約7割(死者1万5千人、負傷者4万4千人、戦病者3万人)にのぼる損傷を受ける。しかし、最終的に日本はこの戦争に勝利した。


     世界史(新版)B 山川出版社の高校教科書からの日露戦争後の推移を抜粋する。「日本はこの戦争に勝利をおさめ、ポーツマス条約をむすんだ。その結果日本はロシアから関東州(大連・旅順)を南満州鉄道の利権を受けつぎ、朝鮮での日本の保護権をもえた。まもなく日本は李朝の衰運に乗じて朝鮮を政治的・経済的に圧迫し、1910年併合した(韓国併合)。しかし、日本の急激な大陸進出はアメリカの友好感情を冷却させ、東アジアにおける両国の対立を激しくし、アメリカで日本移民の排斥問題がおこったのはこのころからである。しかし日本の勝利がアジア民族にあたえた影響は大きく、各地に覚醒がみられた。」
  ポーツマス条約では、日本は賠償金を獲得できなかったが、韓国が日本に植民地化されることが規定路線となる。ロシアが黒竜江省、吉林省、遼寧省を占領していたことで排斥されていた列強は、満州に平等に入れるようになった。 


     日本は戦費を補うため増税策を取ったが、結果として増税により、選挙権獲得にあたり、(「直接国税10円以上」と定められていた)より多くの人々の納税基準を満たすこととなり、有権者数は増加した。1903年の有権者数は約95万人に対し、日露戦争後の1908年には約159万人に増加。後の普通選挙制度の導入、大正デモクラシーの進展にも影響を与える。


     日本は、日露戦争後、韓国を保護国としていたが、1910年韓国を併合した。 日本は日露戦争後アジアの希望となったが、アジア諸国の独立運動を抑圧する側にも回る。1907年 日本はフランスと日仏協約を結び、ベトナムの独立運動の取り締まりに協力する。アメリカから日露戦争の資金支援を受けていたが、急激な大陸進出等により関係は悪化していく。~恩知らずと思われたのだろうか。~


それでも日本人は「戦争」を選んだ  加藤陽子著  朝日出版社

2024-12-13 23:45:57 | 日記

それでも日本人は「戦争」を選んだ  加藤陽子著  朝日出版社

 序章 日本近現代史を考える 

  この著作(「それでも日本人は「戦争」を選んだ」)は、2009年7月に発行されている。今から15年前の著作である。栄光学園中学校・高校の歴史研究部の中学1年生から高校2年生計17名の生徒を対象にした2007年年末から2008年年始 5日間の集中講義をベースにした著作である。

  序章では、歴史を学ぶ意義・歴史を学ぶことの難しさ・そしてその価値・重要性を説明している。名門校の中学生・高校生、それも歴史を学ぶことに興味をもつ生徒に対しての講義であるが、現在の情勢から将来を展望することに対して重要なポイントを学ぶことが出来る。以下、機微に触れた点を列挙してみた。

  序章は、2001年9・11テロ後のアメリカと日中戦争期の日本に共通する対外認識についての考察から始まる。9・11テロに対する米国の意識は、国内にいる無法者が、罪のない市民を皆殺しにした事件であり、国家権力で鎮圧して良い事例とみなされ、邪悪な犯罪者を取り締まる感覚であり、戦いの相手を戦争の相手、当事者として認めないような感覚に陥った事をあげている。
  一方、1937年(昭和12年)に始まった日本と中国との戦争(日中戦争)は、日本政府が発した声明では「国民政府を相手とせず」、日本軍の言い分は、「報償」であり中国が条約を守らなかったから守らせるために戦闘行為をおこなっていると主張したのであった。当時の近衛内閣のブレインの記述資料からも「討匪戦」、すなわち 悪人(ギャング)を討つというような感覚であったことを述べている。9・11テロに対する米国の意識・行動との共通性を指摘している。

  次に、リンカーン大統領のゲティスバーグでの演説の一節 「of the people, by the people, for the people」と演説した背景を述べている。南北戦争中、北軍の戦意を高揚するため、国民は「人民の人民による人民のための政治を絶滅させないため」身を投げなければならないと、リンカーン大統領は述べた。この演説の一節は日本国憲法前文にも書かれている。日本国憲法で、日本は天皇制から主権は在民国家であることを定義している事を説明している。

  また「歴史は数だ」と断言した政治家レーニンを紹介している。このレーニンの言葉は、戦争の犠牲者数が圧倒的になった際、そのインパクトが歴史を変えることがあると教えていることを述べている。

  E・H・カー(1892-1982、イギリスの歴史・政治学者)を紹介している。第1次世界大戦後(1919年)から1939年迄の20年しか平和が続かなかったことを分析する。日独伊に対する大国の軍事的抑止力を構築できなかったことを問題視している。更に、E・H・カーは、科学が一般化できるように歴史も一般化出来る、即ち、歴史は科学であることを説明している。歴史から学ぶことの意義を提示する。過去の歴史が現在に影響をあたえた事例について、ロシア革命後、レーニンの後継者にスターリンを選んだ事例、すなわち後継者候補のトロツキーがフランス革命の帰結から第2のナポレオンになる事を知った上で、軍事的カリスマを警戒することでグルシアから来た田舎者のスターリンを選んだ結果、スターリンの大粛清の歴史に繋がることになった。明治期、西郷隆盛という人物がいた。ナポレオンとトロツキーと西郷隆盛に共通するのはカリスマ性を持つ軍事的リーダーであった。西南戦争後、政治から軍隊を切り離し統帥権の独立がはかられたことで、日中戦争・太平洋戦争の局面で外交・政治・軍事の連携が取れず、戦争による大量犠牲者を出した。
  
  アメリカの政治学者・歴史学者 アーネスト・メイ(1928 – 2009) の著作「歴史の教訓」を紹介する。その著作では、ベトナム戦争に関する政策を立てていた政府機関の中で最も優秀な補佐官が立案した政策が大きな誤りを生んだことに対し、3つの命題をまとめた。①外交政策の形成者は、歴史が教えたり予告したりしていると自ら信じているものの影響を受ける事。②政策形成者は、通常、歴史を誤用すること。③政策形成者は歴史を選択して用いることが出来る事。
  アーネスト・メイは、第2次世界大戦の終結政策に於いて、アメリカ国民の犠牲という点だけではなく、冷戦時代を考慮すれば、ソ連を牽制するためにも、ドイツ・日本の降伏条件を緩和すべきであったとアメリカの政策を非難している。スターリンの発言から、戦後ソ連が東欧・東アジアへの影響力の行使を予知出来たはずと言っている。 アーネスト・メイはベトナム戦争に深入れしてしまった理由について、アメリカの「中国喪失」の体験をあげる。第2次世界大戦の米英と共に戦勝国となった、蒋介石が率いる中華民国であったが、中国内戦の結果、米国は多額の支援を中華民国にしていたにも関わらず、中国は1949年共産党による中華人民共和国となり共産化してしまった。あくまで介入してアメリカの望む体制を作り上げなくてはならなかったのである。人口10数億の中国の共産化を、ソ連に接して誕生するのを見過ごした中国喪失体験がベトナム介入にアメリカを縛ってしまった。

 

  

 

 

 

 


それでも日本人は「戦争」を選んだ  加藤陽子著  朝日出版社

2024-12-04 15:12:17 | 日記

それでも日本人は「戦争」を選んだ  加藤陽子著  朝日出版社 

 第1章 日清戦争 「侵略・被侵略」では見えてこないもの

 

 1章の冒頭では、日清戦争に至るまでの過程に関して、列強の圧力の中、落ちる中国、伸びる日本といった枠組みではなく、欧米と中国、欧米と日本を別々に捉えるべきである事を指摘している。日本と中国が競い合う物語として過去を見る、則ち中国の文化的、社会的、経済政策を日本と比較することで日中関係を説明する視点を上げている。
日本は1889年大日本帝国憲法を完成させ、1890年商法、民法、民事・刑事訴訟法を交付するなど、軍備だけでなく近代化を図って来た。一方、中国は「華夷秩序」(中国が世界の中心(華)とされ、それ以外の地域や民族が「夷」(周辺の異民族)と見なされる)からの継続を含め、中国と東アジアとの関係を律する朝貢体制が形成されていた。例えば、列強が朝鮮での案件があれば、中国を通し交渉すれば良いのである。フランスがベトナムの港を独占使用する動きに対しては、清国は清仏戦争に打って出る。その結果、清朝に有利な講和も取り付けるなど、1880年代 李鴻章は清国軍隊の近代化を推進していた。
この指摘を踏まえ、昭和48年発行 世界史(新版)B 山川出版社の高校教科書からの日清戦争に関する説明を読むと理解が深まる。

「明治政府は列強の侵略に対抗するために富国強兵政策をはかり、政治・経済・軍事・教育のあらゆる分野にわたって急速な改革をおこない、工業生産の発展に力を注いだ。対外的には、それまで日本・中国双方に帰属する形を取っていた琉球の所有を確保し、さらに琉球人が台湾で土民に殺された事件の責任を回避したのを理由に台湾に出兵した。また清を宗主国とする朝鮮は、江戸時代に日本と交わりをもしちながら、維新政府に対し容易に国をひらかなったが、1875年江華島事件を機にその開国に成功し、条約(日朝修好条規)を結んだ。清はこれに対抗し、また朝鮮内部の派閥問題もからみ(親日派の独立党と日本に清にたよる事大党の対立)、日清間にたびたび紛争が生じたが、1894年全羅道におこった宗教的秘密結社東学党の反乱を契機に、日清両国はついに開戦した(日清戦争)、明治維新以来急速な富国強兵策を進めていた日本は、たちまち清軍を破って、翌年和を結び(下関条約)、清に朝鮮の独立を認めさせて朝鮮進出の手がかりとして、遼東半島・台湾・澎湖島を割譲させて列強の注目を浴びるにいたった。」(昭和48年発行 世界史(新版)B 山川出版社)

 第1章日清戦争では、日清戦争はなぜ起きたかの論点では、教科書にはない視点の一つに、日清戦争は帝国主義戦争の代理戦争であったことを不可避としている。イギリスは、日清間で朝鮮問題による紛争が発生した場合、紛争に対応しロシア軍の南下策を恐れ、日本に対する関税自主権や治外法権の改訂に応じ、日本の清国に対する戦争を容認する立場を取る。一方、清国の李鴻章はロシアに接近しロシアの代理が清国となる図式となる。 日清戦争後 下関条約で、朝鮮は「完全無欠なる独立自主の国」となることで、1878年に締結した日朝修好条規に於ける日本に対する条件は、諸外国にも対等に適用され諸外国にとって貿易上の利益にかなった。
 日本は清国から賠償金(当時の国家予算の3倍の額)だけではなく、領事裁判権廃止、関税自主権の回復、遼東半島・台湾・澎湖島割譲を獲得し、富国強兵策に邁進していく。
 
 この章では日清戦争開戦から終戦そしてその後の日本の変遷を具体的に著者の歴史的見解を説明している。
日本と中国が競い合う物語として日清戦争を見る、則ち中国の文化的、社会的、経済政策を日本と比較することで日中関係を説明する視点を上げている。この二国間の関係は欧米列強以上に深い歴史を持つ。次の章に読み進めたい。