自分と他者とのやり取り=コミュニケーションだと自分は思っている。人に何かを伝えるのは人間としての社会行動として当たり前の事。ではなぜ、解り合えない?理解し合えない?反発し合うのだろうか?同一言語圏にいる者同士、多言語圏の人との関わりでもよくある事である。最近の出来事からこの人間臭い問題への興味が高まったのである。
自分が言語に興味が向いたのは単に外国語が好きだった。人との関わりが好きだったと言うだけではない。外国語が好きでも人との関わりが不得手な人すらいる。こういう人にになぜ人との関わりが不得意なのに言語を勉強しようと思ったのか尋ねてみたいと思う時もある。
多くの分野に派生した言語学も元々はコミュニケーション研究の一分野だった。コミュニケーションについて分析、整理化され現在では、社会学、心理学、言語学、人類学などに分割されているし、言語学の中にも応用言語学、社会言語学、認知言語学、心理言語学、コーパス言語学、比較言語学、対照言語学等々実に多くの分野がある。
より詳しく、以下のサイトを参照
コミュニケーション・スタディーズ
What is so called "Communication Studies" ?
解説:池田光穂
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/060606CSstudio.html
今回の留学はあまり過酷な勉強や研究漬けの日々を過ごそうとは思ってはいない。自分の興味がある分野についての資料探しや実体験を積んで、一つ一つ消化し身につけてようぐらいの気持ちだし、それだけでも十分な時間と労力を必要とするだろう。
SFCのサイト(http://gc.sfc.keio.ac.jp/)に非常に興味深い講義内容が公開されていた。
ネットワークコミュニケーション
http://gc.sfc.keio.ac.jp/cgi/class/class_top.cgi?2006_14109
言語コミュニケーション
http://gc.sfc.keio.ac.jp/cgi/class/class_top.cgi?2006_14112
スラ研でも非常に興味深い資料を見つけた
ロマン・ヤコブソンのコミュニケーション論 言語の「転位」 朝妻 恵里子
http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/slavic-studies/56/08asazuma.pdf
コミュニケーションのモデルとしてShannon and Weaverのモデルはあまりに有名であり、現代ではより詳しいモデルも提唱されている。
上記のサイトを閲覧したり、資料探しをしている間も本を買いたくなってしまった。
人との関わりの複雑さ、難しさは重々承知しているつもりではあるが、答えは一人一人の相手で異なる。けれど、それでも言語学や社会学に惹かれてしまうのは自分が『人間臭さ』を好んでいるからなのかもしれない。
大学ではコンピュータを中心に学んできたが、学部の総称は「情報メディア学部」人間が発明した電子機器だって、言語だって意思表示や伝達の手段なのである。最先端の「電子分野」から、人間臭い「言語分野」に変わったからと言って元々興味があった事とは繋がっている。
機械的な勉強や読書も大いに結構だが、ブレーズ・パスカルが我々人間を『考える葦』と称したのだから、思慮深く考え知識を物にし、そこから豊かな想像力を養っていけたらなと常々思う。コミュニケーションが成立しない(ディスコミュニケーション)の多くはバックグラウンドの差なのかもしれない。その差を埋めるのは多くの知識に基づく豊かな想像性と経験なのだろう。
ディスコミュニケーションの定義と理論
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/080616miomio.html
確かに人は情報(Information)を外部から入手し、自分の中で解釈し知識(Knowledge)とする。けれど、それを単純に再度外部に伝達するだけでは『馬鹿の一つ覚え』にしかすぎないし、人間的活動とは言えないと個人的には思っている。本や外部からの知識を鵜呑みにしすっかりと影響され、情報の真偽すら確かめずに伝達するのでは意味が無い。自己の経験と照らし合わせるのもよし、人に訊ねるのも良し、そうする事で『知識』を昇華され個々人が持つ『想像力(Imagination)』へとなっていくのである。又聞きを繰り返す内に多くのノイズが入り情報の信憑性が低くなる。これからも自分はただ何の抵抗も無く受け入れるのではなく、そこから想像力を養えるようにと意識していきたい。
残り少ない留学前。環境の変化が良いノイズとなってくれるように日々心がけて留学生活を満喫したい。人間とは?理解し合うとは?他者との関わりとは?他言語ではどうなるのだろう?このアンテナは常に張っておきたい。
自分が言語に興味が向いたのは単に外国語が好きだった。人との関わりが好きだったと言うだけではない。外国語が好きでも人との関わりが不得手な人すらいる。こういう人にになぜ人との関わりが不得意なのに言語を勉強しようと思ったのか尋ねてみたいと思う時もある。
多くの分野に派生した言語学も元々はコミュニケーション研究の一分野だった。コミュニケーションについて分析、整理化され現在では、社会学、心理学、言語学、人類学などに分割されているし、言語学の中にも応用言語学、社会言語学、認知言語学、心理言語学、コーパス言語学、比較言語学、対照言語学等々実に多くの分野がある。
より詳しく、以下のサイトを参照
コミュニケーション・スタディーズ
What is so called "Communication Studies" ?
解説:池田光穂
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/060606CSstudio.html
今回の留学はあまり過酷な勉強や研究漬けの日々を過ごそうとは思ってはいない。自分の興味がある分野についての資料探しや実体験を積んで、一つ一つ消化し身につけてようぐらいの気持ちだし、それだけでも十分な時間と労力を必要とするだろう。
SFCのサイト(http://gc.sfc.keio.ac.jp/)に非常に興味深い講義内容が公開されていた。
ネットワークコミュニケーション
http://gc.sfc.keio.ac.jp/cgi/class/class_top.cgi?2006_14109
言語コミュニケーション
http://gc.sfc.keio.ac.jp/cgi/class/class_top.cgi?2006_14112
スラ研でも非常に興味深い資料を見つけた
ロマン・ヤコブソンのコミュニケーション論 言語の「転位」 朝妻 恵里子
http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/slavic-studies/56/08asazuma.pdf
コミュニケーションのモデルとしてShannon and Weaverのモデルはあまりに有名であり、現代ではより詳しいモデルも提唱されている。
上記のサイトを閲覧したり、資料探しをしている間も本を買いたくなってしまった。
人との関わりの複雑さ、難しさは重々承知しているつもりではあるが、答えは一人一人の相手で異なる。けれど、それでも言語学や社会学に惹かれてしまうのは自分が『人間臭さ』を好んでいるからなのかもしれない。
大学ではコンピュータを中心に学んできたが、学部の総称は「情報メディア学部」人間が発明した電子機器だって、言語だって意思表示や伝達の手段なのである。最先端の「電子分野」から、人間臭い「言語分野」に変わったからと言って元々興味があった事とは繋がっている。
機械的な勉強や読書も大いに結構だが、ブレーズ・パスカルが我々人間を『考える葦』と称したのだから、思慮深く考え知識を物にし、そこから豊かな想像力を養っていけたらなと常々思う。コミュニケーションが成立しない(ディスコミュニケーション)の多くはバックグラウンドの差なのかもしれない。その差を埋めるのは多くの知識に基づく豊かな想像性と経験なのだろう。
ディスコミュニケーションの定義と理論
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/080616miomio.html
確かに人は情報(Information)を外部から入手し、自分の中で解釈し知識(Knowledge)とする。けれど、それを単純に再度外部に伝達するだけでは『馬鹿の一つ覚え』にしかすぎないし、人間的活動とは言えないと個人的には思っている。本や外部からの知識を鵜呑みにしすっかりと影響され、情報の真偽すら確かめずに伝達するのでは意味が無い。自己の経験と照らし合わせるのもよし、人に訊ねるのも良し、そうする事で『知識』を昇華され個々人が持つ『想像力(Imagination)』へとなっていくのである。又聞きを繰り返す内に多くのノイズが入り情報の信憑性が低くなる。これからも自分はただ何の抵抗も無く受け入れるのではなく、そこから想像力を養えるようにと意識していきたい。
残り少ない留学前。環境の変化が良いノイズとなってくれるように日々心がけて留学生活を満喫したい。人間とは?理解し合うとは?他者との関わりとは?他言語ではどうなるのだろう?このアンテナは常に張っておきたい。