ケーブルテレビのニュースで天赦園の白玉上り藤が満開と報じていたので久しぶりに覗いてきました。藤は満開、すばらしい眺めでした。
もうしばらくすると、紫の藤、続いて菖蒲と花が楽しめるようです。
以下、画像と財団法人伊達文化保存会のパンフレットの一部です。
【天赦園の由来】
本園は寛文12年(1672年)宇和鳥藩二代藩主宗利が造成した浜御殿の一部南東部を、七代藩主宗紀(号:春山)が退隠の場所として大改造を行い、慶応2年(1866年)に竣工しこれを天赦園と命名した。「天赦園」という命名の出来は、伊達政宗が退隠後群臣に示した述懐である
馬上に少年過ぎ 世は平にして白髪多し
残軀は天の赦す所 楽しまずんば是を如何せん
という漢詩から採って命名したものである。
本園創設者である宗紀は、園内明心楼(明治29年取除)において八代宗城、九代宗徳の背後より真の実力者として国事に励み、維新四賢公の一人と云われた宗城をして、後顧の憂いなく維新の大業に参画せしめた。また、本園は西郷隆盛、大村益次郎、高野長英等勤王の志士との会見が行われ、文久、元治、慶応より明治に及ぶ宇和鳥藩の国事斡旋の源を発したところである。
【潜渕館】
明心楼の附属建物として建てられた書院式茶室で、春山が茶道を楽しんだ所である。その茶庭には顕著な陰陽石が配され、春山の子孫繁栄を願う想いが見て取れる。また、当建物は太正11年昭和天皇が皇太子の時天赦園御成の際、御座所にあてられた。
【春雨亭】
愛書家としても有名な春山は、余生を楽しみながらの書屋で書道を研鑽し数多くの貴重な書を残した。
春山はここで穏やかな時を過ごしながら書道を愛し、明治22年、百歳の天寿をまっとうした。また、この春雨亭は釘が使用されていない構造の、貴重な建物である。
早速行ってみます。
綺麗に撮れていますね。
カメラを変えたのかな?
カメラは変えてません。
このブログは、容量が100MBあるので画質をあまり下げてないのです。そのためきれいに見えるのではないのでしょうか。
HPは学校が30MB、自分の部屋が10MBなので残念ながら、かなり画質を下げています。