いま、そこに、あなたが、あるのは

誰も『苦労』はひとそれぞれ。しかもすべて自分のオリジナル。つまり人間の数だけ誰にもみんな役目と役割りあって生まれてる

褒めること、叱ること、の結果?

2022年06月15日 | 日記



褒めるべきか、叱るべきか、



ふとあることに気が付きました。

前置きから、まず書いておくのですが、

以下、すこしお付き合いのほどヨロシク。



私たちの身の回りには、

実に、いろいろな物事があります。

たとえ、それがどんな何であろうと、

「ひと」というものが生きていくのなら、

自分が遭遇をしたところの、相手であっても、

また出来事にしても同様ですが。

それらにつきまして、その人というのは、

自分の選びによって試行錯誤をするであろうし、

考えてみたり、決めたりをしていくことですが。

すなわち、そこでの選択の仕方というものが、

その人らしさの独自性も醸し出しきますし、

それらが、生き方として現れてくる訳ですね。

当然、そこで用いる自分なりの価値観だとか、

判断力などが、そのなかへ実を結ぶかっこうで、

その人をして、その人らしい人生を、

歩ませていくし、活きさせているという話です。

さて、前置きは、そういうことなのですが。



私が、ふと気付いたのは、次のようなことです。



あるひとが、物事を選ばなきゃいけない、

そういう分岐点に立っていると、

そう思ってみてください。



そのひとが、そこで何かを選ぶときにですが。

もし、このひとが、なにが駄目で良くないか、

それを知っている人という場合と。

何が大事で、どこを大切にすべきか、

そっちを心得ている人だというケースと。

この二つに分けてみたとしたら、

それらの違いがどうなってくるでしょうか。

そういう想定にして考えてみることにしますが。



まず、どれじゃ駄目で良くないのか。

これが飲み込めている人というのは、

ダメなものは除けるし、

不味いことを避けるだろうというのは、

まあ、それなりに行うにしても、

本当に自分にプラスになるような。

そういう選び方で、何かを手にするのでしょうか。

確かに避け上手、逃げ上手な、そこの点は認めます。

でも、もしかして困難の向こうに目的地があって、

その目的地を、果たして目指したりはするのでしょうか。



はい。もう、お気づきかもしれません。

そうなんです。何が大事で、

どういうものを大切にすべきかを、

そこを知っている人というのはですよ。

目の前にある自分が出くわすであろう、

そうした困難さについて、いち早く気が付き、

これを回避する器用さで敏捷でもないし、

ある範囲、疎い行動にもならざるを得ない。

でも何を目指せばいいのか知っていますから、

多少の困難が仮に伴う話であったにしても、

まあ、そこは愚直にとでも申しましょうか。

自身の目前の難敵を避けることよりは、

もっと先にある目指すべきものを指向します。

まだ求めるものは、手中にはしていないけど、

すでに狙いをつけて、もう見定めているのです。

このひとは、自分の求めるところへ、

すこしでも近付こうと、迫ろうとしており、

まだまだ先に進もうとするはずですよね。



その結果、この両者がどうなるのかといえば。

ダメなもの、良くないものが嗅ぎ分けられるより、

本来的に大事にすべきものを知っていたほうが、

何かを手に入れるには、賢い行動をするのです。



何を求めるべきかを正しくマッピングしていけば、

何をしたら、うまく行かなかったかというのも、

自動的に学ぶであろうプロセスとして含みます。

でも、どれが不味い、何がダメか、それだけでは、

目前の困難イコール避けるべき課題にしか映らない。



どういうのがダメだよと詳しく説いてあげても、

もし、それだけしか身につけていかなければ、

最終的に狙うべきものを見定めて掴み取るまでは、

到達などできないし、届く日が来ることもない。



目の前の人間に対して、ただただ詰まらなく、

それでは、駄目だと指摘しているだけなら、

不味いこと上手くないことを避けたり除けたりは、

身に着けられて、避け方の上手さは学べるかも。

でも、人生が何を築けるか、そっちが肝とすれば、

その人でも、消去法で残ったものを手にするとして。

目指すところまで、いつか辿り着くというのは、

かなり偶然な行き当りばったりに低い確率だろうし。

手にしたものの価値を推し量ることもできない。



目指すべきものを求めようとする感覚を、

もし少しでも強化させてやろうと思ったら、

それは良いことや、いま出来ている大事なことを、

それが尊いものだと気が付かせてあげるべきです。

その人が大事なものを知るということは、

良きことを褒められた体験ができた部分と、

きっと実に密接にリンクするはずです。



人というのが、何を入力されたら、

どういう生き方を選ぶようになるかが、

ここにあるんだなあと、そう思ったのです。

ひとは、きっと、そのようにして、

自分の人生を処していくことになるのです。

相手に対して、どう関わるかというのは、

結果そういう人生上の選び方をすることに繋がる。



そこが実際の人生なんだろうなと思う。

答案用紙の三択問題だったら、

消去法で解答を正解にすることが可能でも、

人生なんて

「人間の数」×「選択の可能性」=「ほぼ無限大」

これではダメ潰しから正解に辿り着くというのも、

限りなく小さな確率になることでしょう。



つまり、これがダメなことを叱る方法や、

学校で身につけさせる教え方だけでは、

一番に、欠けてしまうところになるんでしょうね。



要はダメダメ情報の列挙もこれなんですよ、きっとね。






対処対策というのは現実に根差した組み立て方ですから。

2022年06月09日 | 闘病


今日は養生にまつわる考え方について、
少し書いてみたいと思います。

これは誰しもよくあることですけど、
こういう病気になった場合に、
どうしてこんなことになったんだろう、とか。
何が理由で起きたことなのかしら、とでもいった。
それらが頭に浮かんできたりしませんか。

そして、それらを発端のようにして、
いわゆる犯人探しの策を講じたりしたがる、
そんな考えを、ついついしてみたり。
その大元になっていったりもしますけれど。
これがでも結局たいして役に立たないばかりか、
むしろ遠回りにしか連れて行かない方法だったりします。

なぜなら、例えば、それは。
もし、「火事が起きました」でも、
「泥棒に入られたんですよ」でも同じことなのですが。

これにもやはり原因や理由というのを考えてみるなら、
何かしら、その元になるようなことを人というのは、
見付け出してきて、指摘をしてみたり致します。

でも。むしろ、この場合の優先すべきは、
仮に家が焼けたというなら、
だったら、どうしたらいいのかであって。
金品を盗まれた場合にでも、
その被害に対して、いかに応じていこうかで。
これこそが、まずそこで成すべき重大事なのです。
つまり、盗難でも、また火災にしても、
すでに現実に起きてしまってから、防止は不可能です。
不可逆な取り組みなんて実行は無理ですから。
今ここに実際があるのなら、その事柄に関して、
自分が、いかなる対処を図るのか。
これしか履行しえないのは自明であるし。
またそこが問われた課題でもありますから。
これに当たること。それが先決なはずなのです。
理由や原因、またその背景について、
これは同じことを再度また繰り返さないために、
将来、考えておくべき事柄ではあるにしても。
焼け出されたら、今夜どうするか、
大事なものを失えば、それはどうしたらいいのか。
そういう目前に現実のすでに持ち上がった、
そうした案件というものは、これを軸に据え、
じゃあ、ここはどうしていけばいいか、なのですよ。
これに対処する、が何にもまして欠かせません。

泥縄って言葉がありますよね。
あれは泥棒に入られてから藁で縄を作って、
それで泥棒さんを縛ってやろうでは、
手遅れだし、手順として間違っている意味合いで。

病気になってしまったら、原因探しより、
その治療や養生を考えるというのが、
順序として、まず今まさにすべきことですから。

仮想的に、どうしておけば、こうならなかった。
という構図に見立てるというのはですね、
そういうヒックリ返った格好になっているのであって、
言うなれば逆泥縄とでも申せましょうか。
あべこべな、目の付け所になってしまった。
そういうズレ過ぎた理屈に堕したことですから。

それは、どうしていいかが、皆目わからないので。
まるで何かに責を負わせたいみたいな心情から、
引き出されてくる屁理屈な言い逃れにも近いものです。

自分でどうしていいかが見付けられない、
解決方法が、サッパリわかりません。
そういうときには、少し専門性を身に着けていて、
自分より賢い知恵が使えるような相手に、
手を貸してくれるよう働きかけることが可能です。

誰にでも、自分にはできないことがある。

あなたが飯を喰うときの米粒だって、
お箸だって、お茶碗だって。
他の人が用意してくれるものを使うじゃないですか。

それなのに、自分は人の助けがなくても、
自分で全部できますから。
そんなこと言っちゃう人の頭がどうかしています。

お米を作っている人ですら、水でも、太陽でも、
自分で作り出しているんじゃないはずです。

あるもの、使えるものを、いかに活かすか。
そこを取り持つのが物事に充たる人の役目です。
これは、そういうことなんですから。
餅は餅屋といいます。
自分で餅をつかない人は、餅をつく人を介して、
その餅を手に入れるまで。
いつまでも、お馬鹿な堂々巡りをしていちゃ、
ホント十年経っても百年経っても、
埒なんて明きませんよ。
指くわえて、ベソかくために、
時間を費やすなんて、待ち惚けの農夫じゃないんで、
次のウサギさんは飛んで走って来ませんって。

じゃあ、また。






忘れがちなこと

2022年04月27日 | 日記



某放送局の制作によって「ひきこもり」にまつわる事件を取り上げるかたちで、それをルポルタージュの形式にまとめた番組にして、TVで放映されたものがありました。本放送は昨年冬でしたが、これを録画しディスクにしたものを、家族が知人に貸してもらったので、私も一緒に視聴する機会がありました。

そこには支援が不十分で、本人の衰弱死という結果があったのですが。これが何ともはや真正直にというか、「あっけらかん」とでも言いたくなるような映し出され方にされており、こういう表現は番組のあり方としても、その適切性を疑いたくなるし。また報道の自由という観点から、何か物を言うつもりなら、そこは自ずと義務と責任の両輪を踏まえてしかるべきですが。これは、それすら履き違えた野放図な取り上げ方と叱られてもしょうがないような配慮のなさも感じました。

ただ、陰口を文言にし、ここへ長々書き連ねてみたところで仕方ないことで。

私の手で、ここへ記そうと思うのは、おそらく多くの人が番組を見ながらも、ほぼ見落としたであろうことを、私なりの視点から書いてみることにします。

なので、今回ここに、こんな書き出しで、こう取り上げてみた次第でありますが。
そういう訳ですから、早速そちらの本題へと、まずは内容を転じようと思います。
どうか、しばらくの間、私の話にお付き合いください。


顕著に、あの放送のなかにも、伺える「あるもの」なんですが。
それは、意外と多くの人々が、「このこと」について考えずに、物事の組み立てをしようとする、あるひとつの「忘れ事」に関した部分についてなんです。

こんな持って回った言い方で中身が通じるはずもありませんから、具体例にしてお伝えしてみることにします。

例えば、ちょっと外出してお昼休みの食事にでも出るときを想像してみてください。
今日は、どこそこの「うどん屋」へ行って昼飯にしようと思ったとします。
もし、行ってみて休みであったら、別の考えが必要になるのは言うまでもありません。仮に休業日だったら、コンビニで買い物をしてこようというのもありです。
でも、そこをウッカリ代りになる案を持たずに遂行していたとしたら、これは下手すれば食事をし損ねる話になるのも見えていることです。
というか、どこで何を食べるかよりも、いかに昼食を入手するか、こちらの方こそ、この場合の核心になる部分のはずです。
もし遠くに出かけるとして、開いているか開いていないかを確かめる方法もなければ、また別の店なんかが周辺にないようなポツンと山中に一軒だけあるお店だったら、これはどういう結末になるでしょうか。
喰いはぐれるだけじゃなくて、空腹で動けなくなって、山の中で遭難しかけることになる危険さえ隣り合わせかも知れないですよね。

どんなことでもそうですが、もし仮に計画通りにいかなくても、その場合は、どうすれば困らないで済むのか。そういった下準備というか、ひとつの含みは常に用意をしておかないと不味いことになる場合は、よくあるものです。

何か商売の上で投機を考えたときでも、狙い通りなら儲かるはずだというのは当たり前だとしても。狙ったことが目算通りに行かない状況も視野に入れておかなければ、遠からず事業は失敗、立ち行かなくなるに違いありません。

上手くいけば儲かるから、だけで考えていたら博打打ちと同じくで、いつかはスッテンテンに身包み剥がれて借金まで抱えることになる意味です。

端的にはリスクの管理のようでもあるが、でもただそれだけではない。つまり、狙ってみるというのがチャレンジとして間違いだとは思いません。ただそこは、すべての事柄について、後先考えない捨て身のような一か八か式だけで決めていけば、それが思うように叶うことならいいとして、そいつが望み通りにはいかない場合も、そのときはコレコレシカジカにしておくという。これはどこかに必ず怠りなく備えをしておかないと、それは迂闊にすぎる人生設計でしかありません。

また、自分の努力でどうにかしようというのだって、一定のノウハウの持ち合わせがあって、はじめて実行ができるのであり、どうしていいかが皆目これを自分で分からない人なのに、それを頑張ればどうにかなるというのは、乱暴すぎた頭の使い方です。

そんな飛躍した論法によって世渡りができるほど、現実というのは絵空事の中にあるお話ではないですから。これでは直に息詰まるに違いないのも目に見えています。

つまりそこなんです。誰のどんなことであれ、何かに挑んでみようというのは、必ずそれは、できなかった場合も、見え隠れしつつ付いてまわるということなんですから。

頑張って試験を受けてみようと、この話と表裏一体にくっ着いてくるというのは、だから合格した場合は、こうなります、と同時に、不合格の場合は、こういう対処にしよう、それを考えおかなければ手抜かりです。
ここには、そういった少なくとも二つの面のいずれかが、すぐこれから出てくる、そうした可能性の分岐路にいるんだ。その状況にあるぞと、これが、こうしたことに認めうる局面なのです。

成功を夢見て何かを企てようというのも、成功に結び付かなかったら、その場合どこに繋げていけばいいのか。といった具合に、必ずそれは、こういった物事に着いて来ていて切り離しようがない、現実の事柄の持ち合わせた中身だということです。
でもなぜか、ひとは叶った場合は、どうなるけれど、もうただただこれのみで、これだけを頼りに、多くの計画を平気な顔してやってしまう。そういうのが、意外とあったりしますよね。

クルマで行けば、早いし、楽だよ。けれど状況次第では、不測の出来事にも遭遇をするのです。それを頭のどこかに間違いなく用意しているかどうかなのです。

ゲームやスポーツなら万が一に賭けて思い切って楽しみを爆発させてみるのも面白いかもしれません。でもホンコの実人生を、そんな使い方をしていたのでは命がいくつあっても足りません。

もし一か八かに賭けて挑んでみて、悪くすれば、それで破産をしてしまうというのであれば、これはもはや遊びとか遊興の範囲なんかじゃないんですから。それは、れっきとした博打も博打の紛れもない大博打な賭け事に当てはまることなのです。それを口先で言いくるめるなんて、現実の社会の性質上これは通用しません。

まあ、ともかく物事これから何かしてみよう、そういう場合に、これは、それが出来たという状況と、できなかったという状況と、必ずどっちか間違いなくやってきてしまいますから。
何かが、できたという場合だけ、思い描いていたら、片手落ちがあまりにも酷すぎるんです。

やってみて、できなかった、というのだって。また、やってみればいい。

そうでしょうか。すべての場合に。

これも、そういうものばかりだとは限らないことです。
できなかったというのを、キチンと引き受けた上で、
次なるまったく別のものへ変更するほうに運ぶというのが、
正しい選択肢の選び方である、そうした場合もよくあるのです。

これは、諦めを含むようでもあるけれど。
もっと別のことを、始めなくてはいけない場合に、
単純な諦めだけではなくて、
新たな始まりに着手するスタートをも孕んでいますから、
シクジリというよりも、
それは新規な更なる決意にも結ばれる事柄です。
それを自前でこしらえる気概あってこそのチャレンジで。
手の届くところに、自分で手を伸ばす用意があって、
はじめて何かに挑むという行為が裏打ちされてくるのです。

「上手くいかなかった」というのは失敗のようであって、
次に繋ぐ用意を始める「入り口」でもある。


ひとは、勝手なものだから、自分のことを棚に上げたみたいに、
周りに、こうしたら、ああしたら、
誰だって、そういう風に声を掛けるものです。

あなたの口から、
もし、こうやったら、こうなるはずだから。
こういう風にしてみなさい。
そういう声をかけたかったら。

これが、そうならず、そうしてみても、そうできなかったら、
その時には、これこれ、こういうことも、考えておきなさいを、
本来なら、伝えておくべきだったでしょう。

でも、もしその人から、そこを伝えてくれていなかったら、
これは、言われて試しにしてみた側で、
上手くいかなかった人間が、
その場合は、どうしたらいいか、これを考えなければなりません。

確かに、そういう望みの託し方というのも、
これは酷く一人合点な虫の良いご都合すぎる下心だと。

こうしたらいいんじゃないかと、
そうやって、できなかったら、どうしなきゃ、いけないんだ。

これは二つで一つの1セットではある。
でも、リスクをすべからく用意して、
これを手取り足取りしていたら、
これはこれで誰が誰の人生を生きているんだか、
よくわかりませんから。

問題は、生きてる人生、失敗すること含めて、
何かがうまくいかないことが、必ずやある訳です。
大事なのは、上手くいかなくて、
困ってる、悩んでる、苦しんでる。
そういう時に、どういう関りを周りが用意して、
接してあげることが、できるかどうかです。

それは、社会という成員を為すところの、
人間には必ず付いて回ることですから。

困ってないときは、自分でできることを、
自分がするように、していくことですが、
自力で解決できないことは、
ひとの助けであるし、周囲のサポートですから。

敢えて、困っていない人に、ああしろこうしろ、というより。
困ったときに、どう支えてあげられるか。
むしろ、そっちが力量としては、ひとの本分なんだろう。

これをなぜか、ヒトは忘れるようだ、というのが今回のお話でした。





こころの(仮)落ち着き処、ご用意があります

2022年04月11日 | 闘病



たとえば、
何かの影響によって、
「これこれは、しかじかになりました」

そういった理由なり、もしくは原因?
みたいな、いまある現状について、

その繋がりと思しき過去のものを、
ときに考えたり、探してみたりして、

そのときに思い浮べたことで、

これは、
どこに元となるモノがあったのか、
ひとが、知ろうとしたがったり。

こういうのって、よくありますよね。



神話というのも、そうだし。

歴史を学んだりするのにも、

そうした面はあるでしょうね。



もうちょっとパーソナルな、

自分の家の家系や、

それら由来来歴についても、

そうやって理解をしたいという、

ひとびとの知りたがる謎について、

それが、こたえの一つだと言えますし。



それらは、自分がどこからきたのか、

自分たちは、何者なんだろうかも、

いま自分がどこにいるのかしらだって、



これら漠然とした問いを、

少しでも、もっと掴みやすいような、

よくわからないものを、

いくらかであっても、

ちょっとでも腑に落ちる納め方を、

したいからと「こころ」が思うというのも。



結局ひとの心が、自然にそうしたがるからという、

これは、その一端といえるでしょう。



それは取り敢えずであっても、

落ち着きどころに置いてみないと、

それを、どこかに据えられないことには、

ひと心地つけないという性分を、

われわれが持っているからですが。



でも、それらは、

仮の安置場所に過ぎないのも事実です。



あることを、

それは、〇〇の関係で、こうですよと、

そう言っておいて、

その口が乾く前に、すぐ別の、

いや、あれは、これこれだったんです。



これも実によくある話です。



だから、決定しているつもりでも、

厳密には、宙ぶらりんな、

常に(仮)つきの座りというのが、

どれにもこれにも付いて回ります。



ただ、あらゆることに、これが備わるから、



とりあえずであっても、仮の置き場に、

ここだなと、しておかないと、

また、別の切羽詰まったことが、

次々と差し迫ってきますから、



妙だけど、決まったつもりになっておかないと、

対処ができないし、収拾もつかない、

そういった混乱に巻き込まれるのも、

目に見えていることです。

だから、その事態を避けるために、

こういうのも方便の一種だからと、

こころの片隅にであっても、

そう意識をしておくことが大切です。



それを愚かにも失念していたりするから。

どこかに真に永久普遍の収まり方が、

理想的に存在をするはずだという。

そういう、あり得ない想定してしまうから、

絶対に確かな〇〇はどこだろうって、



これに陥ってしまうのが、

いわゆる強迫症的な対処の理由だと、

そういって良いのかもって思ったりします。



それらの人が求めている完全・完璧は、

どこにあるのかといえば、

これ現実には存在しないんだけど。



だって、そもそも、すべてが(仮)の、

取り敢えずで構成されているに過ぎないんだし。



変わりつつ、移ろいゆくことが、

過ぎゆくままに、経ていくという、

諸行無常じゃないけど、



その何かが、もしそこに、

間違いなく確かにあるのだとしても、

それだって、今だけバージョンが、

今の今だけ、そこにあるという。

それだけといえば、それだけですから。



いつまでも、ある。

これを確かめようと願っても、

そこに立ち会う自分自身だって、

限られた時間それに付き合えるだけですし。



要は、組み立て方そのものが、

最初っから錯誤を孕んでいるから、

こういう脱線は解決しえないコースになる。



そういう話だよと、

理で解さないと、

あるはずの出口を、ないないと、

右往左往してしまう羽目になります。



すべては仮初(かりそめ)です。


これを悟ることが、賢いと思いますよ。


あとは、長年やっていると、


苦痛な行為すら癖になりますから、


放っておいても、気持ちが自動的にいってしまう。


これは、改めて別の方法が身につくまで、


そこを練習し続けることです。


必ずできるようになります。


だって、いまの強迫症状だって、


そうした身につけ方で学習をしたのですから。


あとは、仕切り直しに、


自分の中で上手な通過儀礼


イニシエーションを工夫されてみては、


いかがでしょうか。





ではまた、今度


今日は、ここで失礼します。





これ少し世の中全体で一緒に考えないとイケませんよね?

2022年04月10日 | 闘病


これまでの人間が生きてきた長い歴史を考えてみると、

ヒトという生き物は、どんな物事であれ、そこに不完全・不十分な事柄を見つけ出しては、その何かについて、さらにいっそう完成を遂げた状態だとか、また少しでも堅固なしっかりとした何かに置き換えたくて止まないみたいな、そうした衝動に突き動かされ、今日まで、その活動を絶え間なく繰り広げつつ歩んできような存在である。
と、そんな定義さえしたくなる気がしますが。

これは社会全体もそうですが、一人ひとりの個人にも、それは同じように作用していたりもする訳です。

例えば、ある集団や、グループ。それは地域や国であっても、また職場のような組織や、家族のような単位でも、それらを構成するメンバー同士のあいだで、同じように、目的や方向を重ねつつ、その活動のなかに発揮してみたり、

また一個人でも、その自分の生き方・考え方に、何かこれをいっそう納得できるような状態にしてみたいと願って、そこに働きかけたりします。

そういった事柄にも、やはりここで、ヒトという存在の本来から備えるらしき性質の働きかけが、おなじように見出せると思います。

さて、もしもですね、これらのなかにですが。そこへ何か不一致や不確実なものを、誰かが見付けられているとか、気が付きかけていたとしたらですが。

これは、やっぱりヒトであれば、それは取り除くべき事柄として、もっと違う何かに置き換えてみたりして、そこをより完成をしたような状態にしてみたいと、そう願うだろうし、またそれを実現させようとするのも、これは流れとして当然と、そんな風に考えられることだと思います。

しかしながら、これは一個人で自分のなかだけで行いうる場合と、もう一つグループや集まりで指向している状況とでは、そこには一定の違いがあると指摘可能なのも自明でしょう。

つまり、それが自分単独であれば、自身が自己によって変更することで、それを完結させられるということかもしれませんが、

もしこれが一定の複数の成員で、それらことに挑むような局面であれば、その何か、ここで気が付きつつある事柄・対象についての共有を、そこでいったん図りつつ、そのうえで、これについて共同で問題にあたらなくては、その何かに関して所期の目的の達成は遂行しようにも、これを行いえないことですよね。

もしその際、仮にそこを構成するメンバー間で動かしがたい序列があり、上からは命令が下る。だけど、下から提案しようにも、そこを汲み取る仕組みが十分でなかったり、これが欠けていたりしたら、その場合どうなるでしょうか。

ここで明確な指摘をすることができるぐらい、言語化が可能で明示しうる事柄として、伝えらえたなら多少は困難が小さいかもしれない。

でも、何となく不十分さを感じている程度であったら、これは言う側も聞く方でも、そこの話が届きにくいのは間違いない。

しかもですよ、構成する単位が非常に小さく、一対一で、それらを相手とやり取りするのだとしたら、これはどうでしょうか。

つまり、相手とこちらが対等ではなくて、何かを伝え合う、やり取りしあわなくてはいけない。そういう状況で、これが1対1であれば、これは力を持つ側と、力が弱い側の、たとえ小さな力量の差だとしても、そこでの立場の違いというのは、圧倒的な差であるというのが、この二者関係の間に生じてくる差です。

要はここで、社会というのは、その二者ではなく。もうひとつ第三者という存在が、ここに働きとして、あるかないかで、ことの当事者同士と違う別の視点からの立場が、そこにキチンと噛んで存在をしてるか、それともまったく噛んでおらず何の存在もしない。このあるなしで、そこでの人と人の間柄が、決定的に異なる形勢の違いとして喫してる意味です。

仲介・仲裁する立場としての第三者を持てるかどうかで、当の二者の公平性を担保するか・しないかのカギになる。

つまり二者関係で、もしもその相手が対等に耳を貸すよ・聴いてあげるよと思ったとしても、そこは成立させようにも、最初っから、機能なんかするはずありません。

そこを多くの親が無知だったり、気が付いていない。意地悪く言えば、知らないふりをして、かさに着つつで傍若無人をしていることすらある。

一見したところ目に見えないようでいて、実は暗にこの力による抗争や支配が、そこへ潜んでいるといっても過言じゃない訳です。

結局、病人の側が苦しむ、困難で壁に遮られる、というのは、そうした構えが、ここに立ちはだかるのを、その場に立ち会う人間が認めていない、向き合っていない、気が付こうとしていないと、そうとしか言いようがないのが。この問題にある一番に根深くて悩ましい根幹の部分です。

さて、いかがでしょうか。そういう話であるのに、それを家族が抱え続ける話だよというのは、これでこの問題にあたろうとするのは、あまりに無理難題が酷すぎませんか。

そういう不可能な作業に従事をさせられ続けて、これで何にも解決なんぞするはずないな、と。その理由が、これがあるからだと。少しはご理解いただけましたでしょうか。

しかも、ひとは誰しも自分自身には認めたくない受け入れたくない、そういった盲点をどんな人でも心の中に持ち抱えていたりしますが、これは生理的な目の中の盲点が現実ここにあるがのごとく、絶対に避けられない事実ですが。

この部分があることに、身近な人間のだれか、その多くは子供の側ですが、妙だな、そこオカシクナイみたいな気付きというのを何となく見えていたり、気が付きかけていたりするのは、一番近しいだけに如実に感覚したりするのですが。そこを伝えようにも、今度は聞き届ける側で、聴こうとする耳というのが働いてくれないというのも、これが盲点という見えないところだから、気が付きようがないのだと。そういうことがおきてくるのです。

つまり、これは第三者が、第三者だなんて、そこが、そもそも捻じ曲がっている話だと理解すべきです。事実上、現に必須であるべき第三者の介在というのが、ここで微塵も機能していない、そうした致命傷があるからこそ、そこで起こる困難が取り除きようもなくなってしまう訳なんです。

子供から、お父さん顔に何か付いてるよ、という物理的な現実なら、お母さんだって、「あら、ホント。お父さん顔に○○が」

でもね、多くの場合もっと抽象的な目に見えない。言葉で指摘しがたい内容ですし。夫婦というのは知らず知らずお互い似たり寄ったりで、同じように同じものを持ち合わせていたりして、お互い自分たちでは無自覚なことも多いです。

これ自体が悪いとか、良いとかではないのですが、ただ、

この第三者の不在というのが、そこに、そのままあるかぎり、肝心の二者関係の谷間に横たわっている見え難い支配・被支配という深い溝というのが、結局いつまで経とうとも、両者を隔て続けたままになってしまうのだし。

そういう一種の不健康さとでもいうべき、いくらかの歪み具合というのが、修正をされないままに残って、やがて時間とともに固定化もしていく。

結局、その予期せぬ隷属した関係から、当の親子も家族も、永遠普遍に抜け出せないような袋小路になったままで。これを世間から知ってやろうともしていないし、それを汲み取って、ここに自分たちの役目があるから、それを果たすべき事柄として、一肌脱ぐこともしてやらない。

これは、最初から、そこに世間が、まず存在もしていなければ、機能を果たすこともしていないということであり、無に等しい話です。

ここで、敢えて申せば、親たちも、ことによって子供たちすら、世間体に目が行くという、それ自体も、そういう具合で、世間について意識しているのに、その世間というのは、この家族を見て見ない知らないふりをするといっても、いいなのかもでして。

これが、じつは、これ自体こそ、まずもって引きこもりそのもんだし、だから社会自体が、家族に対して「引きこもり」状態に陥っているというべきです。

そういう入れ子の構造・構図があるというのを知るのが、ここにある入り口であって、それが出口で突破口なんでしょう。

これは社会そのものが、その存在証明を問われた。そういった危機です。

社会が不在で、人間が立ち行かないのは自明です。人間は如何にして人間かというのは、人というのが社会性を帯びているからこそ、ヒトはヒトでありますから。

見ない・聞かない・言わない・ふりしつづけて。そういうイワナイお岩さんみたいな幽霊社会こそが引きこもりというモノノケの真実の正体なのです。

つまり、各家庭のお家にあるのは、その社会が映り込んでいる鏡のなかの吹き出物の状態だという、怪談話がこれでしょう。

これが成仏できないというのは、そうした道理があることなのです。

お岩さんの話だって、欲に目がくらんだ人間がいたから起こった話で。

これも、現実に自分が引き受けるはずのことを果たさないで、逆に怠ろうとした姿勢が社会にあるからだと、そういう結論を、お伝えして、今回の締めくくりと致します。