いま、そこに、あなたが、あるのは

誰も『苦労』はひとそれぞれ。しかもすべて自分のオリジナル。つまり人間の数だけ誰にもみんな役目と役割りあって生まれてる

お花見 福岡県営「中央公園」 (北九州市小倉北区)

2022年04月03日 | 写真


お花見をしに、家族とドライブで中央公園まで行きました。



今年はやや気温が低めのせいか花持ちのいい桜です。




昼間はそれなりですが、朝晩が寒いくらいに冷え込んでいました。




お陰で何回も花見に出掛けられた2022年でした。




さすがに今週末で、ほぼ見納めになるんだろうと思います。




本当に行楽日和のお花見に行くのに絶好の気候です。




涼しい気温が幸いして歩いて汗ばんでもサラサラさわやかです。




それに誘われて、人の出足もよく賑わっていました。




ここは敷地が広いから、おおぜい訪れても広々しています。





ご覧の屋根が、よくスポーツの大会にも使われる体育館。




ここの土地は野生動物がいて、イノシシ注意の立て札も。




まさか、この池で泳いだりとかするんでしょうかねえ。




藪には危ないから入らないでと注意も書いてあり柵がある。




警戒心があるから昼の日中にヒト中まで来たりしませんけども。




罠も仕掛けてあるの見たことあります。




まあ、動物がいるというのは、住んで住みやすい証拠でもあるかしら。










黒崎城址公園でお花見してきました

2022年03月29日 | 写真


今日の午後、好天に誘われて自転車で外出してきました。




これ、わかりますか? 北九州・黒崎のシンボルともいうべき

高炉の煙突ですが、3本のうち、その一つが解体中なのです。




製鉄の歴史があった土地柄ですが、さかのぼれば黒崎城もあって、



そこは今、こうして公園に整備されています。



黒崎には長崎街道の宿場がありました。



向こうに見える皿倉山頂にはテレビの中継所があります。



土地によっては電波塔のタワーが立っているのがありますが、



ここは、ご覧の通り山の上に据え付けられています。




山頂に向かって斜めに見えているのは、ケーブルカーと駅舎です。



青空をバックに桜の色合いが映える絶好の撮影日でしたから。



山頂から若戸大橋も見えます。これが北九州工業地帯の工場ですね。



公園に来ている方々がたくさんいらっしゃいました。



私は自転車を漕いで登りましたが、たいていクルマですよ。



若い人は、徒歩で来ている人も見かけました。



今年は咲き出して、満開まで早かったです。



次の日曜は桜吹雪になっていることでしょうね。




また、来年の花見が、こうして楽しめると、うれしいですが。




それを迎えるのは、その時までに何が来るかにもよりますから・・・。










北九州に桜が咲いてきました

2022年03月24日 | 写真


きょうは天気が良くて、
オニギリを持参して出かけてきましたよ。




急に暖かくなったので自転車で外出してきました。



最初は、海岸へ向かう予定でした、



けれども遠くの山が、とても霞んで見えるのです。



いや、それほど遠い山じゃないです、皿倉山は。



これだったら、海も青く無いのかもしれないと、




それで進路変更で、まず金山川へ行ってみました。




でも例のチューリップなんて、まだ茎も伸びきってないし・・・



そのままホコロビかけの桜をあとに、瀬板の森に足を延ばしました。



来てみると、山のソメイヨシノのほうが、早いようで。



森林浴しながら桜を愛でてきました。



整備された森林公園で、ここへ来ている人もいました。



帰りには、菜の花も楽しんでこられたくらい。



春を味わってまいりました。



次は、金山川の水面に映る桜とチューリップを見に行く予定です。



では、また今度。

どうぞ、お楽しみに。

ではでは。






北九州に春が来た~♪

2022年03月10日 | 写真




今朝、家のゴミを捨てに出た時、あんまり目を引く花々だったので、

カメラを持って、もう一度それを納めに下りました。

いやあ、春春。春が来ています。
























































病気だという説明は一方的すぎると思いますよ。

2022年02月06日 | 闘病


これまで、いつも私がここに書いていることですが。

一部の精神科の疾患について、それらは、
単に病気と呼ぶような性質に捉えていたのでは、
それらについて、対処・対策の講じ方においてさえ、
この観点では、とうてい済ませられない問題であると、
そう厳しく感じない訳にはいられないのです。

むしろ中途発生をした障害の状態にあると見ていたほうが、
その状態についても的確な把握ができると思います。

ただ身体における障害等の状況などと同じように、
もし、これも発症時に適切な対処ができていたら、
その後の重篤な障害にまでは発展することもないことで。

そうならないようにするのは初期に全体を、
俯瞰して考えられる視点を見付けるというのが、
何よりも大事だと、そう感じているのです。

そのためには、やはり家族内だけでは限界があり、
もう少し第三者からの援助が必要なのは明々白々で、

家族自身、その出来事の一端にいることですから、
そこから自分たちに何が起きているか気が付くのも、
また、どこから何をすべきかを考えるのでも、
それを別の観点から何が見えているか問えないことには、
問題の気付き方だけでも、これは至難の業であって、
そこは往々にして、ほぼ不可能に等しいかもしれない。

だからこそ後手後手になり、上手くいかなくなって、
抱えきれないほど破綻は酷くなり、状態は顕著になる。

つまり家族内では、解決ができないような内容が、
そこに生じつつある段階で、もうすでに家族という、
このシステムないしは器が、それ自体不十分なことには、
なかなか気が付けていないので、問題が輻輳してしまう。
そうした面が、この問題には含まれていたりすることです。

 
これは、どんなことでもそうなるのですが、
何事でも硬直化しているシステムというのは、
その機能を著しく発揮し損ねてくる訳です。

これにも自己修復機能が当然あるのですが、
そこを発動させる力を、かなり失っていたりする。

要は、柔軟な運用は欠けて来ていたりしますから。
そういう場合に、よく起きる現象として、
責任論で取り仕切ろうとする無理をしたがる。

なぜそうなったか、考えるよりも、
なんでそんな風にするんだという、
取り締まり強化で事に当たるような羽目になって、
困っている相手に、共感もしなければ、
助けるとか、思いやるとかより、
責めてみたり、叱ってみたりする。

その結果、まだ相手に自分で発揮する力が、
残っていたとしても、これで頑張れる、
エンパワメントにできるどころか、
逆に自己卑下で、本人はますます気が塞がる。
それでも。そこ更に押し付けで強化したがるから、
ますます拗れるだけにしかならないことで。

ここにあるのは悪循環そのものなんだけども。
それを見やるよりも、自分は悪くないという、
お前が駄目だからだという応酬になっていき、

もっと自分のことを、わかってもらえたら、
それだけで自分なりに、頑張ろうと思うことでも、

お互いに下手な擦り合いで、そっちのせいだという。

ちょっと離れて見詰め直したら、
ここには、大人というのが、どこにいるのかという。

そういうキライも伺える構図だったりするのです。

ある意味、大人が自分で、その健康さを失うと、
そういう行動や思考に陥ったりもするのであり。

自分の健康さを気遣う感覚を持ってこそ、
家族全体の健康度が上がる話でもあったりして。

それは冒頭に、病気じゃあないだろうと述べましたが。

もし病気だよと、そう主張されるのであったら、
ここで申し上げたいのですが。

仮にこれが植物や何かであってもですが。
もし健康に育てられるような環境が与えられたら、
それには育つ力が宿っている話ですから、
その用意さえできたら、自然に発揮していきます。

そういう摂理を忘れてしまっているから、
相手を生きた実際の生物だと思っていないで、
機械か何かみたいに、指令や命令で聞かそう式に、
そう当たるから反発させたり、力を削いだりするのです。

そこにあるものを引き出すには、
引っ張って伸ばしたら、芽が出ても千切れるだけです。
これでは育つはずがないことです。

それを待たないというのは、
別の言い方をしたら、待てないということです。
なぜ、待てないのかといえば、
知らず知らずに自分自身が急き立てられるような、
そういう生活にいたりすれば、これだけで、
自ずと、他に対しても、そういう当たり方で接する。

余裕というのは、贅沢なんかじゃないんです。
生きているというのは、ユトリのアソビの部分の、
そういう糊代を持っていないと、
繋がって大きくするという力は出せないことです。

これには顔をくっ付ける様にして、
覗き込むみたいに伺っていたのでは、
誰だって気が急いて早くしろって急き立てます。

早くしろって急いで、いったいどこに行くつもりか、
もう少し、離れて眺める感覚が持てないと、
自分自身も振り返れないことであって、

振り返ってこそ、これでよかったかなと、
考える間が持てるのです。

考える間を持とうとしないから、
結果、結果、と追い立てるような、
そういうことで、やろうとする本人を、
窮地に立たせこそすれ、発奮させえぬことになる。

どんな相手にも相手の都合があることで、
自分の思惑至情で押し通すようなのは、
誰に対してだって礼が無さ過ぎることです。
失礼なことされたら、身内にだって嫌がられる。
それが人の情ですから。きちんと相手を、
人間扱いしていなかったと思い巡らしたら、
少しは全体が見えてくると思うのです。

結局、これらの塊や滞りが鬱積しきった結果が、
今でいうところの「病気」の真の正体だと。

これに尽きるんだけど。
渦中にいると、これに輪を掛けて、
撚りをかけて、さらにキリキリしていき。
それが今あるような全ての、これが、
原因・大元だってことなんですがねえ。

人間の脳は、そういう風に病気にはならないです。
これは脳がシッカリ働いているからこそ、
機能として、この状況に応じた「仕事」を、
働いているまでですからね。

それを「病気」は「薬」だって。

そういう図式は、あまりに過去のもので、
それが過剰な単純化だろうというのは、
やはり、そうでしょうよ、どう考えたって。

おっと、そこで今飲んでる薬は、
即やめますって、これも飲んだ以上は、
減らし方のある話ですって。

どうぞ気を付けてくださいよ。
少しでも危ないことは、
よく考えて行動しましょう。