今日も暑かったです。
あと、北九州だと、空の霞み具合も感じました。
とても青く雲なく晴れているのですが、皿倉山が、
何か白っぽい視界を遮っているモヤの濃い空模様でした。
さて、わが家では、この週末ごとに同じくで、
次女と長女たちとで変わりバンコに、付き合って過ごす日が続きます。
昨日と今日だから、平日からです。それぞれ通院同行です。
この後、明日まだ、今度は、その子たちのお祖母ちゃんである、
妻の母親の通院とかも予定しています。
家族がいると、それなりに用事もできたりします。
でもこれはこれで、私としては場面ばめんで手伝いつつも、
妻と一緒に居られる時間ができた分は、半ば歓迎しているのです。
今日は、その妻にマツワル事柄から始め、
二つ三つ私なりに気付いたことなど綴らせて戴くことに致します。
私の妻は高校生のころ、ファーストフードでアルバイトしておりました。
そのせいもあってか、店員さんのサービスには点が辛いのです。
いかにお客さんに感じ良い接遇ができているか、チェックが入ります。
妻の言うのを聞くと、なるほど確かにね。
今日は、入店した某ファミリーレストランで。
そこは安価なだけあって、店員さんが一人でホール全体を見ます。
ドリンクバー等々で、それをするのが可能なのです。
ただ、何かあったとき、すぐには応じきれない。
まあ。個々の件まで必要ないので書きません。
ただ、私なりに感じたのは、良い店員さんと同様に、
お客さんにも良し悪しがある訳です、当然です。
よく、傍若無人な「お客様は神様」ぶりなモンスター客層もいます。
でも店員側に求めるのと同じで、お客さんも自分は利用をする側として、
そこに適切性のある好感度を旨にした対し方をしているのか。
そこにも、やはり紳士的なマナーが求められて然るべきですよね。
でも相手にばかり、自分の目と注意が向かい過ぎるような人たちは、
自分が、相手の目にどう見えるか、完全に失念してたりする。
そういうのは当事者より、第三者に、ここで今何が起きたか。
そこを手に取るように見てたりします。
そういうことでは、自分一人だけで困っているより、
同じような困りごとを抱えた人間同士が集まってみるのも、
いま自分には何が起きてるか、それについて今後どうしたらいいか。
これを知るのに、セルフヘルプが、とても有効な場合がある。
それだから、引きこもりは、余計に出口の設けにくい袋小路だと、
そこも察しがついたりします。
さて、物事は何でも、自分と相手があるならば、
こちらが向こうを見るごとく、相手もこちらを目にします。
これは病気障害状態にいる人の場合、そこの双方向性で、
ついつい見えていない状態に陥っていたりします。
その人々を見守る保護者にも、そこについての同質さはあります。
だから、これをモデルに見習う側にも、同じことが生じるのだとも。
その相手のことのようで、その中に自分の側も映り込んでいます。
初めの店員さんの接遇で言えば、お客さんは店側の態度を見ますが。
そこには、期せずして自分も、その場に居合わせればこそで、
そのシチュエーションへ、わが身を置いた上の話です。
なにかまるで中立的な透明人間が、事象の観察をしていて、
そこから店員さんの良し悪しの値踏みをする意味じゃないのです。
これは量子物理学の怪奇な現象も、それを言ってるし。
即ち、もし感じの良いお客さんというのが目の前にいれば、
目前の店員さんの応じ方にも、知らない間の反映が起こっている。
それは例えば、単純な声の掛け方とか、挨拶の交わし方の端々でも、
お客さんが自身が、それを意識するかどうかは別にして、
そこに居るだけで、兎に角、自分の雰囲気が醸し出されてます。
その場で目の前へ立つ時点から、いやもしかして視界の端に来た段階で、
もうコミュニケーションの入り口は、始まったような。
そこなんですよねえ。
相手がどう思っているかを忘れてしまうような態度とは、
自分の周りを見渡して、そこに応じた内容が何かというのを、
自分に、それが見えていないのか、あるいは見ようとしないのか・・・。
そのコミュニケーションの巧みさでは、ギコチナさの持ち主かもです。
それで、目の行き所が、相手のサービスを気にするのじゃないか。
実際、そういうタイプの人たち。どうも緊張感が強かったり、
気安く相手の人と声を掛け合うのは、あまり上手じゃないとか。
呼吸というか、間というか、間髪機敏に振る舞うのが、
どうして出来ないのかというと、違うことへ気持ちが行ってますよね。
それは常にどこか被害的な構えで周囲を伺うみたいな人が多いのも、
そっちへ、すっかりアタマが往っちゃってますから。
まあ、それは性分だから、そうした性質を一概に良い悪いで、
指摘したところで解決なんかしないのも、私は了解しているのです。
ただ、そういう背景を帯びたような人は、どこにもたくさん居ますし。
それら多くの人々とも同様なんですから。
それが自分にもあるというのは、変な気後れとかを持たないで、
もっと図々しくなったつもりで、自分もその口だからと、
平気で自認をしてると良いと思います。
そこが、出来ないから降りられないのは分かる。
でも意地を張るかどうかで言えば、そんなことする必要ないです。
その我慢が、のちのちシンドイ尾を引く御本尊ですからね。
これは心のどこかで素直に認めておくほうが楽。
つまり、無理して作らないといけない ← これこそが問題の種です。
それが今の厄介や困りごとの核となり雪ダルマを背負ってしまう。
出来ないのは百も承知ですが、出来ませんと虚勢を張って開き直れば、
それでは只の痩せ我慢にしかなりません。
素直というのは、まず自分が楽だし、物事シンプル簡単にする方便として、
是非にと、おススメなんです。
結局、身の丈に応じた生き方をする覚悟が出来るか出来ないかです。
これに尽きるなと思うのですよ。
「自分」に相応しいことを行っているかどうかが重大なんで、
「相手」が分に相応しいことを行うかどうかは、枝葉末節でして。
まず自分がしてないから、棚に上げて他人のアゲツライニ堕してる。
というと、今度は私が叱られますけどね。
そこを森川すいめい先生が体験をされた話として
本にも書いていらっしゃいますけど。
自分が問題を抱えていて、そこの自覚をしていないと、
別の相手に、それが影落とすように、他人にも変な関わり方をしてしまい、
見ようとしない自分が、そこには映り込んで来ているような。
仕事にするなら、実は自分のことをこそ、まず気が付けという部分です。
私は言葉が下手で上手く伝えられませんが。
今日は、これで勘弁してください。
また、伺います。
では、暑さに負けず、どうぞお大事にです。