さっき、ある閃いたことがあったので、
今朝はそれを少し書いてみることにしました。
ふと気が付いて分かっただけのことで、
まとまった内容として書けるかどうかはわかりません。
ただ、とても腑に落ちる感覚が浮かんだので。
取り敢えず、ここに書き留めてみることにしました。
普段いつもは長女の家で飼っているワンコを、
昨夜から我が家で預かり中でして、
このところ毎週金曜夜から翌日の土曜朝まで、
私たち夫婦の所で、その犬の世話をしてやる習慣です。
週一で、可愛いワンコを看てやるのが、私の楽しみでもあります。
今朝、テレビ中継のトライアスロンを観戦している妻の傍らで、
私は膝の上に抱く小型犬をヨシヨシと撫でていました。
そうしながら、犬の身になり想像をしていました。
もし自分の何倍も大きいような相手から、
自分の背中いっぱいぐらいのデッカイ手のひらで、
優しく背中を撫でてもらったりしたら、
いま大人の自分にしたって、きっと気分も子供返りして、
それはさぞかしウットリ、心地の好い思いを味わうことだろなと。
それは犬を可愛がりつつ、可愛がられる側の感覚も覚えながらみたいな・・・で。
かたや小さな動物であり、もう片方は、その何倍も大きな動物です。
その向こう側と、こちら側の両者の間に、
横たわっているような関係性とでも言えば宜しいでしょうか。
それは向こう側からも味わうことだし、こちら側にも感じられることです。
むこうであるのか、こっちなのか、それすらも、あまり区別がなく、
もはや混然と一体化した感触が、そこにはあります。
そう言い切って間違いじゃないと思うんです。
ここで自分がどっちの側か、わざわざ分ける必要もいらないんだし、
どっちも、こっちも、むこうと、こちらの、その両方の間で、
これを味わっているのだなと、そうも思いました。
だから、それは相手の中にあるじゃなく、自分の内に持つのでもない。
お互いの間に、それはあるから。ということです。
関係性における云々とか、コミュニケーションの上にある然々でも。
そんな旧くて硬い言い方の表現にすれば、そうなります。
立ち会う自分というのが、仮に両者いずれの側にあっても、
これらは並列横並びに両者眺め渡しつつで、そこで感じ取るみたいな、
そういうことでもありましょう。
さて、少し飛ぶみたいだけど、次のような場合はどうでしょう。
仮にここでもし、
右手にAを持っていて、左にBというのを手の中にして、
その両方を同時に持つ自分から、それらを使い何かをするならば、
両者を、自分の手でコントロールしたり操ったりしつつで、
両手を使って、それらで何かをします。だからこれは道具ですね。
これは頭を使いながらで、何か行為をしたりする訳です。
でも自分そのものが、もしそのAや、B自体の場合にどうか。
これら両者が、どう使われて、いかに動いて、働かされるか、というのは。
実はA自身でするんじゃなく、Bが行ってるというのでもない。
いわば、双方間に仮想され得る、もっと何か別の視点を通してこそ、
それが起こせていた意味にはなりませんか??
つまり自分自身Aであり、Bを見る場合に、そこでは何が起きているか。
これは既に、自分は系の内に最初から含まれています。
それ自体、あたかも盲点なので、自分の目では見えていませんが。
Aである自分の目で、Bを覗き観察したというのは、
もしかして、Aでも、Bでもない、別のCを通した上でしか、
物事として何があるのかさえ視られない話かも知れない。
観察する人間が、現象として起きることに、
覗こうとするから、結果へも関与をしてしまうという。
あれは、そうした真意で起きていたのじゃないのでしょうか。
そうするとですよ。
そもそも自分自身がAだとか、Bだとか、
ここに何か確固とした固定することができる拠り所が、
そこに存在するみたいな仮定が出来ると見做して考えたのは、
ここのセッティング自体が、まず成立なんかしてないのではないか。
これは、あまりに引き付け過ぎた、捉われた立場の目の付けどころかも。
ほとんどまるで偏見や因習のような拘り過ぎた無知同然だったかも。
これは、そこにある何かすべてに、同じように当てはまるはずです。
間にある別の何かを通してなら、両者を知る視点が在り得るが、
A側から観た見方で、相手Bを見て視えることでなく。
逆にB側から、A側が観たことが通用する話でもない。
間にある「何か」を通した、その含みの上でなら、
それらについての何らかの共有を図ろうとするのが可能だとしても。
その肝心な部分を無視して素っ飛ばせば、この事態がどんな現象か、
片方の当事者の立場ですから。外から視えているのでないくせに。
自分の見え方に拘るあまり、偏見的な決め付けた声掛けになる。
つまり、文言の中には相当強烈に指示・命令が、
また困惑や非難が含まれることですから。
それ自体相手を傷付けるし、視線を向けることすら中傷になりうる。
これらの事象というか、某現象を呈する背景には、
ほかでもない自分の側も、そこには映り込んで起きている証拠。
続けても為すべき仕事も成らぬまま次々に積み残されて終わりますから。
ここオープンダイアログに重ねることができると思うんだよね。
だから、またしても飛ぶような話し方だけど。
いま自分の母の状態に少し困ったことが持ち上がっておりまして。
年寄りに在りがちなボケ症状の面が進んできました。
ある程度、顕著になってきているのですが。
でも何といっても1000㎞遠方で生じていることで、
今すぐここから、ほとんど何も直接に出来ないのです。
その母を同居して抱える私の実の妹が、
同件についてやろうとしている対応・対処で、
こちらが頭を抱えちゃうような部分があり・・・・。
でも、これも前だったら、何か相手のコレコレの問題だから、
その本人をどうこうさせるしかない、という論法で受け止めると思う。
でもそれでは、さっきの気付きの観点から言うと、
目で見ていても、何も視えてはいない関わり方でしかありませんから。
私ら双方の間にあるところの何かを通じて、
それらについても考えていくという、そういったやり方が、
この場合も手段としても正解なんだろうと、そんな風に思うのです。
そこには自分を力点に、テコを使ってでも相手が動いたらいい。
そういうクレージーは、入り込む余地がありません。
だから、これ世の問題ごとを抱えている方々にも、
それを共有させて頂きたくブログとして上げさせてもらう次第です。
何分稚拙な表現です。
言葉が伝わるかどうか無理かも知れない。
しかしこれとて、間にある何かが仕事をしよるんやないかと。
期待をする今日日の私です。
では、週末ゆっくりと休めたら好いですね。
涼しい朝のうちに。
いや、もう暑くなってきましたか。
夏ですからね。
最後まで、お付き合いありがとうございました。