いま、そこに、あなたが、あるのは

誰も『苦労』はひとそれぞれ。しかもすべて自分のオリジナル。つまり人間の数だけ誰にもみんな役目と役割りあって生まれてる

生きる命は、誰しも道半ば

2021年08月09日 | 日記



この間から。いや前々からですね。
ずっとずっと自分なりの思いからで、
こうして書き起こし続けてきたのですが。

そもそもが、このブログというのは、
他でもないこの私が自分の目線を通して、
こうした文章として書いてますから。

これは、どうしたって、私にしても、
自分が帯びた属性ありきで、
そこに立脚しながら、
物事を、見たり、考えたり、述べていて、
というのを繰り返していた訳です。

だから知らずしらず、どうも何か立場的に、
病気障害問題における当事者サイドで、
書いていたりもするでしょ?
しかも、多少なりとも、ある程度は渦中からも、
今じゃあ少しは距離を取りながら、
半ば眺めていられる立ち位置にあって、という。
そんな感慨も心に認めつつで、これ書いてますよ。

けれども、この問題というのは、
当然、親や家族の側もそこに等しく同席をしているし、
さらにはまた、いまだ暗中模索状態にあって、
頭の痛くなる思いを抱えながら、
途方に暮れるぐらい困り抜いている真最中にあり、
だから到底まだまだ振り返るなんて、とても及ぶような状況になく。
ホットな燃え盛る火事場が現状です、という人もいらっしゃる。

今回は、そちらに触れながら、この立場へ思いを馳せて、
そこら辺りを、書いてみたいと思います。




まず私が、そんな具合に思ってみたというのは。
ふと目の前の自分の妻へと目をやれば、
次のような気分に、
この私の心持ちが襲われたからなのです。



これは、どこの家族も、きっとそうだろうと思うのですが、

こんな風に接したら、これからどうなることか、といえば、
まさか後になって、今みたいな事態が起きるとは、
予想だにしていなかったし、
その時点では、良かれと考え、一生懸命に頑張ったし、
今日まで必死にやって来たはずなのに、

でも今日になって、こうした想定外の状況をいま迎えると、
ああ、あの時にこうしなかったら、
あんなことを私の口から言ったりしたせいで・・・。
そうした繰り言をしながら、過去を顧みたりになってしまう。
そういうの、あったりしません?



わざわざ悪くしてやろうとか、何もぶち壊しにしてやろうとか、
微塵も意図なんかしてなかったのに、
振り返れば、ああ、ああ、なんと私としたことが。
そういう後悔の念から、厳しく自責感に苛まれているというのも、
これは、とても有り勝ちな話ですからねえ。



ただ、ずっとそこに踏み止まっていると、
そこから次に何が起きるのかといえば、
まず何よりも、あなた自身、顔の表情は苦しさに歪みます。
この表情を目にして、その様子を人一倍辛く感じるのは、
ほかでもない、そこの病気障害の本人です。




ある本人は、こう言いました。
「お母さんの悲しそうな顔を見るのが、
僕は一番辛いんだ」そう漏らしたそうです。

でも、そのとき病気が酷い状態にあった、
本人の側としては、もうやむに已まれずで、
自分の抱えている病気障害なりの苦しさ辛さというのを
ただただ参っているのだという、それを周りに訴えんがために、
症状なり、病状を通してですが、その表現になっていたのですから。




じゃあ、そのことで、
苦しいよと言った訴えが、受け止めてもらえたのかと言えば、
訴えれば訴えるほど、逆に今度は自分の気持ちが、
これで更にさらに責め苛まれるみたいな構えなんです。




辛いと言ったら、
まあまあと言って、ナダメルような目線や返事をもらえたならば、
その苦しさから漏らした穴には、埋められるだけの1ピースが
自分へ与えられることになるのですから。
この超難しいパズルも、その一コマ分だけは、
取り敢えず一つが解けていたはずだったのですけども。

これが、そうは行ってくれなくて、
このジグソーパズルというのが、
困れば困るほど、その難度が増していく。

いわば解こうとして、自分が取り組めば取り組むほど、
ますます級数的にパズルの規模が拡大する局面へ進むことです。

そういう逆説的なジレンマが、この厄介にはあるのです。

出口を探そうと藻掻けばモガクほどに、一段と出口からは遠ざかる。

もうこれじゃ取り組む側は自棄にもなりますし。
出鱈目なことも言い出したくなるのも無理ない世界で。
ホント消耗させられること極まりないようなシチュエーションですよ。
仮に病気じゃなくても、まったくどうかなりそうな身の置き所です。

しまいにはマジ暴力になっちゃって、
そういう足掻き方が一層周囲を困らせるのだから、
ますます分かってもらいたい気持ちというのが、
更にさらに、理解なんか、されなくなっていきます。
本当に打開をしなきゃいけないのは、
今の陥ってる困難な事態の方なんですが。
これは、そんな簡単に行かないから、
あたかも象徴的に家の壁だとか破壊して、
困り事の出口を穿ちたくなっているみたいなね。
でも、周囲としては暴れる本人が怖くてしょうがない。
だから、耳を貸そうなんて思いもよらない。
ここで闘うべき相手というのは、
本人の罹った病気がターゲットなのに、
もうそうなると、子供本人と戦う気満々で立ち向かう。
こうなると、窮地に陥る本人は身を守るべく、
さらに拳を奮う力が湧いてしょうがないですから。
そういう狂騒曲がエスカレートしていく。
こういう暴走系には、そういうシステムが、
ここにあるんだという実態を、わかっていないと、
これまた出口が遠退いてしまう結果になるだけですから。




某日、家族会にお招きした、
ある引きこもり対策の専門家の人は言いました。
本人に元気をもたらすには、家族が暗くなっていては困る。
家族が明るく楽しく元気でいてこそ、
引きこもっている本人を力づけることができるのだと。


理屈は分かります。
ただ具体的にどうすれば。そうできるんだ。
そんな感想を多くの人が持つと思う。


そこで、私の頭には次のような考えが浮かんできたのです。


これは一種のリフレーミングだと思ってもらうと、
それが理解しやすいと考えるんだけど、

(リフレーミングというのは、
ここにコップに半分の水があって、
これを「もう残り半分しかない」とみるか、
「まだ半分残っているじゃないか」と受け取るか。
中身の量は同じコップ半分でも、見方一つで意味合いが違ってきます。
同じことでも、ときに真反対に評価し直すことさえもが可能なのです。
こういうのを、リフレーミングと呼びますが)


よくありがちなパターンは、
あの時に、こうすれば、こうならなかったとか、
こんな接し方をするから、失敗したんだな。


これは、そこでネガティブな部分だけで評価をしてるから、
こうした引き算的な発想により、結果が、現状はダメだ、良くない。
悪いことになっている、悪しき事態だ、という結論になってしまう。
ていうか、そう見做して、思い込んでしまった、ということです。


だけども少し考えれば、同時に、もっと別の、何かはしていなかった。
だから、その最悪に関する回避はしてた、これも含まれている。




それは例えばこういうことです。
確かに交通事故には、なってしまった。
だけど怪我人を出すような結果は招かなかった。

この場合に、飽くまで事故が起こった結果に拘ってしまい。
何もなくて済むはずのところを、事故にしてしまったと思うのか。

事故にはなったけど、誰も負傷はしなかった。
人身に及ばなくて、その点ではヨシと思うことにして、
今後は一層の気配りで気を付けように繋いでいくことにするか。

それらも、やはり同じことの見方一つなのです。
しかも、これは、すでに起きていることなのですから。
後になった今では、これが起きる前というのを、
頭には浮かべられるとしても、
もしそうでなければという仮想点に立つ取り組みなんて、
巻き戻せないものを、いかにして巻き戻すという話であって。
これは、どう考えようとも、無理ですからね。

ここで同じ考えるのなら、次はどういう工夫をしようか。
これを考えた方が、よほど実際的で、現実的な対処なのです。
しかも実効性が期待できる方法でもある訳です。



確かに今回の結果は酷いことになったというべきかも知れません。
でも、それ以上の悪いことにまでは至らなかったのですから。
ここで、いつまでも繰り言で続け、後ろばかり見ていれば、
また進行方向上の障害物には気付かないままに避けがたく激突です。
そのコースに再度また進んでいくことになりかねません。

まったく、そういうことを繰り返していることに、
今こそ、まさに知るべきだから、
それで過去に続けてきた評価の内容について、
今一度の、もっと別の観点を持ち出してで、
見直し方の点検に、変える覚悟をしてみないと、
そこでしている堂々巡りの悪循環に終わりが来ません。
そういう提案として、ここで、これを述べているつもりです。

もし欠点が一つもないのは、確かに素晴らしいとしても、
ダメなことを一つ許す代りに、
もっと大切なもの三つが手に入るとしたら、
この場合に、トータルして、どっちが得られるのか考えるべきだ。
取り柄を探せとか、強みを評価しろというは、そこを言ってる話。

完全主義・完璧大好きで生きていこうと願っていたって、
これ不可能です。
なぜって現実とは妥協の産物なのだし。
最終的な成果物というのは、すべてトータルしての結果です。
完璧なもの1個を作るより、8割及第点を10個も設ける方が、
得策な賢い選択なのが、実人生における真実だと知るべきでしょう。

しかも、この場合の理想の完成度というものにしても、
日々これは塗り替えられていくことです。
今の世界一は、次の世界一には劣るんですから。
その中での完璧なんて、
そもそも最初から完璧には程遠いレベルかもしれない訳です。

まあ、長々と書き連ねてきたのですが、
言い換えれば、見方一つで、気持ちが切り替えられるんだし、
そこは率先して、こうやって気持ちの持ち替えをすると、
考え方や受け止め方も、別のレーンに置き変えられることだから、
一緒にやっていきましょうの声掛けが出来るような関係を、
家族の中で、工夫することが出来たら、良いかもしれません。

しかも、言葉で言われることで、傷付いてきた人達ですから、
口先で言われることよりも、
黙って目の前で、今までと違う方法というのを、
ただ見えるようにして、見せてあげるだけに留めておくのが、
それを、受け取って聞く側も聴いて、聞き取りやすいはずなのです。
言葉で書くのも変ですが、言葉が難儀なんですよ、人間には。

ずうっと聞くための耳は塞いでいないと、
生きるのも処していかれない立場に居たような人達です。

物を言って聞かせようは、余計に届かない手段になるし、
彼らが反発するのも、これから自立する人間が通る道だからです。
言葉で注文を付けるのは、控えておくのが宜しいですよ。

そして、ここがまた大事なところなのですが。
家族が抱えているだけで、なかなか解決はしないんです。
家族で対処できるのなら、最初からこうなっていませんもの。

自分の力で無理なことというのは、
他の人の力を借りて、その助けを活かす必要があるのです。

誰だって困って窮することは経験をする話です。

もし誰かが困っていたら、
今まだ困ってない人が力を貸さないといけないし。
それを支えにすることを困っている側でやろうとしないのなら、
解決なんて迎えがたいんだと気が付く潮時が今なのです。

助け合って、支えあって、というのが、つまり社会がある理由です。
人間が社会を成しているのは、自分で全部するのが不可能だからです。


考えの足らない、おバカな人は、いいえ自分は全部できています。
そう仰るかもしれない。
あなたのお召しのお洋服はご自分でお作りですか?
今朝のご飯は、おうちの畑で作って取ってきましたかね。
これを読んでいらっしゃる端末は、ご自作でしたかしら。
何にしても、パン一つ、米粒一個も、どこかの誰かと、
すべからく持ち回りで世界があるというのが人間ですから、
何かで困ったときには、臆することなく。
頼める相手を見付けて、
そのことを仕事にしている立場の相手を使うというのが、
社会で生きる人間らしい生活の持ち方なんです。


世の中が回るというのは、誰かのお陰で、こうやって暮らしている。
そういう生き方が自分で承知しているか無知でいるか。
これも考え方・見方一つの持ち方を工夫しているか、できていないか。

仮に無人島生活を志そうとしてもですよ、
その場合に使う知恵にしろ、生きていく身体にしろ、
すべて自分以外の何かを由来とするから、
今そうあるのだ、ということですものね。


あたかも自分で持っているようで、
すべて他から与えられたもので出来ていることです。
またそれは順繰りで、いま手にあるようなものは、
また別の他のものに、それを渡していくように出来ている。







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