まだ読み終わっていないのですが、
お父さんと娘の成長と共に繰り広げられるお話です。
このお家のお母さんは娘が1歳の時に亡くなっているのです。
お話の全体については
また後日書くとして...
今日は少し心に残った章の話を書きます。
娘の初節句(雛祭り🎎)の日、お父さんやおじいちゃんとおばあちゃんは張り切って
娘にお着物を新調したり、7段の雛人形達をプレゼントしたりします。
そして、娘の記念撮影を写真館でするのです。
その日、いつも家族写真を撮ってくれるおじさんカメラマンではなく、普段は紛争があったり治安の落ち着かない国でカメラマンをしているおじさんカメラマンの娘であるカメラマンが出てきます。
そして、じじばばの孫溺愛ぶりを見て、娘カメラマンは機嫌を悪くするのです。
何が気に触ることでもしてしまったか?
と、お父さんが娘カメラマンに聞くと
「ちょっとまだ後遺症が残ってるんですよ、わたし」
「ずーっと難民キャンプにいて、ガリガリに痩せた子どもばっかり見てきたから、ニッポンの子どもがちょっと、うん、子どもが悪いんじゃないんですけど、ちょっとね...あの晴れ着やおひなさまのお金があったら、粉ミルク何百人ぶんになるのかな、なんて」
と言います。
なんだか、うーん🙄と思う話です。
確かに...と思わなくもないです。
でも、私はこれを読んでちょっと違うな、と思いました。
私、幼稚園の時に似たようなことがありました。「今日、たった今、戦争で苦しんだり、食べ物がない世界の子供がいて、そんな子達と比べると日本にいれるあなたは幸せです。感謝しなさい」って。先生達に言われて。
もちろん、言い分はわかるんです。
命の危険がない、食事どころかおやつも食べれる私たちは幸せだって思うんです。
でも、そうやって決めつけるのって違うんじゃないかな。
私、そんな平和な幸せな日本で自殺する子どもがたくさんいることを知っています。
身近にもたくさん苦しんでいる子を見てきました。私だってぽけーっとした子ども時代を過ごしてきたわけじゃない。
どこにいようと、どこに生まれようと、
人が生きていくって苦しいことだと思うんです。そこに、優劣はなくてみんなある意味とても不幸で、でも幸せなんです。
幸せを人と比べるってことは、する意味がない。
そして、私大学の時人間について考えてる中で1つ気づいたことがあります。
幸せな子どもの頃の思い出を持っている人は強いって。
ずっとじゃなくて良い、1つでも自分は大切にされた、愛されたって経験があると
それだけで、その後に長ーく続く人生を、なんとか、かんとか、生きていけるんだと思います。
だから、私子どもを見たらとっても甘やかします。親戚の子でも知らない子でも1回限りの子でも。
きっと、このお話にでてきた、雛祭りの人形を買って着物を買ったじじばばのことも、孫はずっと覚えています。
雛祭りや晴れ着のモノのことは忘れても、
自分はそんなふうに愛されたんだって。
そんな大事な時間を、周りの誰かがとやかく批判なんてできるわけない、と思ったのでした。
ちなみに、お話の中でもそのじじばばのことは好意的な言葉でちゃんと娘カメラマンに説明されてます😊
なんか、子供の幸せって私の興味があることだったので熱く書いてしまいましたが...
そんなことを思いました。