このページの画像は、故あって表示されませんが、
連続性を担保する意味合いからも、そのままで公開し、
別途、新しく作り直すことにしました。
同じ内容ですが、画像はその限りではありません。
新たなページは、
(以下、本文)
Hey Jude, don't make it bad
(なあ、ユダ、 悪く考えるなよ)
Take a sad song
and make it better
(悲しい歌でも、マシにしようぜ)
Remember to let her into your heart
(彼女を心の中に受け入れるんだ)
Then you can start to make it better
(そうすれば、きっと良くなっていく)
パウロがヨハネの息子のために作詞・作曲
したと言われている名曲『Hey Jude』
(ヘイ ジュード)は、実になんともまあ奇妙
で、とても意味深な歌詞なのです。
パウロはポール・マッカートニー
のことで、ヨハネはジョン・レノンですが、
要するに、この歌は、
ビートルズの最大のヒット曲で、
B面にあるレボリューションが示す
ように、ある意味では革命的なのです。
Judeはドイツ語ではユダ(ユダヤ人)を
意味します。
もちろん、
ポールはそんなことなど知らずに歌詞を
綴ったものと思われるわけですが ・・・
Song(歌)の部分を未来や世の中に
Her(彼女)をイエス・キリストに置き換えて、
それでは、続きを見てみましょう
Hey Jude, don't be afraid
You were made to go out and get her
The minute you let her under your skin
Then you begin to make it better
(ねえ、ユダ、恐れないでさぁ
彼女のところへ行ってあげなよ
彼女を受け入れてあげるんだ
そうすれば、いいことが始まる)
And any time you feel the pain
(たとえどんなにつらく苦しいと
感じる時間が続いたとしても)
Hey Jude, refrain
Don't carry the world upon
your shoulders
For well you know that it's a fool
who play it cool
By making his world a littie colder
(なあ、ユダ、あきらめるなよ
すべてをひとりで背負い込む
ことはないんだ
クールに賢ぶった連中なんて、
愚かなだけのやつらさ
自分の世界を冷たいものに
変えてしまうだけだもの)
Hey Jude, don't let me down
You have found her now
go and get her
Remember to let her into your hesrt
Then you can start to make it better
(ねえ、ユダ、がっかりさせるな
ようやく見つけた彼女を今すぐ
思いっきり抱きしめてやるんだ
心の中に受け入れるんだよ
そうすれば、良くなるはずさ)
So let it out and let it in
(素直なままに、受け入れて
あげれば、それでいいんだよ)
Hey Jude, begin
You're waiting for someone
to perform with
And don't you know
that it's just you
(さあ、ユダ、やってみなよ
誰かが手伝ってくれるのを
待ってるつもりなのかい
おまえにしかできないこと
じゃないか)
Hey Jude, you'll do
The movement you need is
on your shoulder
(なあ、ユダ、わかるだろう
すべてはおまえ次第で
変わっていくんだよ)
Hey Jude, don't make it bad
Take a sad song and make it better
Remember to let her under your skin
Then you'll begin to make it better
(なあ、ユダ、悪く考えるなよ
悲しい歌でも、マシにしようぜ
彼女をギュッと抱きしめてさ
そうすれば、きっと良くなって
いくはずだよ ・・・)
いかがでしたか
歌を未来に、彼女をイエスに変えれば、
そのまま
「為すべきことを今すぐしなさい」
というイエスの言葉に葛藤するユダの
耳元に流れて来る悪魔の、あるいは天使
の囁(ささや)く歌声のように聞こえませんか
当然のことながら、
ポール・マッカートニーにはそんな気持ちは
さらさらもなかったのですが ・・・
さて、宿題にしていた
ヤコポ・バッサーノ(Jacopo Bassano)による
『最後の晩餐』の場面ですが、
『最後の晩餐』ヤコポ・バッサーノ 1546年
裏切り者として蔑まれているユダは
どこにいるのでしょうか
という問題でしたね。
ご覧のように、この絵画にはそれまでの
『最後の晩餐』とは著しく違う設定
での夕餉の状況が展開されています。
従来からの厳粛なる雰囲気のなかで、
それぞれが決まった席に収まる構図ではなく、
酒もまわり会話も盛んで宴もたけなわ
といった無礼講の様相を呈しています。
その意味では、疑心と動揺と驚きの渦中に
あるダ・ヴィンチの『最後の晩餐』にも
一脈通じるところがありますが、
ヤコポ・バッサーノはこの絵画(構図)で
何を表現したかったのでしょうか
以前の記事にて、
『最後の晩餐』の完成後に間もなく
して起こった絵の具の剥落や腐食
およびカビの発生という事態に直面
しても、ダ・ヴィンチが何らのアクション
も示さなかった理由として、
それこそがダ・ヴィンチの大いなる「罠」
の仕掛けであったからで、カビの発生も
絵の具の剥落も、すべて計算ずくのうえ
での出来事だとしたならばどうでしょう
というような推理を展開しましたが、
このヤコポ・バッサーノの絵画の中にも
計算された仕掛けらしき小道具(アイテム)
の数々が散見されます。
ひとつしかない大皿には 頭だけの子羊の
丸焼きが置かれていて、リンゴも、取り皿も、
ワイン入りのデカンタも、ナプキンも、パンも、
ワイングラスも、ひとつだけしかありません。
しかもそれらは手前左の男のために用意
されたかのように配置されているのですが、
このセッティングには何か意図するものが
あるのでしょうか
それとも、単にテーブルの上をすっきりと
したかったからでしょうか
それにしては無礼講のようにも見える
使徒たちの騒々しさとの整合性もリアリティ
も保てませんし、アンバランスです。
室内には、タバコの煙こそないものの酒の
ニオイや男の体臭が充満していそうなのに、
こちらに背を向けてワインを飲んでる男が
ひとりいるだけで他には飲食する様子もなく、
ガヤガヤとした喧騒の中で互いの会話の声
だけが響いているようなのです。
さて、
グラス類は、ワインを飲んでる男のものと
テーブルに置かれたワイングラスの二つが
あり、ナイフはイエスの隣にいる男(ペテロ)
が握る分(白枠内)も含めて三本ありますが、
いずれもその刃先(切っ先)はイエスの
方に向けられています。
何やら、いわくありげな作者の意図らしき
ものが感じられますが ・・・
要するに、
グラスが二つ、ナイフが三本ある以外は
すべて単品の一つなのです。
但し、
ペテロの持つナイフは刃が反っていて、
テーブルナイフというよりは小刀(短剣)に
近いものかもしれません。
そうなるとグラスが二つにテーブルナイフ
が二本だから、二人分のセットでしょうか
聖書での記述はともかくもモチーフとして
用いられる場合での『最後の晩餐』
における主役は「イエスとユダ」で、
ペテロとヨハネが準主役といった
役回りとなるのがほとんどでしょう。
二人分とはイエスとユダでしょうか
ならば、
こちらに背を向ける左から3人目の人物
がワインを飲んでいるようにも見えますが、
彼がユダということになるのでしょうか
さらに、
テーブル上の品々(パンや料理や飲み物)
やナイフ・ナプキン等が手前左の男のため
にセッティングされているように見えるのは、
彼がイエスだとでも言うのでしょうか
そう言えば、イエスが最も愛した弟子と
されているヨハネ(居眠りしている少年)と
件(くだん)の男の衣装は、なんとも瓜二つの
ペアルックではありませんか
しかしながら、
もうひとつあるテーブルナイフは手前右の
男の方向にありますよね。
ことほど左様に、
混迷や矛盾のオン・パレードで、ユダを
特定する特徴の数々が方々にばら撒かれ
撹乱させるかのように配置されています。
事実、この問題に寄せられた解答(回答)
は多種多様で、さまざまな推理から
いろいろなかたちでのユダなる存在が
指摘されています。
詳しくは、
『ダ・ヴインチの罠 醍醐味』
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/522.html
のコメント欄を参照してみてください。
ちなみにユダを表現する図法としては、
イエス自身がユダを指し示す
イエスから食べ物(パン等)を
受け取ろうとしている
ユダだけに光輪がない
他の弟子たちから孤立するか、
テーブルの反対側に置かれる
ヒゲや衣装が漆黒に塗られる
銭袋を隠し持つか、握っている
黄色い衣装かマントを着させる
赤茶色の頭髪や肌を浅黒く描く
犬や猫に関連付けて描かれる
などの特徴が挙げられますが、これらの
いくつかが組み合わされて裏切りを強調し
非難するのが決まり事のようなのです。
ところで、
メインキャストとしてのイエス、ユダ、
ペテロ、ヨハネの四人は大抵の場合、
画面の中央付近に描かれます。
そう考えるとイエスの隣で肘をつく黄色い
服の男もユダの候補だし、ナイフを持つ
ペテロの横で「違う、俺じゃない」
と手首を振ってる黒髪の男もかなり怪しい。
さらに言えば、ナイフの刃先をイエス
に向けるペテロらしき人物がユダで、
先の黄色い服の男がペテロであるとも
言えなくもないわけで、テーブルの反対側
に陣取る左右の男に関しては、もう今さら
言わずもがなの話でしょう
おそらくはヤコポ・バッサーノには彼なり
の思惑や目論見があったのでしょうが、
そこに「正解」はなく、ユダは誰
ではなく、どこにいるのかとあれこれ
詮索させるのが目的であって、それを
後世の人々が楽しんでくれるのを歓迎
していたのではないでしょうか
詰まるところ、ユダは誰かと言えば、
初めから手前右の男であったと思われる
のですが、ユダは何処と問われれば、
それこそユダはそこかしこにいて、考え
が及ぶ範囲内の者はすべてがユダ
の候補者であり、ユダなる分身で
あって、イエスも含め、ここに描かれた
全員が裏切者であるユダと同じだと
言いたかったのではないでしょうか
何故にイエスも含めるのかと言えば、
それはイエスの描き方に悪意という
か違和感を覚えるからですが、
薄ピンクのドレスシャツに黒いショール風
のガウンを纏った姿は使徒たちの衣装とは
隔絶した雰囲気を醸していて、コメントの中
にもあったのですが、どこかペテン師もどき
の胡散臭そうなにせ者に見えてしまうのは、
ヤコポ・バッサーノの絵筆の誤りでしょうか
余談ですが、スペインが生んだ超怪しい
大天才サルバドール・ダリに
ネっ、
見えて仕方がないのですが ・・・
まあ、それはそれとしても、
ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』での
イエスの姿にも同種の違和感を
覚えるのです。
生気も覇気もなく、ただ、うなだれて
タメ息を吐きそうな半開きの唇からは
どんな言葉が洩れ聞こえてくるのでしょう。
少なくともそこには神々しさも高貴さ
の欠片も微塵も感じない紛(まが)い
者のイエスが立っているだけのように
思えるのですが ・・・
イエスの習作
いやはや、
その話は長くなりますので別の機会に
して、ヤコポ・バッサーノの絵画に戻せば、
禁断の木の実とされるリンゴを画面
の中央に配置したのも、エデンの園での
アダムとイヴの失楽園の物語を暗示
しているのかもしれませんね。
つまり、
全人類に負わされた原罪があるが
ゆえに全員がユダになりうるのだと・・・
さて、こうして、ああだこうだ言ってみても、
実際のところでは、
ヤコポ・バッサーノの『最後の晩餐』
には、作者の魂胆などまったく何も存在
せずに、『Hey Judo』を勝手な解釈で
意訳したのと同質の「こじつけ」による
曲解に過ぎないものかもしれませんよね。
なぜなら、真実はヤコポ・バッサーノ本人に
しか分からないことで、あくまでも推測の域を
出るものではないからですが、
然は然りながらも、小生が、
この問題を通して訴えたかったことは、
ヤコポ・バッサーノの『最後の晩餐』
は「ふんぎり」を「踏ん切り」では
なく「糞切り」であると勘違いさせる
ような小道具(アイテム)がふんだんに
盛り込まれた絵画であって、ダ・ヴィンチの
『最後の晩餐』とは違った意味合い
での形式による確信犯的なテイストや
フレーバーに満ち溢れていることです。
要は、それらの小道具に振り回されての
牽強付会や我田引水なる解釈
に陥ることなかれということであって、
裏を返せば、そうした要素がダ・ヴィンチ
の『最後の晩餐』には至るところに
余すことなくバラ撒かれているのです。
したがって、
細心なる観察眼をもってダ・ヴィンチ
の『最後の晩餐』の「謎」に挑んで
欲しいと願うからこそ、
それが
革命的で革新的なるダ・ヴィンチの
「罠」の本質(正体)を見抜く力に
なると考えたからなのですが、
浅はかでした。ごめんなさい 🙇
皆さんの方が何枚も上手だったようです。
(しょうもな ・・・)
ところで、
コメントにあった配置・配列の妙とは、
ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』の配列
と同じ配置にユダがいるということですね。
つまり左隅がバルトロマイで、手を挙げて
いるのが小ヤコブ、ワインを飲むアンデレが
いて、手前左の男がユダとなるわけです。
次いで、
ナイフを握るペテロに、居眠りする少年の
ヨハネがいて、中央のイエスとなるわけで、
以下、片肘をつくトマスに、大ヤコブがいて、
銭袋を持つフィリポに、こちらを見るマタイが
いて、タダイの奥に寡黙なシモンがいます。
確かに、
これは面白い見方であって、有力な判断と
なり得ますが、前述のように推測の域を
出ないわけで、何かダ・ヴィンチの作品との
関連性が見出されるといいなと思います。
なにしろイチ押しのアイデアですからね。
というのも、
ヤコポ・バッサーノの絵画とダ・ヴィンチの
『最後の晩餐』には互いに共通する
メッセージがあると思われるのですが、
ダ・ヴィンチには数多くの素描や手稿類が
残されており、実物とは微妙に食い違う内容
のメモ書きや習作との齟齬がみられます。
Ⓐは上の素描を横一列に並べたもので、
Ⓑは各人物に添えられている使徒名です。
鏡文字で書かれた使徒名
それらが、
ヤコポ・バッサーノの『最後の晩餐』
に用いられた小道具の数々と同じ要素を
持ったものに思えてならないのです。
『最後の晩餐』ヤコポ・バッサーノ画
そのなかのひとつが大皿に盛られた子羊
の頭の謎なのですが、
その解説についてはまたということで ・・・
次回では、ヤコポ・バッサーノの小道具と
ダ・ヴィンチの「罠」との関連性について
掘り下げてみたいと考えています。
(関連性ねえ・・・)
空の皿に一緒に手を伸ばす二人の思惑は
果たして、どこにあるのでしょうか
さてさて、
「わしらの無礼講なんじゃがのぉ」
「いつ始まるんじゃ」
「永遠にありません !!」
てっ ・・・
ううむ。
【洗礼者聖ヨハネの首とサロメの物語】
ズジスワフ・ベクシンスキー画
… to be continue !!