このページの画像は、故あって表示されませんが、
連続性を担保する意味合いからも、そのままで公開し、
別途、新しく作り直すことにしました。
同じ内容ですが、画像はその限りではありません。
新たなページは、
(以下、本文)
『最後の晩餐』のものと思われる人物
の素描や手などの部位に関する数多くの習作
が残されていますが、現存するスケッチ類の中
に壁画の原図となり得るものは見つかりせん。
1495年頃に描かれたとされている初期構想と
思われる『最後の晩餐』の素描(構図)が
2点ほどありますが、
どちらもユダを一人だけテーブルの反対側
に配置する伝統的な手法を踏襲したもので、
初期の構想とは言っても、ダ・ヴィンチの手に
よるものとは考えにくい代物のようです。
1495年は ダ・ヴィンチが壁画の制作を始めた
年で、この頃までには現在と同じ構図の下絵が
用意されていたと考えるべきであって、壁には
横一列に並んだ大きな使徒たちの下書きが
すでに描かれていたはずなのです。
もっとも、下書きの段になって、急遽変更した
ということかもしれませんが ・・・
それにしては、
人物たちの設定(名前)や配置、表現(動作)
や仕草などに相違点が多すぎるのです。
ですから、
これらの素描が、ダ・ヴィンチの真筆(直筆)
であるとすると
それは、
「罠」に設けられた伏線や目を逸らす
ためのアリバイ工作や錯覚へと誘う
誤誘導のためのエサ(コマセ)であったと
想像するわけで、
そこに小生の仮説や推理を構成する
ファクターやパズルを組み合わせる
ピースの断片が見つかるわけです。
その辺りについては、
『ダ・ヴインチの罠 誤誘導』
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/521.html
を参照してみてください。
さて、
ここでの問題はユダの処遇です。
いつも思うことなのですが、誰が可哀想と
言っても、ユダくらい悲しく、惨(みじ)めで、
哀れな人物は他に見当たりません
全知全能の神のひとり子であるはずの
イエスが、メシアとしての存在を世に
知らしめるためにユダという名前のひとりの
弟子を悪役に仕立て上げ、裏切リ者の
汚名を着せて、生贄として捧げたのです。
そんなユダに対して、ダ・ヴィンチが何らか
のシンパシーを胸に抱いていたことは、
他の使徒たちやイエスと同列にユダ
を配置しただけでなく、空の皿に手を伸ばす
ユダの左手とイエスの右手を介して
同一の夢や目的を共有しているさまを
『最後の晩餐』における斬新な図
によって暴露していることからも窺えます。
詳しくは、
『ダ・ヴインチの罠 裏切者』
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/411.html
を参照してください。
今回はここで、
ちょっと趣向をかえて、問題を提示する
ことにしたいと思います。
下の絵は、
ヤコポ・バッサーノ(Jacopo Bassano)による
『最後の晩餐』の場面ですが、
『最後の晩餐』ヤコポ・バッサーノ 1546年
裏切り者として蔑まれているユダは
どこにいるのでしょうか
多少ならず難解な構成かもしれませんので、
分かりやすい絵から見てまいりましょう
アッシジの大聖堂にある『最後の晩餐』
上の絵はアッシジの大聖堂に描かれている
『最後の晩餐』ですが、こちらの構図も
よくあるユダだけをテーブルの向こう側に
ひとり描くようなタイプではありませんね。
それでも、
この絵でのユダなる人物の特定ならば
比較的容易に見つかります。
わかりましたか
食卓を囲むように座る円陣の中の向かって
左の白枠で示した人物がユダです
理由はそうですね。
頭に光輪が描かれていないからですが
その他にも、同じく白枠で囲った画面左隅下
にいる犬と猫も重要なファクターで、
これが最初の問題の大きなヒントになる
のかもしれません
「簡単だよ」という方もいるでしょうが、
答え合わせは最後にしたいと思います。
なぜなら、
ヤコポ・バッサーノの絵画とダ・ヴィンチの
『最後の晩餐』には互いに共通する
メッセージが隠れていると思えるからです。
『最後の晩餐』ヤコポ・バッサーノ画
以前の記事にて、
『最後の晩餐』の完成後に間もなく
して起こった絵の具の剥落や腐食
およびカビの発生という事態に直面
しても、ダ・ヴィンチが何らのアクション
も示さなかった理由として、
それこそがダ・ヴィンチの大いなる「罠」
の仕掛けであったからで、カビの発生も
絵の具の剥落も、すべて計算ずくのうえ
での出来事だとしたならばどうでしょう
というような推理を披露しました。
そこでは、
『最後の晩餐』が喪失した場合の
保険である「罠」の青写真としての
『聖アンナと聖母子と幼児ヨハネ』
のデッサン画について、
下絵のデッサンと『聖アンナと聖母子』
『聖アンナと聖母子』における構図
や常識的解釈からⒻが聖母マリアの左足で、
Ⓔが聖アンナの右足だと勝手に信じている
だけのことかもしれないという思い込みを利用
した「罠」が仕組まれていて、
そこには、
そのように意図したダ・ヴィンチの誘導
があり、それが『最後の晩餐』における
ナイフを持つペテロの右手や
ペテロの右腕の習作
銀貨入りの銭袋を持つユダの右手と
ユダの右手の習作
指を組むヨハネの両手を挟むように、
空の皿に一緒に手をつけようとする
ユダの左手とイエスの右手があり、
大ヤコブの左手の習作
(イエスの右手やユダの左手とも言われる)
そして、
回内(右手)と回外(左手)のイエス
出典:hatenablog.com
イエスの左手側(向かって右側)では、
回外(青丸印)で描かれた手
ほとんどが回外の手のなかで、回内に
描かれた大ヤコブとトマスの左手と
大ヤコブの左手とトマスの左手と思われる素描
イエスの右手側(向かって左側)では、
すべて回内(赤丸印)で描かれた手
すべてが回内の手のなかにあって、唯一、
回外となる得るケースが、
ナイフを握っている手が、ペテロ以外の
何者かの右手である場合だけであり、
そこにこそ、仕掛けた「罠」の妙味、
いわゆる醍醐味があるとしたのですが、
(醍醐味ねえ・・・)
イエスやユダや大ヤコブの他にも
イエスの習作
ユダの習作
大ヤコブの習作
フィリポやマタイに相当する習作や
フィリポの習作
マタイの習作
アンデレやペテロらを連想させる
各個人の習作があるのですから、
アンデレまたはペテロの習作❓
全体の構図をイメージさせる横一列に配置
された素描がない方が不自然であるとも ・・・
そこで、
伝統的な構図で描かれた素描をもとにして
ユダはそのまま反対の側でⒶのように
、使徒たちを横一列に並べ、向かって左から
①~⑬までの番号を割り振ってみます。
Ⓑは各人物に添えられている使徒名です。
鏡文字で書かれた使徒名
① Bartholomew バルトロマイ(Bartlomeo)
② Andrew アンデレ(Andrea)
③ Thaddeus タダイ(Tadeo)
④ 無記名〔小ヤコブ❓ Jacob the Less〕
⑤ 無記名〔ユダ Judas〕
⑥ Peter ペテロ(Pietro)
⑦ 無記名〔イエス Jesus〕
⑧ 無記名〔ヨハネ John〕
⑨ Jacob the Great 大ヤコブ(Iacobs Maggiore)
⑩ Thomas トマス(Tomaso)
⑪ Matthew マタイ(Matteo)
⑫ Simon シモン(Simone)
⑬ Philip フィリポ(Filippo)
( )内は判読されたイタリア語表記の使徒名
〔 〕内は推定される使徒名です。
少し分かりにくいので、こちらで説明すると、
④ ⑥ ⑦ ⑧ ⑨ ⑩ ⑪ ⑫ ⑬
⑤ ① ② ③ ④
使徒名が鏡文字になっているからといっても
ダ・ヴィンチの直筆だと考えるのは早計で、
先にも言ったように、その場合には撒き餌
として「罠」へと誘うための仕掛けでしょう。
ダ・ヴィンチの研究家や美術評論家によると、
この素描は彼の真筆ではなく、ダ・ヴィンチが
描いたのちに失われた原図を誰かが模写した
ものであり、その根拠として現存する壁画との
不一致と矛盾点の多さを指摘しますが、
現存する多くのデッサンやスケッチと同様に、
他者の『最後の晩餐』の絵を研究する
過程で描いた彼の習作という結論のほかにも、
弟子の手習いの場合も含め、あらゆる可能性
を完全に排除できないのが実情です。
ただ現段階でダ・ヴィンチの真筆ではないと
判断された決め手は定かではありませんが、
素描に記された使徒名の筆跡が、従来から
知られる彼の筆跡とは違うものであったとか、
初期、複製画のひとつとされるⒸの装飾帯
(下段)に附記された現在知られている使徒と
同じ名前や席順との比較において、
そのほとんどが合致を見ずに、席順、動作、
姿勢などが一致するのは左端のバルトロマイ
だけという散々な事実から、
これが『最後の晩餐』の初期の構想
ではなく、誰の筆かは別にしても単なる習作
であるとの結論に達したものと推察されます。
もちろんⒸに記入されている名前の方に
誤りがある可能性を否定はできませんが、
ここではダ・ヴィンチの、あるいは彼の意図
のもとでの他者(弟子)による素描であって、
「罠」の重要な要素のひとつである
との前提で解説を進めることにします。
Ⓒにおいての番号は頭部の位置ではなく、
座る席の順に割り振られていて、
①バルトロマイ、②小ヤコブ、③アンドレ、
④ペテロ、⑤ユダ、⑥ヨハネ、⑦イエス、
⑧大ヤコブ、⑨トマス、⑩フィリポ、
⑪マタイ、⑫タダイ、⑬シモン、となります。
これは現在知られている使徒の名前と同一
ですが席順設定のため、ユダとペテロおよび
トマスと大ヤコブが逆に表記されています。
これも、
トリックによく使われるテクニックで、
何処(どこ)に基点や基準を置くかを
曖昧にさせて錯覚を招くわけです
たとえば、
件(くだん)の素描やⒶでの⑩の人物は
Ⓒにおける⑪の人物と同じポーズで両手
をイエスに向けて横に流しています。
それが現在マタイ(L4)とされる人物で、
『東方三博士の礼拝』における
若きダ・ヴィンチとされる人物でもありますが
その解説は別の機会に譲るとして、
鏡文字で書かれた使徒名
Ⓑにも同じく⑪にマタイの名があります。
しかしながら、ここには、
最初にトマスと書かれていた文字が棒線
で消されてマタイと訂正されていますよね。
Ⓐや素描で⑪の人物を確かめると立派な
ヒゲをたくわえた偉丈夫でマタイ(L4)とは
似ても似つかぬ風貌の持ち主です。
④ ⑥ ⑦ ⑧ ⑨ ⑩ ⑪ ⑫ ⑬
⑤ ① ② ③ ④
言わばⒶ、つまり素描での⑩が、Ⓑでの
トマスであり、Ⓒの⑪やL4がマタイ
なのですから、こんがらがってしまうわけです。
要するに、
一度書いた名前を線で消して、また新たに
書き直すなどの単純なペテンにダマされて
はならないということです。
同じことが最初に出したヤコポ・バッサーノ
の『最後の晩餐』にも言えます。
問題は、
『最後の晩餐』ヤコポ・バッサーノ 1546年
ユダは何処にいるのでしょうか
でしたね。
まず、
考えられるのはテーブルの手前に座る二人
のうちのどちらかということで、
これが一度書いた名前にあたります。
しかし、どちらかを特定するような決め手が
見つからないので他の人物にあたりをつける
ことになり、それが線で消されるという行為に
相当するわけです。
次に、
手を挙げて「私じゃない」と隣の人に
大袈裟に訴えかける左奥の二人目の人物が
怪しいかも ・・・ と感じさせるのがマタイと
あとがきで訂正することで、「違う、違う」
と否定をしているような仕草に注目を
集めさせるテクニックなのです。
而して、ユダは何処に ・・・
それでは、
答え合わせといきたいところですが、
そのまえに、
皆さんの答えを是非聞いてみたいので、
次回までの宿題とします。
コメント欄にて解答を寄せてくださいね。
混乱させ誘導するのが常套手段ですので、
それを踏まえて考えてみるのも大切ですよ。
ところで、
『最後の晩餐』にしろ、ⒶⒷⒸの
図にしても、描かれている使徒たちの名前は
すでに知られるところのものとなっています。
つまり、
より正確に言えば、明らかになっていること
にされているということなのですが、
「あなたがたのうちの一人が
わたしを裏切るでしょう」
(ヨハネの福音書13:21)
「ホンマでっか !!」
「何という醍醐味」
(しょうもな ・・・)
… to be continue !!
宿題ですよ。
・・・ って、おいおい、