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透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 矛盾点

 このページの画像は、故あって表示されませんが、

連続性を担保する意味合いからも、そのままで公開し、

別途、新しく作り直すことにしました。

 同じ内容ですが、画像はその限りではありません。

  新たなページは、

 『ダ・ヴィンチの罠 矛盾点(改)』です。

 (以下、本文)

 

 世紀の大傑作として『モナ・リザ』
並び称される名画『最後の晩餐』が、


 爆撃後の壁画の様子(保護用の足場と土嚢)

 第二次世界大戦中のミラノ無差別爆撃という
悪夢から、辛くも逃れられたのは奇跡中
奇跡で、この 壁画が描かれていた
(矢印)の周辺だけが何とか原形を保って
いるというような惨憺たる状況でした。



 その残酷で悲惨とも思われる運命のなかに
あって、今日までその存在が失われることなく
残されているということは、


 爆撃直後のサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会

 まさに、

 「大奇跡」にして「超奇跡」
あると、前の記事にて述べましたが、

 
  爆撃後の壁画の保護と壁を支える足場

 詳しくは、

 『ダ・ヴインチの罠 超奇跡』
 url http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/519.html

 を参照してみてください。

 一方で、その「超奇跡」とは裏腹に、

 彼の代表作とされているわりには、完成後
におけるダ・ヴィンチの壁画に対する未練
のなさはどのように考えればいいのでしょう。

 以前の記事の焼き直しになりますが、

 ダ・ヴィンチがこの壁画の完成に並々ならぬ
思いを込めていたことを窺わせるエピソードが
著述家であるマッテオ・バンデッロの記録の中
に残されています。

 当時、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会
で見習いの修道士をしていたバンデッロは、

 「いつも朝早くからレオナルドはやって来て、
 足場に登り、地面から高いところに描かれた
 壁画に向かう。

  私は何度も見た。  夜明けから日没まで
 一度も絵筆を置くことなく、食べることも飲む
 ことも忘れて休みなく描き続けることもあった
 かと思うと、2日~3日、あるいは4日もの間
 、まったく筆を持たずに作品の前で数時間も
 立ち尽くし、腕を組み、心のなかで人物像を
 検討したり、吟味したり、仔細に 判断をした
 うえで批判していることもあった。



 また、

 太陽が一番高い正午頃に、突然の衝動に
 駆られたレオナルドが、コルテ・ヴェッキア
 から出てまっすぐにサンタ・マリア・デッレ・
 グラツィエ修道院へやって来るのを見かけ
 たこともある。  そんな時、彼は日差しを
 避けて歩くことも頭になく、そのまま足場に
 よじ登り、絵筆を取って画面に一つ、二つ
 筆を入れると、また、去って行くのだった」

 このように、他の現場にいてもなにごとか
思いつくと仕事を放棄して駆けつけることも
何度かあったようなのです。 

 こうして、

 いつ、いかなる時でも壁画のことが頭から
離れなかったという意味で、心血ぎ、
一心不乱に制作に没頭していた様子
の完成前のダ・ヴィンチの懸命さに比較して

 完成後に発生したカビや絵の具の剥落に
対し、補修をするでも、アドバイスをするでも
ない、まったくもって壁画の修復保存
関心のない態度との落差は、不自然さ
を通り越して異常としか思えません。

 まるで、ボロボロになって消えて無くなって
しまえばいいとでも思っているかのようにも
感じられるほど冷淡なのです

 『最後の晩餐』完成後のダ・ヴィンチ
の足跡を簡単に辿れば、完成と前後して、


 『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』デッサン画


 『聖アンナと聖母子』の習作とされる
『聖アンナと聖母子と幼児ヨハネ』
が1498年に描かれています。



 翌1499年のフランス軍によるミラノの侵攻を
機に、ダ・ヴィンチはミラノを離れ、各地を転々
とした後、1500年にフィレンツェに戻ります。

 50歳になった1502年には イタリアの統一を
目指すチェーザレ・ボルジアに仕え、
「建築家兼技術総監督」として、多くの
兵器を考案します。

       
      チェーザレ・ボルジア

 1503年、フィレンツェ軍の活躍を描く大壁画

 

 『アンギアーリの戦い』の様子を

 
 

 フィレンツェ政庁舎(ヴェッキオ宮殿)五百人
大広間に、描き始めます。



 この頃に『最後の晩餐』に比肩しうる
「罠」宝庫にして、双璧名画

    

 とされる『モナ・リザ』創作が開始
されたと考えられています。



 1506年頃、二枚目の『岩窟の聖母』
(ロンドン・ナショナルギャラリー版)が完成、

 

 この頃には『モナ・リザ』も、一通りの




 完成をみたものと思われます。



 1507年には、ミラノ時代のパトロンであった
ロドヴィコ・スフォルツァを失脚に追い込んだ
フランス王ルイ12世の宮廷画家になります。

 1508年に『聖アンナと聖母子』
創作を開始し、

  
  下絵のデッサンと『聖アンナと聖母子』

 1510年に『聖アンナと聖母子』
完成します。


 下絵のデッサンと『聖アンナと聖母子』(修復後)


 また、この頃に弟子のメルツィを養子にした
ようなのですが、1513年、時の権力者である
ジュリアーノ・ディ・メディチの庇護のもとに
多くの芸術家が集まるローマ(ヴァチカン)に
ダ・ヴィンチは工房をかまえることになります。

 この頃になると、

 『最後の晩餐』の画面全体にカビ
が発生し、薄っすらとした黒い陰影が出来て
いて、あちらこちらで絵の具の剥落が起こり
始めていたとされていますが、

 ダ・ヴィンチは何の行動も起こしません

 遠いフランスの地にいるのならばともかくも、
ローマであれば、仮にダヴィンチ自身がミラノ
に駆け付けられなくても、弟子を派遣するとか
補修や保存(管理上)のアドバイスをするとか
の手段や方法はいくらでも可能だったはずで、

 それがどうしても解せないのです

 例えとして適切でないかもしれませんが、
子どもに障害があるからと言って冷淡にも
見捨てて顧みない親がどこにいるでしょうか

 もちろん、例外なく、100%そうだと言う
ことではありませんが、全身全霊を傾け、
一筆入魂の思いで描き上げた作品
愛着がないわけはないのです。

 しかるに、



 肝心のダ・ヴィンチ自身が壁画の保存
無関心なのはどうしたことでしょうか

 顧みられることがまったくないのは、不自然
以上に異常であり、矛盾以外のなにもの
でもありません。

 この「矛盾点」に対する小生の答えは
ひとつしかありません。

 何もせず自然にまかせたのです。

 朽ち果てるもよし、破壊されるもよし、後世の
修復家たちによる補修や保存など、すべてを
為すがままの自然の管理に委ねたのですが、

 むろん、

 そこには彼なりの計算思惑があって、
そのための保険担保が最期まで手もと
に置いて手放さずにいた3枚油彩画


『聖アンナと聖母子』『モナリザ』『洗礼者聖ヨハネ』

 青写真としてのデッサン画です。



 そして、1513年には最後の作品となる

 『洗礼者聖ヨハネ』の制作が始まり、

 

 1516年に完成したとされていますが、

   
   『洗礼者聖ヨハネ』 1513-1516年

 この頃には、すでに、

 ダ・ヴィンチの左手マヒ悪化する
一方で、もはや限界の状態にありました。

 この年に、若きフランス国王フランソワ1世に
招かれ、ダ・ヴィンチは弟子のメルツィを伴って
再びフランス(アンボワーズ)に移り住みます。

 ドイツではマルティン・ルターによる
宗教改革が始まり、

 1519年5月2日、故郷から遠く離れたフランス
はアンボワーズ城近くのクルーの館において、
ダ・ヴィンチは永遠眠りにつきます。


  ダ・ヴィンチの死を看取るフランソワ1世
  (ヴァザーリ等による架空の物語です)

 こうして、

 画聖の誉れ高き、レオナルド・ダ・ヴィンチの
67年と17日にわたる人生が終わりました。

 「解剖して分かったことだが、
人間は死ぬように出来ているのだ」


     (レオナルド・ダ・ヴィンチ) 

     
      (ふむふむ ・・・)

 ちょ、ちょっと、待ってくださいparpar


 ところで

 この間におけるダ・ヴィンチの創作時期には
奇妙な共通点が見られます。

 『最後の晩餐』を急いで完成させた

 1498年に、『聖アンナと聖母子』
下絵として、隠し絵やミラーイメージを駆使した
『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』
デッサン青写真として描かれ、



 「罠」の存在を示す天に向けた人差し指を
大胆にも強調(主張)させていますが、

     

 同時に、それは人類への警告の意味や
シグナルだったのかもしれません。

 その点に関しては、

 『ダ・ヴインチの罠 青写真』
 url http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/448.html

 を参照してみてください。

 かくして

 1498年には青写真としてのデッサン

     

 1503年には『モナ・リザ』
 1508年には『聖アンナと聖母子』
 1513年には『洗礼者聖ヨハネ』を・・・



『モナリザ』『聖アンナと聖母子』『洗礼者聖ヨハネ』

 というように、それからキッチリと5年毎
上記した保険であり、担保としての3枚
絵画の制作を開始しているのです。

 それは、何のためかと言えば、

 絵の具の剥落腐食の他にも事故など
による外的な破壊やその他の要因によって、
『最後の晩餐』に仕組んだ「罠」
トリックが失われてしまった場合における
保険担保だったわけなのです。

 なぜならば、
 
 『最後の晩餐』遺産を引き継ぎ、
さらにそれを進化発展させた「罠」
その解読解明の方法が仕込まれている
絵画ですから、自分が死んだあとに養子で
あり、弟子であるメルツィにその遺功
引き継いで貰いたく、最期まで手もとに残して
置いていたというのが小生の推理です。

 また

 この間には絵の具が流れ落ちるという災難
により、『アンギアーリの戦い』



 大壁画に隠した秘密造作として




 の「罠」無念にも諦めざるを得ず、
 


       down_slow  

      ペテロの右腕の習作

      
 
   ・・・ って、おいおい、

      
    (それ、ペテロの右手じゃね)

   そ、そうですが・・・ase2

   反転すれば同じです。

  『アンギアーリの戦い』については

 『ダ・ヴインチの罠 黙示画』
 url http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/488.html
 『ダ・ヴインチの罠 無意識』
 url http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/489.html

 を参考にしてください。

 そして

 なにかと曰く付きの『レダと白鳥』は、



 『モナ・リザ』にその意図を託して



 自らの手で廃棄処分にしたようです。



  『レダと白鳥』については、

 『ダ・ヴインチの罠 交差点』
 url http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/452.html

 を参照してみてください。


 いやはや、またしても予告内容とは食い違う
展開ですが、あながち的外れや見当違いでは
なく、問題の人差し指を立てるトマス ・・・

  

 いやいや、本当は大ヤコブ右手
とも、決して無関係ではないのです。

    right 

         

 たとえば



 ① Bartholomew バルトロマイ(Bartlomeo)
 ② Andrew アンデレ(Andrea)
 ③ Thaddeus タダイ(Tadeo)
 ④ 無記名〔小ヤコブ❓ Jacob the Less〕
 ⑤ 無記名〔ユダ Judas〕
 ⑥ Peter ペテロ(Pietro)
 ⑦ 無記名〔イエス Jesus〕
 ⑧ 無記名〔ヨハネ John〕
 ⑨ Jacob the Great 大ヤコブ(Iacobs Maggiore)
 ⑩ Thomas トマス(Tomaso)
 ⑪ Matthew マタイ(Matteo)
 ⑫ Simon シモン(Simone)
 ⑬ Philip フィリポ(Filippo)

 ( )内は判読されたイタリア語表記の使徒名
 〔 〕内は推定される使徒名です。


     鏡文字で書かれた使徒名

 こうした

 での人物の描写や名前にしても、

 定説となっている使徒名も ・・・

    

 においての番号は頭部の位置ではなく、
席の順に割り振られていて、



 ①バルトロマイ、②小ヤコブ、③アンドレ、
 ④ペテロ、⑤ユダ、⑥ヨハネ、⑦イエス、
 ⑧大ヤコブ、⑨トマス、⑩フィリポ、
 ⑪マタイ、⑫タダイ、⑬シモン、となります。

 これは現在知られている使徒の名前と同一
ですが席順設定のため、ユダとペテロおよび
トマスと大ヤコブが逆に表記されています。

 要は

 「罠」から目を逸らすためのアリバイ作り
や、あらぬ方向へと誤誘導するための
撒き餌(コマセ)でもあるわけです。

 「十分に終わりのことを考えよ。
 まず初めに終わりを考慮せよ」


     (レオナルド・ダ・ヴィンチ)

       

 次回では、引き続き、その辺りについての
突っ込みを入れたいと思います。

 「なんでやねん !!



 その

 「ツッコミじゃありません」

  

 「突っ込んだ考察をする」

 ってことですよpeace



        


      出典:shanti-phuia.net




       出典:shanti-phuia.net

 

   


    回内(右手)と回外(左手)のイエス 
       出典:hatenablog.com

 … to be continue !!




コメント一覧

透明人間2号
天と地およびその全軍は完成した。
しかし、その歴史は歪められた。
その変遷をつたうようにして、加筆・修正されているのが、『最後の晩餐』の補修作業なのかもしれません。

イエスのモデルは女性でもイエス自身はどうなのでしょうか?

イエスと大ヤコブのすり替えはあります。

だとしたら天を指し示す人差し指の持ち主も、

トマス → 大ヤコブ → イエス → ? などのすり替えがあるのかもしれませんね。
むらさき納言
「ダ・ヴィンチの罠」の予告版以前の記事を読み直してみました。

気になったのは、ダ・ヴィンチが『最後の晩餐』を、「創世記」第2章の1~4節を練りに練って描き込んだ「思い込ませの迷宮」に仕立て上げたということと、旧約から新約への聖書の流れに欺瞞の目を向けた一大ページェントだと言っていることです。

そして、「イエスのモデルが女性であったことに留意せよ」とあります。

すり替えが重要なファクターで、その中にイエスと大ヤコブの名前もありましたが、トマスのの人差し指とも関係があるのでしょうか?
透明人間2号
どうやら言葉が足りなかったようで申し訳ありません。
ココナンさんの質問もドイルさんの問いも突き詰めれば多分同じことを言っているのだと思いますが、ダ・ヴィンチは『最後の晩餐』とされる壁画を見捨てたわけでも諦めていたわけでもありません。
ただ、自身の手による補修には関心がなかった、言い換えれば、自然にまかせたということですが、そこにはダ・ヴィンチなりの計算と計画があったのです。
要は、腐食もカビの発生も絵の具の剥落も想定内の予定稿で、イレギュラーだったのは扉の造営と爆撃による損傷ですが、そのための保険が3枚の油彩画だったということです。
つまり、現状はほぼダ・ヴィンチの思い描いた通りのストーリー展開になっているようです。

ゴスペル999さんの言うような思想面でのシナリオは皆無とは思いませんが、むしろ、もっと実験的な要素が大きいように思います。
江戸川ドイル
前のページでコメントしようとしたのですが、ルイ12世が壁画をフランスに持ち出そうとして断念したことをダシにして、自ら廃棄処分出来ない以上、担保物件を用意して自然の破滅を目論んだというシナリオだったとでも・・・?
ココナン
ダ・ヴィンチがオリジナルの「レダと白鳥」を自ら処分した背景にあるものと「最後の晩餐」を見捨てたというか諦めた理由には共通するものがあるような気がするのですが?
ゴスペル999
なるほど、偶然にしても5年おきとは、むべなるかな。
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