このページの画像は、故あって表示されませんが、
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同じ内容ですが、画像はその限りではありません。
新たなページは、
(以下、本文)
レオナルド・ダ・ヴィンチの最高傑作とされる
奇跡の名画『最後の晩餐』 ・・・
彼の代表作であるにもかかわらず、完成後
におけるダ・ヴィンチの壁画に対する愛着
のなさはどのように考えればいいのでしょう。
それまで、
心血を注ぎ、一心不乱に制作に
没頭していた完成前の懸命さに比べて、
完成後、間もなく発生した腐食やカビ
や絵の具の剥落などに際し、補修する
でもなければ、アドバイスするでもなく、
まったくもって 壁画の修復や保存に
無関心な態度や様子は不自然
を通り越して異常としか思えません
まるで、
ボロボロに崩れてしまえばいいとでも
いうような冷淡さは何だというのでしょう。
肝心のダ・ヴィンチ自身が壁画の保存に
関心がなく、顧みられることさえもなかった
という事実には、それ相応なる理由が
なければなりませんが、
それに対する納得のいく答えはひとつです。
何もせず自然にまかせたのです。
「朽ち果てるもよし、破壊されるもよし、後世
の修復家たちによる補修や保全など、すべて
を為すがままの自然の管理に委ねた」とする
考えですが、
むろん、
そこには彼なりの計算と思惑があって、
そのための保険・担保が最期まで手もと
に置いて手放さずにいた3枚の油彩画と
『聖アンナと聖母子』『モナリザ』『洗礼者聖ヨハネ』
青写真としてのデッサン画であると
『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』のデッサン
『ダ・ヴインチの罠 矛盾点』
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/520.html
のなかで申し述べましたが、
小生の仮説および推理によれば、
北イタリア一帯の覇権をめぐる政治情勢に
伴なう世情不安から、『最後の晩餐』
の完成を急いだことがダ・ヴィンチの計画に
僅かの歪みを生じさせたのです。
『ダ・ヴインチの罠 超奇跡』
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/519.html
にも書き記したようにテンペラ画法が食堂
などの湿度や温度の高い環境には適さない
ことは当時から知られていた既成の事実で、
それは顔料の乳化剤として使用する卵黄
が腐食を起こす恐れがあったからですが、
ダ・ヴィンチはもとより、それを承知の上で
『最後の晩餐』を描いていたのです。
絵の具の剥落や腐食およびカビの
大発生という事態に直面しても、何ら
のアクションも起こさなかった最大の理由は、
それこそがダ・ヴィンチの大いなる「罠」
の仕掛けであったからで、カビの発生も
絵の具の剥落も、すべて計算ずくのうえ
での出来事だったとしたならばどうでしょう。
少なくとも、
そうであれば何らの手立ても講じなかった
理由として頷けるものがあるはずです。
そう思う根拠のひとつが、完成を急いだ
『最後の晩餐』と前後して描き始めた
『聖アンナと聖母子と幼児ヨハネ』
に見られるような鏡絵(ミラーイメージ)や
『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』デッサン画
隠し絵などの「罠」の青写真
としてのトリック・アートの他にも、
どちらとも受け取れる紛らわしいアンナと
マリアの足の描き方にあります。
普通に見れば、
Ⓕは聖母マリアの左のひざにあたり、Ⓔは
聖アンナの右の足先であると思われますが、
見方を変えれば、Ⓕが聖アンナの右ひざで、
Ⓔが聖母マリアの左の足先に、見えないこと
もありません。
確かに、一見すると、
娘のマリアが、母親であるアンナの腿の上に
腰かけるという一般的には考えにくいポーズに
対し不自然な違和感を禁じ得ないわけですが、
我々は
下絵のデッサンと『聖アンナと聖母子』
『聖アンナと聖母子』における構図
や常識的な判断からⒻがマリアの左足で、
Ⓔがアンナの右足だと勝手に思い込んで
いるだけなのかもしれません。
しかも、
Ⓔの足の向きでは踏ん張りがきかず、腰を
あずけるには不安定のような気がしますし、
ⒻにもⒺにも肝心の足先に指が描かれて
いないのでどちらの足か特定できないのです。
もちろん、そこには、
そのように謀ったダ・ヴィンチの目論見
があるわけで、それらと『最後の晩餐』
におけるナイフを持つペテロの右手や
ペテロの右腕の習作
銀貨入りの銭袋をもつユダの右手と
ユダの右手の習作
指を組むヨハネの両手を挟むように、
指を組むヨハネの習作
空っぽの皿に同時に手を差し出す
ユダの左手とイエスの右手があり、
大ヤコブの左手の習作
(イエスの右手やユダの左手とも言われる)
向かって右側(イエスの左手側)では、
回外(青丸印)で描かれた手
ほとんど回外で描かれる中で例外的に
回内である大ヤコブとトマスの左手
とされるものが描かれています。
ここですね。
ちなみに、
回内(右手)と回外(左手)のイエス
出典:hatenablog.com
ほとんどが回外の手のなかで、回内に
描かれた大ヤコブとトマスの左手と
大ヤコブの左手とトマスの左手と思われる素描
向かって左側(イエスの右手側)においては、
すべて回内で描かれている手
すべてが回内の手のなかにあって、唯一、
回外となり得る可能性があるケースは、
ナイフを握るとされる手が、ペテロ以外の
何者かの右手である場合だけであって、
そこにこそ仕掛けられた「罠」の最大の
妙味があるわけです。
(ふうむ・・・)
要するに、
ダ・ヴィンチの手稿に『最後の晩餐』
の習作と思しきものが沢山残されていますが、
たぶん、それらの多くはアリバイ作りや
伏線としての準備でしょう。
イエスやユダや大ヤコブの他にも
イエスの習作
ユダの習作
大ヤコブの習作
フィリポやマタイに相当する習作や
フィリポの習作
マタイの習作
アンデレやペテロらを連想させる
使徒たちの習作があるのにもかかわらず、
アンデレまたはペテロの習作❓
全体の構図をイメージさせる横一列に配置
された素描が残されていないのは、
この壁画が
『最後の晩餐』の場面だけでは
ないことを暗示するだけでなく、別の展開
についての示唆を与えるものだからです。
おそらく、
ダ・ヴィンチは意味のない素描の類は極力
において描かなかったのだろうということと、
『最後の晩餐』の中に詰め込まれた
「罠」の秘密のテクニックを青写真
として描いたデッサンとともに手もとに置いて
いた3枚の油彩画のなかに残した。
つまり、
大いなる遺産として「罠」のエッセンス
を託していたものと推察した次第です。
ついては、
先のデッサンにおける聖アンナと聖母マリア
の足の混同や錯覚が仕組まれたもので
あるならば、『最後の晩餐』においても
同様であって、
これらの素描の存在が人差し指を立てる
トマスの右手(大ヤコブの右手でもある)
とされるものと、決して無関係ではないと
推測されるのです。
要は、衣服などの劣化に比較して、
顔や手はキレイであることから判断
しても、あるいは先にそれらの一部に腐食
や絵の具の剥落などの問題が起こった
からこそ修復(加筆・修正)がなされていた
とも言えるわけで、
そこに「罠」から目を逸らすための誤認
や誤誘導のタネが埋め込まれていたとも
考えられるわけなのです。
つまり、
必要な部分や曖昧にしたい部分に、より早く
腐食が起こり、剥落が始まり、カビ等に
よる陰影が生じることで、修復家らによって
常識的な部分修正や加筆・改変
がなされることを十分に見越したうえでの工夫
をテンペラ画法を利用して意図的
に誤誘導したのだという大胆すぎる推理
に到達したわけなのですが ・・・
「いつも朝早くからレオナルドはやって来て、
足場に登り、地面から高いところに描かれた
壁画に向かう。
私は何度も見た。 夜明けから日没まで
一度も絵筆を置くことなく、食べることも飲む
ことも忘れて休みなく描き続けることもあった
かと思うと、2日~3日、あるいは4日もの間
、まったく筆を持たずに作品の前で数時間も
立ち尽くし、腕を組み、心のなかで人物像を
検討したり、吟味したり、仔細に 判断をした
うえで批判していることもあった。
また、
太陽が一番高い正午頃に、突然の衝動に
駆られたレオナルドが、コルテ・ヴェッキア
から出てまっすぐにサンタ・マリア・デッレ・
グラツィエ修道院へやって来るのを見かけ
たこともある。 そんな時、彼は日差しを
避けて歩くことも頭になく、そのまま足場に
よじ登り、絵筆を取って画面に一つ、二つ
筆を入れると、また、去って行くのだった」
当時、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会
の見習い修道士であったマッテオ・バンデッロ
(著述家)の記録の中に、この壁画に寄せる
ダ・ヴィンチの並々ならぬ思いの丈が窺える
このようなエピソードが残されていますが、
一体、彼は何を企んでいたのでしょうか
たとえば、
これらの素描には旧来からの伝統に則った
『最後の晩餐』での使徒たちの描写と
同様の誤認や誤誘導による錯覚を
起こさせようとするの意図が見てとれます。
鏡文字で書かれた使徒名
① Bartholomew バルトロマイ(Bartlomeo)
② Andrew アンデレ(Andrea)
③ Thaddeus タダイ(Tadeo)
④ 無記名〔小ヤコブ❓ Jacob the Less〕
⑤ 無記名〔ユダ Judas〕
⑥ Peter ペテロ(Pietro)
⑦ 無記名〔イエス Jesus〕
⑧ 無記名〔ヨハネ John〕
⑨ Jacob the Great 大ヤコブ(Iacobs Maggiore)
⑩ Thomas トマス(Tomaso)
⑪ Matthew マタイ(Matteo)
⑫ Simon シモン(Simone)
⑬ Philip フィリポ(Filippo)
( )内は判読されたイタリア語表記の使徒名
〔 〕内は推定される使徒名です。
Ⓒにおいての番号は頭部の位置ではなく、
席の順に割り振られていて、
①バルトロマイ、②小ヤコブ、③アンドレ、
④ペテロ、⑤ユダ、⑥ヨハネ、⑦イエス、
⑧大ヤコブ、⑨トマス、⑩フィリポ、
⑪マタイ、⑫タダイ、⑬シモン、となります。
これは現在知られている使徒の名前と同一
ですが席順設定のため、ユダとペテロおよび
トマスと大ヤコブが逆に表記されていますが、
ひょっとしたら、
定説とされている使徒名についても
ダ・ヴィンチの術中に嵌まったままにいる
のかもしれませんよ
但し、それらについては、紙面の都合上、
次回以降での解説といたします
ということは、
このシリーズの『予告版』等々で
紹介したイタリアのデジタル画像処理会社
HAL9000によるデジタル高精彩画像の
ナイフを持つユダの手を取り押さえる
ペテロという展開もアリということかも
そんなダ・ヴィンチ如きの誘導などには、
「わしゃ、ダマされんぞ !!」
… to be continue !!
(しょうもな ・・・)
んん !!
えっ !!
『モナリザ』『聖アンナと聖母子』『洗礼者聖ヨハネ』
「十分に終わりのことを考えよ。
まず初めに終わりを考慮せよ」
(レオナルド・ダ・ヴィンチ)