このページの画像は、故あって表示されませんが、
連続性を担保する意味合いからも、そのままで公開し、
別途、新しく作り直すことにしました。
同じ内容ですが、画像はその限りではありません。
新たなページは、
(以下、本文)
まずは、この二頭の犬の絵をご覧ください。
アナタは誰の作品だと思いますか
ああ、アレね!
そうです。 あの絵です。
ヤコポ・バッサーノの『二匹の猟犬』を
思い浮かべた方も多かったでしょう。
『二匹の猟犬』 ヤコポ・バッサーノ
左の一頭がマーキングをしている微笑ましい
瞬間をスナップしたのが、誰であるのかは後で
お話しするとして、
このうちのどちらかの一頭の犬の名前が
パトラッシュである可能性があるのです。
そう、あの
『フランダースの犬』の名前です。
そして、
ネロと愛犬パトラッシュが夢に見ていた絵画、
それが、アントワープ大聖堂に飾れている
ピーテル・パウル・ルーベンスの
ピーテル・パウル・ルーベンス
『十字架昇架(キリストの昇架)』と
『キリストの昇架』 1609-1610年
『十字架降架(キリストの降架)』の
『キリストの降架』 1612-1614年
二つの三連(トリプティック)祭壇画です。
同郷のルーベンスに憧れて、画家への道を
ひそかに夢見ていた少年ネロは、貧しい祖父
との2人暮らしでしたが、裕福な少女アロアと
は遊ぶことを禁じられ、祖父は亡くなり、放火
の疑いをかけられて仕事も失い、住んでいた
小屋からも追い出されてしまいます。
すべての希望を絵のコンクールに託します
が、社会にありがちな裏取引によって落選、
遂にはノートルダム大聖堂のルーベンスの
絵の前で老犬のパトラッシュと共に力尽きる
という悲しいお話ですが、
『フランダースの犬』の物語の中で、
最も重要な最期のクライマックスを飾るのが
ルーベンスの『十字架昇架』と
『十字架降架』の二つの祭壇画です。
二つの絵画のうちでネロが最初に見るのは、
『キリストの昇架』ですが、
この時にはパトラッシュは、まだネロのもとに
駆け付けていません。
その辺りを掻い摘んで話すと、
猛吹雪の中、あてもなく歩き続けるネロの前
に、アントワープの大聖堂が見えました。
寒い中、裸足でさまよいながらも大聖堂まで
やって来ると何故か閉じられているはずの扉
が開いていたのです。
何かに導かれるようにして大聖堂に入ると、
いつもは覆いで隠されて、お金を支払わない
と見ることができなかったルーベンスの絵画
のカーテンが開いているのです。
こうしてネロが最初に見ることになったのが、
『キリストの昇架』です。
感慨深く見つめるネロ ・・・
通常は銀貨1枚ないと観覧できないのです。
もうひとつの祭壇画にも駆け寄るネロ ・・・
こちらが『キリストの降架』です。
「とうとう僕は見たんだ、
なんて素晴らしいんだろう」
「マリア様、ありがとうございます。
これだけで、僕はもう何んにもいりません」
そうつぶやくとその場に倒れ込むネロ ・・・
ネロを探し求めて彷徨い歩くパトラッシュが
カテドラルの入口までたどり着くとうつ伏せに
倒れているネロの姿に気づくわけです。
ようやくにして
見つけたネロのもとに最後の力を振り絞り
ながらヨロヨロと近寄る老犬のパトラッシュ。
「パトラッシュ、僕は見たんだよ。
一番見たかったルーベンスの二枚の絵。
だから僕はいま、すごーく幸せなんだよ」
「パトラッシュ、疲れたろう ・・・ 僕も
疲れたんだ。 なんだかとても眠いんだ」
こうして、少年ネロと愛犬パトラッシュは
飢えと寒さで息絶えてしまうのです。
これが
最初で最後となったルーベンスの絵画と
ネロとパトラッシュの落涙必至の物語での
「ラストシーン」直前の一コマですが ・・・
クライマックスではネロがコンクール用に
描いていた天使のスケッチのような展開で
まるで ネロのスケッチの中から抜け出て
きたかのような大勢の天使たちに導かれて
ネロとパトラッシュは天国に旅立つのです。
不条理で理不尽で悲劇的で、言いようのない
悔しさの残る最後でしたが、
最終回の副題『天使たちの絵』の如き、
天使の愛に包まれたフィナーレでした。
さて、
『フランダースの犬』の最終話を
ここまで引っ張ったのにはわけがあります。
この不条理や理不尽で悲劇的な
最期を遂げる人物と言ったら、
そう、
真っ先に思い浮かぶのがイエスですね。
『復活』を果たしたイエス
畢竟するに、
19世紀後半にイギリスの女流作家ウィーダ
(本名はマリー・ルイーズ・ド・ラ・ラメーという
女性で、ウィーダは著作専用のペンネーム)
により、1872年に発表された児童文学作品
『フランダースの犬』の少年ネロは
イエス・キリストのメタファとして実話をもとに
意識的に投影されたものと考えられます。
ベルギー北部のフランダース(フランドル)、
正確にはアントワープ(フラーンデーレン地方
のアルトウェルペン)郊外の村が話の舞台で、
ネロが15歳、アロアは12歳であったとされて
いますが、アニメでは10歳にも満たない幼い
少年少女として描かれています。
ここで、
アントワープの聖母大聖堂
重要なファクターとして、聖母大聖堂にある
ルーベンスの二つの絵画が登場することは、
ベルギーのアントワープ近郊の村が物語の
舞台であることからも必然であるかのように
思われるかもしれませんが、ネロがイエスの
メタファであること以外にも、この絵の中には
秘密があると思われるのです。
ところで、前回での
悪源太(源義平)は平清盛の命令で京都
六条河原で斬首(享年20)にされた経緯が
なんとなく洗礼者ヨハネを彷彿させますが、
この物語では、ネロをイエスに重ねている
だけでなく老犬のパトラッシュはルーベンス
の『キリストの昇架』の絵に出てくる
磔刑に処されるイエスを下から不安そうに
見守る犬(赤丸印)のメタファでもあるのです。
出典:www.patrasche.net
そこで、
冒頭での二頭の犬の絵ですが ・・・
『二匹の猟犬』 ヤコポ・バッサーノ
ヤコポ・バッサーノの『二匹の猟犬』
でのポインターらしき二頭の犬と比べると、
こちらはいかにも、可愛く思えませんか
左の犬は片足をあげておしっこをしている
ところで、子犬なのか、成犬なのかは、正直
わかりませんが、なんとなく顔が幼く見えて、
ビーグル犬か何かの子犬かと思われます。
マーキングする行為をわざわざ描くことに
何か特別な意味があるのかも ・・・
とも考えましたが、
ここは深読みせずにちょっと警戒しつつも
「出物腫物ところ嫌わず」な愛犬の無邪気な
仕草を描写したと素直に思うことにします。
おそらくは、この「おしっこ犬」の名前
がパトラッシュなのでしょう。
名付け親は、もちろん、この絵画を描いた
ピーテル・パウル・ルーベンスです。
そして、
出典:www.patrasche.net
『キリストの昇架』で心配そうに
見上げる赤丸印の犬の名前も、またもや
パトラッシュといって、当時、実際に
ルーベンスが飼っていた犬だそうです。
このビーグル犬らしき子犬がその犬とは
思えませんが、代々の飼い犬に同じ名前
をつけることは洋の東西を問わずよくある
話ですから ・・・
そういうことにしておいてください
大の犬好きだったウィーダが、この話を
聞きかじり『フランダースの犬』を
創作する際にパトラッシュという名前
を即座に採用したであろうことは些かも
想像に難くありませんよね
ルーベンスは犬派の系統なのか、彼の描く
『最後の晩餐』にも犬が登場します。
こちらの犬はユダの足もとで大好物の骨に
夢中でかぶりついている様子ですが ・・・
このギャップは何なのでしょう。
(対比じゃねーか)
そうですね
ユダは報酬(骨)に誘惑される強欲で大食
といった「七つの大罪」にも数えられる
悪徳なる罪の持ち主で、それを犬に
投影させているようにも思われますが、
「地獄の沙汰も金次第」といった
ユダの面持ちが、それらを陰にも陽にも
表現しているようでもあります。
『最後の晩餐』 ルーベンス
一方の『キリストの昇架』での犬は、
数人の女性と使徒ヨハネを除く、十二使徒を
含めた弟子たちのほとんどがイエスを見限り
見捨てて逃げてしまったわけで、ゴルゴダの
丘でのイエスの最期を見守り見届けることが
出来ずに悲嘆する多くの弟子たちの複雑な
思いを代弁しているとともに、別の意味では
その忠信を象徴しているようでもあるのです。
揺れ動き逃げ去った弟子たちの信仰心に
反して、一途な忠信(忠誠心と信仰心)の
発露がそこに見られるわけですね。
要するに、
『最後の晩餐』ではユダの足もと
での大食で強欲な邪悪なる象徴として、
『キリストの昇架』では十字架
の下から見守る忠信の僕(しもべ)としての
神聖なる象徴として、ルーベンスは
「犬」を描いていると思われるのです。
つまり、これまでのところは
「聖と邪」、「善と悪」という対立する
概念を「犬」というひとつの対象を介して
同じように表象しているわけですが、
もうひとつ、犬がこっそりと登場している
場面を見てみましょう
ルーベンスの『エマオの晩餐』です。
ここに犬がいるのがわかりますか
こちらは二元論的な象徴としてではなく、
師と仰ぎ、揺るぎない信仰と帰依を誓った
はずの弟子が、その師を見限り見捨てる
人間のエゴと保身に対する怒りと諦めの
心を牙として秘めているようにも感じます。
シェパードだと思われますがオオカミや
ドーベルマンのようにも見えますし ・・・
ルーベンスのアンチテーゼでしょうか
然は然りながら、
それは已むに已まれぬ葛藤であって、
小生如きがそのことを、否や、見捨てて
逃げ出した弟子たちのことを非難できる
人間など、そもそもいるでしょうか
捕らえられたなら、彼らには間違いなく
極刑が待っています。
この段階ではまだイエスを完全には
理解できていなかったのだろうし、信仰も
付け焼き刃で、おざなりなものであったの
かもしれません。
しかし、イエスの磔刑後の復活に
よって、自らの罪を悔い改めた弟子たち
のイエスに対する信仰と忠信は
揺るぎないものとなっていくわけですが、
『復活』を果たしたイエス
このことにこそ、ダ・ヴィンチは胡散臭い
もの感じ、そこにイエスの「罠」の
本質を嗅ぎ取っていたのですが ・・・
それは、
きょうのテーマではありませんので、
話を元に戻しますが、その前に一言だけ
付け加えるとすれば、猫にして、ユダ
にして、告発者たりうるダ・ヴィンチの
最高傑作が壁画『最後の晩餐』に
おけるシステマティックな「罠」
の構造にあるのです。
参考になるのかは怪しいですが、
『ダ・ヴインチの罠 告発者』
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/526.html
を参照してみてください。
それにしても、
イエス絡みの宗教画には、食事のシーン
と並んで、犬や猫がよく登場します。
ヤコポ・バッサーノの親子やルーベンス
以外にも ティツィアーノ、ギルランダイオ、
ポントルモ、ベルナルディーノ・ルイーニ、
コジモ・ロッセリ、ほか多数の画家たちが
その寓意は別にしても絵の中に犬や猫を
描き、犬と猫の共演も少なくありません。
一部を紹介すると、
『エマオの晩餐』 ティツィアーノ
『食卓のイエス・キリスト(最後の晩餐)』 ティツィアーノ
『最後の晩餐』 ティツィアーノ
『最後の晩餐』部分 ギルランダイオ
『エマオの晩餐』 ポントルモ
『最後の晩餐』右側部分 コジモ・ロッセリ
こうしてみるとユダの周りには猫ばかり
ではなく、犬だけの場合や犬と猫との共演
(主導権を争う競演のほかに友情出演)も
あるようです。
すなわちこれらは、
犬だから義に溢れ、猫だから義に疎いと
いうことではなく、犬であろうと猫だろうと、
彼らにも二面性(多面性)があるわけです。
だからそこに一方的な寓意を押し付けて
固定化してしまうのは間違いであるという
のが小生の意見であり、バッサーノ親子や
ルーベンスをはじめとする、一部の少数の
画家たちの考えでもあるのだと思いますが、
要は、鑑賞者次第ということですね
さて、次回では、本筋に戻って、
『最後の晩餐』ヤコポ・バッサーノ画
ヤコポ・バッサーノの『最後の晩餐』
と息子であるフランチェスコとレアンドロ兄弟
の同名作品との比較から
『最後の晩餐』 レアンドロ・バッサーノ
『最後の晩餐』 フランチェスコ・バッサーノ
ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』での
システム化された「罠」の謎に迫ろう
と考えていますが、
悪魔の使いとされる生き物においても
『最後の晩餐』ギルランダイオの猫
『受胎告知』のシーンなどに
猫が登場するのを目撃しますし ・・・
まずは、
これらを先に解決する必要がある
のかもしれません
これらは『受胎告知』の絵画に登場
する猫ですが、それぞれ誰の作品でしょう。
これも、ある意味で、
(印象操作でしょ)
はいはい、
ここですよ !!
『エマオの晩餐』Ⓐ 『エマオの晩餐』Ⓑ
『エマオの晩餐』Ⓐ
『エマオの晩餐』Ⓐ 猫
・・・ って、おいおい
『エマオの晩餐』Ⓑ
『エマオの晩餐』Ⓑ 犬
「果たして、どうなるものやら」
「先が思いやられるわい」
… to be continue !!
ピエタ(慈悲)ねぇ ・・・
(しょうもな ・・・)