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透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 帰納法

 このページの画像は、故あって表示されませんが、

連続性を担保する意味合いからも、そのままで公開し、

別途、新しく作り直すことにしました。

 同じ内容ですが、画像はその限りではありません。

  新たなページは、

 『ダ・ヴィンチの罠 帰納法(改)』です。

 (以下、本文)

 

 「ねえねえ、聞いて聞いて」

 「 あたし処女なのに妊娠したんだって」



 ヤダーァ (逃げちゃおっと)

 (おいおい誰なんだ コイツ)



 この派手なオーバーアクション

 大天使ガブリエル様ですョ


   『受胎告知』 ロレンツォ・ロット

 雲に乗った神さままでが大慌てして、

 「そこの娘、待ちなさい」

 と、焦りに焦るシチュエーション

       
      (ゲロゲロ ・・・)

 そんなユニークで、何ともコメデー・タッチな
受胎告知のシーンを描いてみせたのは
ロレンツォ・ロットです。


     (キモイ奴だニャー)

 この猫は、どう見ても、カトリックが忌み嫌う
「悪魔の使い」というよりは、マリアの
驚きと戸惑いを代弁しているようですが ・・・


 『受胎告知』における続いての
登場はフェデリコ・バロッチです。


   『受胎告知』 フェデリコ・バロッチ
  up
 スヤスヤと
眠りこける表情は子猫のようにも見えますが、


           up_slow
 続いてはピーテル・パウル・ルーベンスの
『受胎告知』でのです。



 こちらも気持ち良さそうに眠っています。



 教会から疎まれ嫌われているはずの
は聖母マリアだけでなく、イエス・キリストの
足もとにも登場します。


 『エマオの晩餐』 フィリップ・ド・シャンパーニュ
           up_slow   up
 ここにもまた、重要秘密が隠されて
いるようですが、についての考察はまた
別のタイミングでお話しすることにしましょう。

 さて

 推論のための論理方法を集約すると演繹
(えんえき)と帰納の二通りに大別されます。

 演繹法は、「Aだから、Bである」
いう論理をつないでいく手法で、

 いわゆる三段論法を積み重ねた結果
として必然的な結論が導かれる思考法です。

 言わば、それには、

 大前提となるルールファクト
必要かつ絶対的な条件となります。

 演繹法の欠点は正しくない、あるいは適切
ではない前提を用いてしまうことです。

 たとえば、



 この場合には、「悪魔の使い」
であるという前提ですが、絵画を見る限りでは
そんな風には感じられませんが、さらにそれを
演繹(えんえき)すれば ・・・




 「風が吹けば桶屋が儲かる」
の段階を踏んで、



 だから

 マリアイエスであるという結論
に辿り着かないこともないわけで ・・・

 要は、

 「悪魔の使い」だという前提は、
ここでは適切とは言えないわけです。


 帰納法は、数多くのファクト(観察結果)
から類似点を見つけて、事実と照合しながら
まとめあげていく論法です。

 帰納法においては 腑に落ちる こと。

 つまり、納得して得心できる内容
あるのかどうかが重要で、観察事項や方法
が適切でなかったり、少ないサンプルデータ
からむりやり結論を引き出そうと短絡すると
納得感に欠けてしまう恐れがあります。

 帰納法の最大の欠点は、

 全事例を網羅するか、それと同等の論理
証明をしない限り、帰納した結論(帰結)は
必ずしも確実な真理ではなく、一定程度の
確率を持ったものにすぎないわけです。

 要するに、「ひらめきの演繹」
「まとめの帰納」と言うわけで、

 演繹法がアイデア勝負(発想力・着眼力)
で数学的な証明方法だとすると、帰納法は
マーケティングの勝負(調査力・分析力)で
、理科の実験的思考に近いと言えます。

 では、ここからは観察力や分析力が勝負
の帰納法からまずは始めてみましょうか。

 ここで試みたい証明の第一はバッサーノ
親子が個々に描く『最後の晩餐』
父ヤコポ・バッサーノからの遺伝的情報が
その基礎にあるということです。

 次に、ヤコポ・バッサーノの異なる2枚の


  『エマオの晩餐』Ⓐ   『エマオの晩餐』Ⓑ

 『エマオの晩餐』ⒶⒷが遺伝的
な情報を担う塩基配列や触媒のような
役割を果たしていて、それが結果的には
ダ・ヴィンチの描く『最後の晩餐』
に触発されインスパイアされたヤコポ流
のオマージュになっているということです。

 それでは、父ヤコポ・バッサーノの描く
『最後の晩餐』を見てみましょう。


  『最後の晩餐』ヤコポ・バッサーノ画

 ここでは、皿の上の唯一料理
注目してください。

  
      『最後の晩餐』中央部

 『最後の晩餐』(ヤコポ・バッサーノ)
における大皿に乗った丸焼きにされた
子羊片足ですが ・・・

    

 キリストの最後の晩餐での場面を題材に
選んだにしては、大皿に盛られた料理
子羊の頭と片方の足先だけとは、如何にも
奇妙グロテスクです。

 しかしながら

 この羊の頭と同じようなモノが長男である
フランチェスコの『最後の晩餐』にも
登場します。

 
 『最後の晩餐』フランチェスコ・バッサーノ

 小さくてわかり難いのですが、食卓の上
には大皿に乗った動物の頭と片足があり、
空の皿が1枚添えられています。

 これが遺伝情報①です。

 この子羊の頭と片足の意味については、
説明を省略しますので『告発者』での
解説を参考にしてください。

 『ダ・ヴィンチの罠 告発者』
 url http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/526.html 

 遺伝情報②は床でおこぼれにあずかる
犬と猫のどちらもが鑑賞者であるこちらに
視線を送っていることです。

 これも父ヤコポの描く犬と猫と同じです。

 遺伝情報③はペテロが手に持っている
ナイフの向きと角度です。

 これもまた、「似ている」というレベルを
超えていますよね。

 url https://www.the-athenaeum.org/art/full.php?ID=117193

  大きい画像で確認を
したい方はこちらをクリックしてください。

  画面が真っ暗で見られない時には

 url https://www.the-athenaeum.org/art/detail.php?ID=117193

 urlの絵をクリックしてください。

 これらの遺伝情報の後に続く着目点は、
中央やや右上に吊るされている料理用の
鳥と右手から少年の給仕が運んでくる皿
の上の料理です。

 吊るされている三羽の鳥はゴルゴダの丘
でのイエスたちの処刑を意味し、


   『エマオの晩餐』Ⓑ 大皿の料理

 『エマオの晩餐』Ⓑでの大皿
運ばれてくる鳥の丸焼きと食卓の皿の卵は
犠牲としてのイエスの存在と復活した後の
イエスの象徴として相互に関連づけている
わけなのです。

  
    『エマオの晩餐』Ⓑ 皿の中身

 少年が運んできた皿の料理は父ヤコポの
『エマオの晩餐』Ⓐでの料理の内容
と同じ魚の料理(うなぎ)です。


  『エマオの晩餐』Ⓐ ヤコポ・バッサーノ画

 そして、それは、

   

 ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』への



 リスペクトオマージュを込めて、

   

 「グリルうなぎのオレンジスライス添え」が



 密かに用意されていたというわけですpeace

 このことは引きこもり気味の画家であった
ヤコポ・バッサーノが初のヴェネツィアへの
短期出張の折にミラノにまで足を延ばして、
ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』を鑑賞
したのではという『告発者』での推理の
一助にもなるポイントなのですが、父親に
勧められたフランチェスコがミラノで観たと
いうことかもしれません

 それではヤコポのあとを継ぐことになった
三男のレアンドロの場合はどうでしょう。

 
  『最後の晩餐』レアンドロ・バッサーノ

 こちらは逆に、頭のない動物の丸焼きが
メインディッシュのようですね。

 つまり、遺伝情報の補完作業です。

 これで首と胴体がひとつにつながって、
DNA情報が補強されるわけです。

 url https://www.the-athenaeum.org/art/full.php?ID=219943

  大きい画像で確認を
したい方はこちらをクリックしてください。

  画面が真っ暗で見られない場合は

 url https://www.the-athenaeum.org/art/detail.php?ID=219943

 urlの絵をクリックしてください。

 その意味(遺伝子補強の観点)からは、

 父と兄の絵にはなかった皿という皿に
料理が盛られ晩餐の形式が整ったこと。

 そして、

 兄が描いた1枚だけの空の皿と同様に、
一皿だけ残された空っぽの皿が手前左の
黄色いローブを羽織た男の前に、そっと
置かれているように見えることですが、

 小生には、それがユダを示す目印
のように思われてなりません。

 しかしそこに確たる根拠はありません。



 ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』での
ユダイエスが空の皿に手を伸ばす
さまから連想すると、この空の皿にも何ら
かの意図があるように思えるからですが、

 要は、

 ヤコポ・バッサーノ親子は和歌や短歌で
行なうところの連歌(この場合には連画)
一子相伝なる秘密情報など
をその仕掛け(構図や構成)のなかで共有
し発展させているようにも感じるわけです。



 そこで、もうひとつの『最後の晩餐』
とされるレアンドロの作品を見てみましょう。

 紹介した『最後の晩餐』と少しだけ
構図の違う、こちらの『最後の晩餐』
でもイメージできますが、イエスの横で安心
して眠りこける少年ヨハネと手前左の男の
側で丸まるように寄り添う猫の姿には何か
同じようなニオイや、逆にどこか対立する
反逆のオーラのようなものが感じられます。

 但し、

 こちらの絵では皿の存在はハッキリせず
に左右の男のどちらにも方にもあるようで
判然としません。

 確かなのはあれほど沢山あった食卓上
の料理が、かなりの部分で消えてしまって
いることだけです。

 ここにも明らかな意図と思惑が見え隠れ
しているようですが ・・・

       

 こちらの絵画における重要なポイントは、
犬と猫もそうですが、背後にある大理石で
出来た大きな二つの柱と右手側にある皿
を並べた棚で、この絵が兄フランチェスコ
『最後の晩餐』における宴会場の
シチュエーションとも類似している点です。

 尤も、制作年度では、弟のレアンドロの
『最後の晩餐』の方が先(1578年)
で兄のフランチェスコの方が後(1586年)
なのです。

 つまり父ヤコポの『最後の晩餐』
の遺伝情報は、三男のレアンドロによって
DNAが補強され、長兄のフランチェスコに
よって、その補完と修復が完了して一連の
ストーリーがここに完結するわけですが、


    ヤコポ・バッサーノの肖像

 バッサーノ家における画家三代の歴史は
初代フランチェスコ(Francesco il Vecchio)
に始まり、その息子でバッサーノ家の家名
を「ヴェネツィア政府御用達」にまで高めた
のが、二代目のヤコポ(Jacopo Bassano)
で、彼は1510年頃の生まれで1592年まで
長生きしました。

 三代目のフランチェスコになると、名声は
ヴェネツィア一帯に轟き、ドゥカーレ宮殿の
装飾を任されるほどだったにもかかわらず、
父ヤコポの死のわずか5か月後に 窓から
身を投げて自殺してしまいます。

 この一家の特異な点は、作品へのサイン
を家族がそろって行っていたことで二代目
のヤコポ・バッサーノはともかくも、三代目
のフランチェスコとレアンドロの作品などは
すでに区別がつかないような状態です。

 不幸なことに才能に恵まれていた長兄の
フランチェスコは自殺し、結果的には三男
のレアンドロが父の工房を継ぐことになる
わけですが、この一家、まだまだ隠されて
いる秘密がありそうなのですが ・・・

 ということで、今回は

 バッサーノ親子三人が それぞれに描く
『最後の晩餐』には一子相伝的な
秘密継承がなされていて、

 それは

 父ヤコポ・バッサーノからの遺伝情報が
確実に引き継がれたことの証明でもあり、
同時にそれはヤコポ・バッサーノの2枚の
『エマオの晩餐』ⒶⒷにおいては


  『エマオの晩餐』Ⓐ   『エマオの晩餐』Ⓑ

 遺伝的な情報を担う塩基配列や触媒の
ような役割を果たして、それがダ・ヴィンチ
の描いた『最後の晩餐』に対する
ヤコポ流のオマージュになっているという
推理の一部を帰納してみたわけですが、

 次回では、

 故郷のバッサーノ・デル・グラッパを出た
のは生涯のうちにわずかに2回しかないと
されているヤコポ・バッサーノが、

 初めてのヴェネツィアでの短期滞在の折
に足を延ばしてミラノにあるダ・ヴィンチの
『最後の晩餐』を見に行ったのでは
ないかとの前提から

 symbol2 ヴェネツィアを出てミラノに赴いた際に、

 サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院を
訪れたヤコポ・バッサーノが、ダ・ヴィンチの
『最後の晩餐』を鑑賞したと仮定して
の推論を帰納法を交えて演繹してみたいと
考えています。



 「帰納法とやらは機能しとるのか」

  

       !!





    
      『エマオの晩餐』Ⓐ 猫
   
      『エマオの晩餐』Ⓑ 犬

     




 出典:www.lets-bible.com 出典:shanti-phuia.net

       
      (これ印象操作でしょ)

 … to be continue !!

 『ダ・ヴインチの罠 ピエタ』
 url http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/527.html


 『洗礼者ヨハネの斬首』 カラヴァッジョ 1608年

 「あなたがたのうちの一人
   わたしを裏切るでしょう」


   
   『洗礼者聖ヨハネ』 1513-1516年

コメント一覧

江戸川ドイル
前提を間違えたままで演繹しているのがコロナ対策の最大のミステイクで、前から指摘しているように主たる感染経路は接触である。

クラスターの発生場所や状況から判断・分析すれば当然の帰結に思えるが、何故か飛沫がメインで、あまつさえ空気感染さえ叫ばれる始末には唖然とする。

幸いにも第5波は収束に向かってまっしぐらだが、帰納法で纏めれば、激減はコロナウイルスの都合か、自然免疫的な作用によるもので、ワクチン接種による影響は皆無とは言えないものの主たる要因ではない。

したがって、ワクチン接種の有無にかかわらず、否、ワクチンなど打たなくても、ウイルスと共生共存できる社会を日本は目指すべきなのだ!

さあ、マスクをやめて、免疫力を高める努力に勤しもう!
やぶにらみ
そのせいで、予期せぬ副反応(副作用)が頻発しているわけですな!?

冗談、冗談、コロナワクチンに絡めてのジョークですぞ!
ココナン
ここでの言説を演繹すれば、バッサーノ家の秘密には、今で言うメッセンジャーRNAのような働きや作用があるのかも・・・
むらさき納言
ロットマニアさんの言われる『大天使ガブリエル』とは、
「ポンテラニカの祭壇画」にある大天使ガブリエルを指しているのでしょうか?

こちらはピンクの衣装で女性的な容貌のガブリエルです。
聖告を受けたマリアの驚く姿もかなり違っていますね。

著名な巨匠たちの影に隠れた存在ですが、紛れもなくロットは天才の名に値する画家だと思います。
ロットマニア
『受胎告知』の所為で、ロレンツォ・ロットの作品が誤解されているようですが、ロットの描く『大天使ガブリエル』を見てください。

猫から「何だコイツ」とか「キモイ奴」とか言われるようなガブリエルとはまったく違いますよ。
弁論部2回生
犬猫、帰納法で検索して、こんなページに出会えるとは、

キリストもダヴィンチもジャンルは違うけど、何か共通するタレント性というか、パワーを感じる。

どちらも異端児であることと精神的には一匹狼だったと思う。

それにしても、ロレンツォ・ロットの「受胎告知」はユニークで笑わせるね。

取り敢えず、帰納法は機能しているということで、演繹します。
ペテロ爺さん
そうよ! だからどこの世界にも異端児はいるっと言ったんじゃ!

イエス・キリストやレオナルド・ダ・ヴィンチのようにな!
江戸川ドイル
人間の権勢的欲望と権勢本能に支配、誘発される犬などの
アルファ・シンドローム→権勢症候群とは本質的に異なるものだと思う。

犬やオオカミにしても権勢本能と服従本能を半分ずつ持って生まれてくるのではなく、ある程度までは先天的な個性として配分されているもので、後天的要因で権勢型になるか、服従型になるかが決まるのであって、それも状況の変化次第でいくらでも変わってしまうものだと思う。

でなければ、「一匹狼」の存在を説明できない。
ペテロ爺さん
言っとくが、猫は自由に振舞っているだけで、誰かを出し抜こうとか、裏切ろうなどとはせんのじゃ!

だから、一部の人間どもや犬に見られるようなアルファ・シンドロームは基本的にはない。

あくまで、基本的にじゃが、どこの世界にも異端児はいるものよ!
江戸川ドイル
前にサルトルが言っていた「自由の刑」って、要するに、それは原罪のことで、地球が刑務所になっている。

ポヨヨンちゃんのつぶやく「ペットでもノラでもない自由」って、囚人であることに気づいていない人間(地球人)のことを言ったのかなあ?

そのせいでプロメテウスはゼウスから永遠の責め苦を受けるわけだけど、それって、プロメテウスがルシファーだってことだよね。

ダヴィンチの目的が「誰からも支配されずに、誰をも支配しない自由」にあるとしたら・・・

そして、それが「どんなに小さくても猫は最高傑作」であるとした言葉のなかに隠されているとしたら、どうなんだろう?
ペテロ爺さん
わしが言うのもなんじゃが、猫は特別な存在なんじゃ!

それ自体が自由だからのぉ・・。
江戸川ドイル
どんなに小さくても猫が最高傑作であるように・・・

誰からも支配されずに誰をも支配しない自由、そこにダヴィンチの目的があるのかもしれない。

ポヨヨンちゃんの言う「ペットでもノラでもない自由」って、そのことなのかな?
ペテロ爺さん
うーむ。 猫に支配・調教される犬という図式は気に食わんな!

元来、猫は自由で誰からも支配されないかわりに、誰をも支配しないはずなのじゃが・・・
江戸川ドイル
シンドロームというよりは、ずばり依存症ですね。
彼らが猫かどうかは別にして、何らかの教団に
支配、調教されている人たちの姿は犬そのものだけど。
ペテロ爺さん
イエスもマリアもある種の人間にとっては猫に木天蓼(またたび)、ドラックやポイズンによるシンドロームのようなものじゃ!

ま、そもそも猫じゃからのぉ。
むらさき納言
確かに、謎めいてますね。

ハンドルネームからして不明不詳ですから、最初から唐突に現われて、忽然と消えるつもりだったとも言えますが・・・

ただ、詠んだ歌の最後が、「こころ空しく」で「空しき」とか「空しけり」とかの詠嘆になっていないので、また来る意思が読み取れます。

つまり、けりが付いていないけど探偵ごっこはイブのイブで一旦終わりと宣言したわけで、See you again とか アスタ・ラ・ビスタと同じニュアンスを感じます。

何かスルーした彼の人のようでもありますが・・・

詠んだ歌の内容を振り返ると違いますね!
ゴスペル999
探偵ごっこはイブのイブまで・・・ と詠んどったさかい何か隠し玉でも出すんかいなと思っとったんやけど、

幾たびか この指とまれと 示したる
      人差し指の こころ空しく

と詠んだきり、パタリと音沙汰なしや!

それが12月23日ってことは、イブのイブやで、なんやこの人も不思議で妙な人やわ・・・
ゴスペル999
わいもひとつ詠ませてもらうわ!

何処からか 機に乗じては 毎来たる

     不明不詳の 詠み人知れず

(ゴスペル999)

どないや!!!
むらさき納言
のぞき見て あくることなく 立ち寄りて

       黙する性の なんぞ悲しき

(むらさき納言)
不明不詳
幾たびか この指とまれと 示したる

      人差し指の こころ空しく

(詠み人知れず)
むらさき納言
書こうか書くまいか悩みましたが、書くことにしました。
それと言うのも、このコメントの宛先人に読まれるのかどうかの保証がどこにもないからですが、「時間のある時にいつでも構わない」ということでしたので、読まれないとしても一応の返答はしておこうと思ったからです。

バッサーノ親子の『最後の晩餐』での犬と猫の配置の違いや、ヤコポ・バッサーノの『エマオの晩餐』での犬と猫の逆の配置が、私の中ではつながると言ったのは「それが父(師匠)から息子(弟子)たちへの指示だった」からということです。
それはその後の『ノアの箱舟』での犬と猫の数やその他の同名作品の中にも受け継がれるもので、2号さんの言葉を借りればDNA(遺伝情報)です。

今回の記事で、その一部が示されましたので、全く同じではないものの極めて近い推理であったと思っていますし、おそらくは「ノアの箱舟」での親子での犬と猫の数の違いはつがいの問題ではなく、数そのものの問題だと考えています。

おそらくは次回以降でその辺りの経緯についても語られるものと予想していますが、

予想できないのがポヨヨンさんのつぶやきで、予測不能で意味不明です!

スルーするなら黙ってすればいいだけで、わざわざ、「ある意図があってスルーする」などと宣言した方にも申し上げたいと思います。

素直じゃないのですね! 「悲し過ぎます」
ゴスペル999
この手の推論では演繹はまず無理で、帰納法でそう思わせるしか方法がないんやけど、なかなかの出来とちゃう!

次回、演繹にチャレンジするらしいけど、ごっつう期待しとるで・・・
ココナン
猫の考察が聞けなかったのは残念ですが、バッサーノ家の結束や家族ぐるみの様子が垣間見えてよかったです。

ドイルさん同様に納得感アリです。
江戸川ドイル
納得っす!
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