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19世紀の末にドイツの哲学者 ニーチェ
(1844~1900年)は、人間は自らを超克して
「超人への道」を歩むべきであることを
力説しましたが、
かの悪名高きナチスの総統ヒトラー
も、21世紀での「超人」の出現を、
その発言の中で予告していたようです。
いわゆる「ヒトラーの予言」とされる
一連の未来予測ですが、
予言の中身については、
『ヒトラーの予言と福音書』
を参照してみてください。
珍しい和服姿のヒトラー 出典:irorio.jp
(日独防共協定時の写真と思われる)
さて、
聖蛇ピュトンを倒し、デルフォイ
の神託権を奪い取ったアポロンとは
一体、いかなる「神」であったのか
ベルヴェデーレのアポロン
「超人への道」を主張したニーチェ
の処女作『悲劇の誕生』では、
「アポロン的」なる表現方法が
用いられています。
芸能・芸術の神にして牧羊の守護神であり、
光明の神でもあって、ホメロスの一大叙事詩
『イリアス』においては遠矢の神にして
予言の神でもあり、古典期のギリシャでは
理想の青年像としてのモデル的な存在で
あって、太陽神ヘリオスと同一視される
ようになったことから
理性を象徴し代表する方便として
「アポロン的」という比喩表現が
採用されたようです。
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ
一方で、ニーチェは対抗軸として
ディオニュソス ミケランジェロ作
「ディオニュソス的」なる表現
を用意していました。
ディオニュソスと擬人化された葡萄の木
ディオニュソスは、一般的には
「酒の神」(バッカス)として知られて
いますが、
より正確には、葡萄酒と豊穣
と酩酊と不死、そして演劇の神
として知られ、葡萄の木を見つけ出して
葡萄酒の製造法を見つけたと言い伝え
られています。
後のイメージからは、陽気な酔いどれ
親父のような印象を持ちますが、
『酔っぱらったシレノス』 ルーベンス画
それは、ディオニュソスの従者の一人で
外見のすこぶる醜いシレノスのことで、
酔ったシノレスの像
太鼓腹と獅子鼻をもち、常に酔っている
だらしない姿をした半獣神(半人半馬)
のイメージがそうした誤解を生んだのです。
しかしながら、実際には、
シレノスと子供のバッカス
シレノスは大変な賢者であって、予言
の能力を有し、幼いディオニュソス
の守役として、その教育にあたっていたと
されています。
本来のディオニュソスは黄金の髪
を靡かせた青年の姿をしているのです。
ディオニュソス(バッカス)
壮々たる古代ギリシアの神々の中でも
ディオニュソスほど我々の関心を
喚起させるような神は他にはいない
のではないかと思えるのですが ・・・
『ケレスとバッカスがいないとヴィーナスは凍えてしまう』
ピーテル・パウル・ルーベンス(1613年)
ニーチェが「理性」と「自制」の
象徴として太陽神アポロンを選出し、
一方では対照的な存在として、 VS
アポロン ディオニュソス
規律の境界からはみ出るほどに野性的
で計り知れないパワーを有していた酒神
ディオニュソス(若いゼウスの意味)
を「理性」と「自制」とは対極にある
放縦的な「激情」と「陶酔」を象徴する
ものとして対比・選抜したわけです。 VS
アポロン ディオニュソス
数多(あまた)いる哲学者の中でも特異
なのがニーチェで「神は死んだ」
や「超人」といった概念はよく知られる
ところのものですが、
その反キリスト的で、反道徳的な思想は、
哲学者としては異端であり、異質である
としか言いようがありません。
ただ、
彼はキリスト教や道徳を批判することを
目的としていたわけではなく、我々、人類が
既成の枠から脱して、「超人化」すべき
であることを主張したに過ぎないのです。
ニーチェの言う「超人」のモデルは
言外にディオニュソスのことを
指しているのかもしれませんね。
少なくともそこに通底する何かを感じます。
『悲劇の誕生』を一部引用すれば、
芸術は、アポロン的な造形的芸術と
音楽というディオニュソス的非造形
の芸術があって、この2つの要素(衝動)が
ギリシャ的「意志」の形而上学的奇跡に
よって夫婦としてあらわれる時がやってくる。
この結婚がディオニュソス的で
あると同時にアポロン的でもある芸術
を生み出すようになる。
要は、このことを指して、
『悲劇の誕生』だとしたわけですが、
さらに引用を続けると、
ギリシャの芸術は、「アポロン的なもの」と
「ディオニュソス的なもの」という2つの要素
のせめぎ合いによって展開してゆく。 VS
アポロン ディオニュソス
それは
オスとメスによる生殖のようなもので、
生物の場合は2つの異質なものが絶えず
せめぎ合い、両者の和合はしかるべき
ときに定期的にしか訪れないわけだが、
芸術もそれに似たところがある。
そうした芸術の特質を、ただ単に論理的
に理解するだけでなく、ずばり直観的にも
把握できるようになれば、美学は大きく
前進することになるだろう。
とか言われても 太陽神と葡萄酒の神が
オスとメスで、その対極にあるモノ同士が
結婚して和合すると、何故に、美学が前進
するのか
今ひとつ分かり難いのです
そもそも、
どちらがオスで、どちらがメスかも
大いなる問題となるし、
理知的で外見上も男神随一の美男子
とされ、竪琴の名手にして、弓の達人で
もあり、文武両道にして容姿端麗という
ギリシャ人の理想であるアポロンは、
竪琴を奏でるアポロン
本当に ニーチェが見立てた通りの
「知性」と「自制」を象徴し代表するような
「神」だったのでしょうか
彼の見立ては、
『リュートを弾くアポロン』 ブリトン・リピエール
端正な容姿の光明神で形式美と秩序を
重んじる「ロココ様式」のアポロンと
酩酊・狂乱の異端神で野生的で豪放な
「バロック様式」のディオニュソス、
『バッカス祭り』 ニコラ・プッサン
ということになるらしいのですが、内実は
その逆であって ・・・
小生にはゼウスに負けず劣らずの
女好きなくせに、恋愛運はなく、内面的
にも見かけほどには、明瞭でも快活でも
なく、短気で思慮にも、寛容さにも欠け
、不実で陰険で、ズル賢く立ち回るには
間抜けなところのある単に色男で優男な
だけのアポロンにしか思えません。
(オイオイ(・_・;))
ニーチェはディオニュソスを
陶酔的・激情的芸術を象徴する「神」
であるとして、アポロンとは対照的な
存在であると考えたわけですが、
ニコラ・プッサン画
彼の考察にキリスト教的価値観が付随
されると、一見では優雅で知的に見える
アポロンは「聖」であって、粗野で
ガサツに映るディオニュソスの方
は「邪」にして、「悪魔的」であると
する誤謬が生じがちで、比喩としての
選定に疑問を禁じ得ません。
「理性」と「情動」という全く
正反対の形容に対比させようとする意図は
十分に理解できるとしても、
『アポロンとダフネ』 ジーン・エティエン・リオタール
どう解釈しても ・・・
アポロンに高潔なるイメージは
望むべくもなさそうですし、
『アポロンとダフネ』 ベルニーニ
ディオニュソスを激情的とする
のもどうかと思われます。
ディオニュソスの場合に情動の
根拠となり得る煽情的な振舞いのもとは
周りを取り巻いている好色の象徴である
サテュロス(半人半獣の精霊)や
『ニンフとサテュロス』 ブグロー(1873年)
野生的な女性であるマイナデス
(マイナスの複数形)のイメージが
先行して一人歩きしているわけで、
『豹に乗ったマイナス』 ブグロー(1855年)
ニーチェの両者に対する位置づけ
には疑義を挟まざるを得ません。
『バッコスの信女』 ジェローム画
むしろ、
『ディオニュソスとキタラ―を持つアリアドネ』
繊細で心優しいのは、アリアドネの物語
に見るまでもなく、ディオニュソス
の方なのかもしれないのですから ・・・
『酒神ディオニュソスとクレタ島のアリアドネ』
要するに、
アポロンもディオニュソスも、
その属性を明確に切り分けられるような
キャラクターではなく、
両者ともに牧畜(牧羊)と関わりがあり、
音楽や演劇などの芸能にしても然りだし
、むしろ、神々の中では最も近しい二柱
であるとさえ言えるわけで、
両者の違いは容貌の美醜に関する
見解の相違と奉られている場所や環境
(神殿か森か)の違いくらいで、
互いに共通する要素を見つけること
の方が容易いと思われるくらいです。
実際に、
アポロンが留守にする冬の時期の
3カ月間、デルフォイの主(あるじ)で
いるのはディオニュソスなのです。
残念ながら、
『デルフォイの巫女』 ジョン・コリア
その間には神託は行われませんが、
それだけ ディオニュソス が
人々に慕われ信仰されている証左で
あったと言えるでしょう。
彼には出生の秘密とも言うべき物語と
オリンポス十二神の一柱へと加えられる
ようになるまでの道程におけるサクセス
ストーリーが用意されていますが、
オリンポス十二神
それもギリシャ社会に受け入れられる
ための布石だったのかもしれません。
ここではそれらの物語は割愛しますが、
一番遅くギリシャに迎え入れられたと
されるのがディオニュソスである
と考えられるわけで、
雷を持つゼウス像
主要なる 神々 ・・・
正妻ヘラと王座に座すゼウス
いわゆるオリンポスの十二神のうちで
確実にインド・ヨーロッパ語としての解釈
が可能なのは「日中の光=大空」
を意味する語に由来する主神ゼウス
だけであって、
ギリシャを代表するようなアポロン
でさえ、ギリシャ語としては解釈できず、
大方の神々の名称は先住民から
受け継がれた大いなる名前であった
と思わざるを得ないわけです。
つまり、何が言いたいのかと言えば、
生粋のギリシャ生まれの「神」と
思われたアポロンでさえ、他地域
(よそ)からの侵略者の手によって
土着の「神」が習合された結果と
してのプロセスであって、
そのことは、
『アポロンと大蛇ピュトン』ルーベンスの下絵
デルフォイの地がアポロン
に習合された「神」(侵略者)によって
蹂躙、略奪されたことを意味するわけで、
先住民が、いわゆる聖蛇ピュトン
(ガイア・ティターン神族)なわけです。
さて、
生きていくうえで、必要のないものまでを
「持っていないと不幸」であると
されてしまうような ・・・
すなわち、物質至上主義経済で成り立つ
貨幣が絶対の世の中の仕組みが作られる
キッカケのキッカケ、その端緒の端緒が、
アポロンによるデルフォイの利権
(神託権)の収奪に始まったと考えると、
『デルフォイの巫女』 ジョン・コリア画
この絵画の持つ意味の重さが判ろうと
いうものと、前回、申し上げましたが、
つまり、
この三脚の椅子の脚に彫刻された
謎の三本指の肢のメタファが、
アポロンに習合される以前から
デルフォイの地を管理・守護して
いた聖蛇(竜)ピュトン(ガイア)で
あり、テミスであり、ポイベである
ということです。
デルフォイの神殿において
アポロンの神託が行われるよう
になった顛末については、
『ダ・ヴィンチの罠 三本指』
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/531.html
を参考にしてください。
ところで、三本指の肢の彫刻は
俗に「獅子足」と呼ばれるもので
アンティーク家具や装飾台の脚などに、
まま見られるものですが、
この場合には、
聖竜(ピュトン)の肢を象ったのが
ジョン・コリアの描く、デルフォイの巫女
(ピュティア)が座る三脚椅子の爪先に
彫り込まれた三本指の肢であり、
『デルフォイの巫女』 ジョン・コリア
『デルフォイの巫女』では、
聖蛇ピュトンと、その流れを汲む
ティターン神族を無意識のうちに追慕
するかたちになっているわけです。
それは意識的に想起されないままに
我々人類の脳裏の奥深くに刻印された
遥か遠い昔の記憶の断片であって、
『アポロンと大蛇ピュトン』コルネリス・デ・フォス
そのことは、
ダ・ヴィンチの『受胎告知』における
フクロウがあしらわれた書見台の脚に
彫刻された三本指の肢のうえに、
そっと添えられている謎の肢に始まり、
ルーベンスの『最後の晩餐』では
『最後の晩餐』 ピーテル・パウル・ルーベンス
ユダが座る椅子の脚に犬が咥える
骨を思わせるが如くに、
また、
シャンパーニュの『エマオの晩餐』
『エマオの晩餐』 フィリップ・ド・シャンパーニュ
ではイエスの足もと近くにある食卓
の脚が子猫を襲うが如くに、
さらに、そのシャンパーニュが描き出す
『アウグスティヌス肖像』での
『アウレリウス・アウグスティヌの肖像』
書見台の脚に見られる三本指、
といった具合に、無言の伝播として
継承され描き続けられてきたのですが、
その「罠」の真意に気づく者は
描いた本人も含め、極々少数の一握り
の人々に限られていたのでした。
要は、
「獅子足」が描かれているからと
いって、そこに意図があるわけではなく
問題は、見せ方としての寓意と
隠し方のディテールなのです。
したがって、
『デルフォイの巫女』を描いた
ジョン・コリアにしても、どこまでその意図
に気付いていたものやら ・・・
『Lilith with a Snake』
アダムの最初の妻で、夜の魔女
として恐れられたリリスにしても、
『The Land Baby』
この人魚と幼女にしても ・・・
三本指の肢の持ち主たちとは
無関係ではありませんが、
果たして、
描いた本人もそのことに気づいていた
か否かの確証はどこにもありません。
次回以降において、
ルーベンスやシャンパーニュの作品と
ともにそれらの真相について解説したい
と考えていますが、
こちらもどうなることやら ・・・
(なんでやねん)
ところで、
わしとアンタなんじゃけど、
お互いに侵略せんように、
それぞれの正しい立ち位置を、
「わしらは気づいておるかのぉ」
そだねー、カーリングのように
カール(旋回)しないようにねー
「そだねー」ってか !!
でも、一応、
デルフォイでの神託を ・・・
って、 おいおい (^▽^;)(^^ゞ
… to be continue !!
『荒野の聖ヨハネ(バッカス)』
ひょっとして、
ディオニュソス
□□
『洗礼者聖ヨハネ』 1513-1516年 (完全な印象操作でしょ)