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同じ内容ですが、画像はその限りではありません。
新たなページは、
(以下、本文)
ディズニー映画『リトルマーメイド』
(人魚姫)のヒロイン(主人公)アリエルの
印象が衝撃的だったせいか、
「人魚(マーメード)」という響きには
マイナスのイメージを感じません。
原作であるアンデルセンの『人魚姫』
のような悲しい結末ではなかったからです。
ジュリアン・ムーアが人魚姫アリエル(実写)
を演じた場合の写真家アニー・リーボヴィッツ
(米国)が描く海の世界のイメージ ・・・
そして、
アニメ映画だからということではなく、一般
に人魚を表現するときには、
尾びれが強調されるのが普通です。
「人魚」とは半分が人間で半分が魚、
いわゆる、
半人半魚の「半魚人」でしょうか
どうも少し違うようです。
ヨーロッパでは、上半身が人間で下半身が
魚類の場合に人魚=マーフォーク
(MERFOLK)と言い、なかでも特に若い女性
の人魚をマーメイド(MERMAID)、
男性をマーマン(MARMAN)などと
呼んで区別しているようです。
伝説や物語に登場する人魚の多くは、
このマーメイドのことですね
『人魚』 ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス
「半魚人」は、人間と魚類との中間的
な身体をもつ伝説上の生き物で、
映画『大アマゾンの半魚人』の一場面
二腕二脚でありながらエラや鱗を持つなど
の身体特徴から「水棲人」とも呼ばれ、
人魚の男性同様マーマンと称される
ことが多いようです。
アマゾンの水棲人間と女性の愛の物語
ギレルモ・デル・トロ監督による最新作の
モンスター・ロマンス映画の予告版です。
映画『シェイプ・オブ・ウォーター』
『美女と野獣』系のカテゴリーに
入る異形がゆえの悲哀を感じさせる
ストーリーのようですが、
上半身が人間で下半身が魚類の姿 ・・・
どうやら、
脚のない姿で尾びれのある場合に限って
「人魚」と呼ぶのが普通のようです。
それでは、彼女の場合はどうでしょうか
上半身は人間の若い女性のようですが
、下半身は魚の胴体に尾びれがある
ような、ないような ・・・
少し大きな画像で確認してみましょう。
浜辺での人魚と人間の女の子を
描いたと思われる構図ですが、タイトルは
『The Land Baby』 ジョン・コリア画
『The Land Baby(大地の子)』
若しくは『地上の子』となっています。
つまり主役はこの小さな女の子で
人魚らしき女性は脇役ということです。
それに
この人魚と思しき女性の尾びれも
いまひとつ心もとないというのか、モヤっ
とした感じでハッキリ描かれていません。
この絵の主題が人間の姿をした子供に
あるのなら、この人魚は何の目的で
描かれたのでしょうか
ウォーターハウスの絵の如く『人魚』、
あるいは、『人魚と陸の子供』
とはせずに『The Land Baby』
とした理由は何でしょうか
それは、
この女性が人魚ではないからです。
それでは、
いったい誰、いや、何者なのでしょう
ヒントは作者であるジョン・コリアが
描いた別の作品にありました。
『Lilitn with Snake』
聖書においてはアダムの最初の妻
で夜の魔女と呼ばれたリリスであり、
ギリシャ神話ではポセイドンの孫に
あたる古代リビュアの女王ラミアです。
リリスについては、このシリーズでの
初期のページにて取り上げていますので
まずは、そちらを参照してみてください。
『ダ・ヴィンチの罠 リリス』
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/407.html
『アダムとイヴのへそ <5>』
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/243.html
『アダムとイヴのへそ <6>』
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/244.html
『アダムとイヴのへそ <7>』
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/245.html
『アダムとイヴのへそ <8>』
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/246.html
さて、
海神ポセイドンの息子ベーロス
は自身の母であるリビュエーとの間に
娘をもうけます。
この女性がのちにリビュア(現在のリビア)
の女王となるラミアでした。
ギリシャ神話のラミア
ギリシャ神話に登場する「ラミア」は
海の神ポセイドンの孫として生まれた
古代リビュアの女性(女王)で、その美貌を
ゼウスに見初められ、契りを交わした為に
正妻ヘラの怒りを買ってゼウスとの間に
もうけた子供をすべて失ってしまいます。
しかも、
ヘラの呪いはそれだけでは終わらずに
子供を失った悲しみから常に逃れられない
ように、眠りさえも奪ってしまうのです。
彼女を不憫に感じたゼウスはラミアが
休めるようにと思い 目を取り外して眠れる
ようにしてあげますが、
『蛇女ラミア』 アンナ・リー・メリット
子供のいる他の母親たちを羨むあまり、
彼女は他人の子供を食べるようになった
とか、生まれたばかりの子を喰らうという
おぞましい呪いのせいで、上半身が女性
で下半身が蛇という恐ろしい怪物に
夜の魔女リリスと半人半蛇のラミア
変身しまったとも言われています。
転じて、
『ラミアと戦士』 ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス
その苦悩のあまりに子どもを喰らう
女怪物と化したラミアは、同時に
『漁師とセイレーン』
男を誘惑する淫魔ともされています。
聖書に登場する魔女として有名なのは、
リリスやリリムですが、その起源は
キリスト教の成立期よりも、ずっと以前で、
古代のイスラエル(ヘブライ)から、さらに
古代バビロニアまで遡ることになります。
彼女らは妊婦や男の子、男の赤ん坊を
狙う悪霊とされていたわけですが、
古代ギリシアの時代には「ラミア」や
「エンプーサ」と呼ばれ、キリスト教
における聖書では、それを「ラミア」
と訳したわけです。
『原罪と楽園追放』 ミケランジェロ
またリリスは蛇と一緒に描かれる
ことが多く、楽園でのアダムとイヴを
誘惑した蛇が彼女であるとされたり、
なにかと蛇とは不可分な関係です。
それ故に彼女たち(リリス・リリム)もまた
ラミアと同一視されたのです
旧約聖書におけるリリスについての
記述は、『イザヤ書』の34章14節に
ひとこと夜の魔女とだけありますが、
『イザヤ書』は聖書の三大預言書
(イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書)の
ひとつで、預言者イザヤが神の言葉
を伝えたとする話です。
問題の箇所は、
「荒野の獣はジャッカルに出会い、山羊
の魔神はその友を呼び、夜の魔女は
そこに休息を求め、休む所を見つける」
これだけではリリスについて言及した
とは思えませんが、
夜の魔女=The Night Bird=Lilith
という図式が一般的で『イザヤ書』
が記されたとされる紀元前6世紀頃と、
バビロニアの魔よけの皿
バビロニアの悪魔払いの皿にアラム語の
呪文の文字で囲まれた中央に悪魔の絵
が置かれ、その悪魔として描かれたのが
リリスであり、その昔に、幼くして子供が
亡くなるのは彼女の仕業であるとされて
いた時期ともピタッと符合するわけです。
ここで、Wikipediaを一部参照すれば、
リリス(Lilith)は、本来はメソポタミアに
おける女の夜の妖怪で、「夜の魔女」
とも言われ男児を害すると信じられていた。
聖書の『イザヤ書』におけるリリス
(ヘブライ語ではリリト Lilit)は、夜の妖怪か
動物の一種だった。 ユダヤ教の宗教文書
タルムード及びミドラッシュにおいては、
リリスは夜の妖怪である。
前1950年頃の浮彫(レリーフ)
しばしばアダムの最初の妻とされるが、
この伝説は中世に誕生した。
聖書におけるリリス ― エドムの荒廃に
ついて書いている『イザヤ書』34章14節
は、旧約聖書のなかで唯一、「リリス」に
ついて言及している箇所である。
「荒野の獣はジャッカルに出会い、山羊
の魔神はその友を呼び、夜の魔女は
そこに休息を求め、休む所を見つける」
リリスはバビロン捕囚によって
ユダヤ人たちの間に知られるようになった
夜の「女神」であるとする説もあるが、
リリスが妖怪というよりは「女神」で
あるという証拠はない。
『イザヤ書』の成立は前6世紀頃で
、この時期にはむしろバビロニアの妖怪
であるリリトゥが言及されている時期と
一致している。
また、リリスはヨタカであるとも ・・・
七十人訳聖書は適切な訳語がなかった
のか、リリスをオノケンタウロス
(onokentauros)と翻訳している。
前のほうにある「山羊の魔神」も
ダイモン・オノケンタウロス
(daimon onokentauros)と訳されている。
この節におけるその他の部分について
は除外されている。
教父ヒエロニムスは「リリス」
を「ラミア」と翻訳した。
「ラミア」はホラティウスによる
『詩の技法』(340)にみられる子供
をさらう鬼女であり、ギリシャ神話では
リビュアの女王でゼウスと結婚した。
ゼウスの妻である女神ヘーラー
は、ゼウスに無視されるようになって
からラミアの子供たちを奪った。
それ以来、ラミアは他の女性の子供
を奪う怪物になってしまった。
夜の魔女リリスと半人半蛇のラミア
とあります。
リリスをラミアと翻訳したのは
他ならぬルシファーを堕ちた明星
(堕天使)と解したヒエロニムス
だったのですが、
聖ヒエロニムス
そのヒエロニムスの苦悩する姿
を圧倒する筆致で描いたのも ・・・
それをまた未完として残したことも、
レオナルド・ダ・ヴィンチにとって、
何かいわく言い難い理由(わけ)でも
あったのでしょうか
(思わせぶるねぇ)
その見解については割愛しますが、
紀元前330年頃のセイレーン像
「リリス」や「ラミア」の魔力は
『オデュッセウスとセイレーンたち』
ジョン・ウイリアム・ウォーターハウス
その美しい歌声で船乗りたちを惑わした
麗しき怪物としての半身が女性で半身
が鳥、のちに魚となるセイレーン、
あるいは、
ライン川の水面に響くローレライの
伝説ともつながるようで ・・・
ハーバード・ジェイムズ・ドレイパー
それと言うのも、
アダムの最初の妻であり、のちには
サタンの妻になったとされるリリス
の複数形をその名前の由来にもち、
『セイレーン』 ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス
彼女の娘たちとして扱われたリリム
(リリン)がサキュバス(夢魔)とされ、
のちにセイレーンのかたちを取る
ようになっていくのも、ある意味において
は当然の流れであって、
『セイレーン』 シャルル・ランデル
数あるバリエーションのなかでも
彼女たちの存在それ自体がモチーフ
としての強烈なる魅力に満ち溢れて
いたからに他ならないわけです。
ところで、
半魚人や人魚を想像上の生き物、
つまるところの「幻獣」や「UMA」
(未確認生物)のカテゴリーに入れて
しまっていいものだろうか
おそらく、
ダ・ヴィンチの答えは「NO」でしょう。
『ダ・ヴィンチの罠 天邪鬼』
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/468.html
でも言ったように、
ダ・ヴィンチが見せられた幻影には
洗礼者聖ヨハネが「半人半魚」の
否、「半神半魚」の「半神人」
としての姿で現れたからです。
結論から言えば、
その正体はメソポタミア(シュメール)で
オアンネスと呼ばれ、ペルシャでは
アプカルル、マリ共和国(アフリカ)
のドゴン族の間ではノンモと称される
「半神人」のことですが ・・・
現在、判明している「オアンネス」
の起源は古く、メソポタミア神話
にまで遡ります。
紀元前1400年の話ということですから
途方もない大昔ですが、
テル・エル・アマルナやアシュールから
出土した紀元前1400年頃の銘板の欠片
に大洪水以前の七賢人の物語が
記されていました。
ダ・ヴィンチの夢ともつかぬ幻では、
賢神エアの使者として人類に文明を
もたらしたとされる七賢人の長が
アダパと呼ばれる「半神人」で
洗礼者ヨハネを名乗ったとか。
海の司教 1531年バルト海にて捕獲とある
そこで、
ヨハネ(Johannes)の名前の由来
と言うか、語源を辿れば、ヘブライ語で
「主は恵み深い」の意味、ヨーハーナーン
(ヨカナーン)が、その原形とされますが、
「半神人」であるオアンネスに
、その源泉を見つけることも可能です。
オアンネスからヨハンネスに
さらにヨハネスを経て、ヨハネへと
転訛したとも考えられるわけで、
要は、こういうことです。
ユダヤ(Jews)の、エホバ(Jehovah)の、
ヨシュア(Joshua)つまりイエス(Jesus)の
すなわち、
J+oannesJoannesJohannes
ということですね
さてさて、
ジョン・コリアの描いた絵に話を戻せば、
この人魚の如き女性の下半身は魚
ではなく大蛇のそれであって、
大地母神であるガイアの化身に
して聖蛇ピュトンのメタファであり、
昼のリリスであり、母性あふれる
ラミアの姿でもあるわけで、
この少女は人類の母なる最初の
人間(女性)の象徴かもしれません。
もちろん
ジョン・コリアが、そのように意識して
描いたという確証はなく 画題の意図も
制作の動機もインスピレーション
やイマジネーションのもとになって
いるものが何かもわかりませんが、
(画像の一部を加工してあります)
上の3枚の絵には共通するテーマを
見つけることができます。
そうしたスピリチュアル的なエナジーや
パワーが感じられるのは、ダ・ヴィンチの
作品に刺激され誘発された結果であると
思われますが、そのエビデンスたる根拠
も確証も当然のことにありません
それじゃあ、
(ダメじゃん)
ところが、
インスパイアされていたのは彼だけ
ではありませんでした。
同様に、
尊敬してやまないダ・ヴィンチの作品に
仕組まれている「罠」の存在に気づき、
その趣旨や意図に触発されて、同じ目的
やテーマに基づいた作品を秘密裏に制作
していた画家たちがいます。
秘密裏というのは作品ではなく作中での
ディテールにあったわけですが、
たとえば、それは、
ピーテル・パウル・ルーベンスだったり、
『最後の晩餐』 ピーテル・パウル・ルーベンス
フィリップ・ド・シャンパーニュであり、
『エマオの晩餐』 フィリップ・ド・シャンパーニュ
さらには、
ラファエロ・サンティもそうした信奉者
(サポーター)のひとりだったのですが、
『聖チェチリア』 ラファエロ・サンティ
それらが隠されるように描かれている
ことにその意味の重さを感じると同時に、
そこには命の保証と鼎の軽重を
問われかねないような大きなリスクが
潜んでいたのです
次回には、
それらの意味するところをダ・ヴィンチ
の流儀に沿って解剖したいと考えますが、
神託では何と仰せでしょうか
関西出身(阪神人→半神人)だけに
「わしも解剖されるのかのぉ」
「半神半人なの !?」
「半信半疑なのは確かじゃが」
「・・・」
って、おいおい
… to be continue !!
(人魚姫)のヒロイン(主人公)アリエルの
印象が衝撃的だったせいか、
「人魚(マーメード)」という響きには
マイナスのイメージを感じません。
原作であるアンデルセンの『人魚姫』
のような悲しい結末ではなかったからです。
ジュリアン・ムーアが人魚姫アリエル(実写)
を演じた場合の写真家アニー・リーボヴィッツ
(米国)が描く海の世界のイメージ ・・・
そして、
アニメ映画だからということではなく、一般
に人魚を表現するときには、
尾びれが強調されるのが普通です。
「人魚」とは半分が人間で半分が魚、
いわゆる、
半人半魚の「半魚人」でしょうか
どうも少し違うようです。
ヨーロッパでは、上半身が人間で下半身が
魚類の場合に人魚=マーフォーク
(MERFOLK)と言い、なかでも特に若い女性
の人魚をマーメイド(MERMAID)、
男性をマーマン(MARMAN)などと
呼んで区別しているようです。
伝説や物語に登場する人魚の多くは、
このマーメイドのことですね
『人魚』 ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス
「半魚人」は、人間と魚類との中間的
な身体をもつ伝説上の生き物で、
映画『大アマゾンの半魚人』の一場面
二腕二脚でありながらエラや鱗を持つなど
の身体特徴から「水棲人」とも呼ばれ、
人魚の男性同様マーマンと称される
ことが多いようです。
アマゾンの水棲人間と女性の愛の物語
ギレルモ・デル・トロ監督による最新作の
モンスター・ロマンス映画の予告版です。
映画『シェイプ・オブ・ウォーター』
『美女と野獣』系のカテゴリーに
入る異形がゆえの悲哀を感じさせる
ストーリーのようですが、
上半身が人間で下半身が魚類の姿 ・・・
どうやら、
脚のない姿で尾びれのある場合に限って
「人魚」と呼ぶのが普通のようです。
それでは、彼女の場合はどうでしょうか
上半身は人間の若い女性のようですが
、下半身は魚の胴体に尾びれがある
ような、ないような ・・・
少し大きな画像で確認してみましょう。
浜辺での人魚と人間の女の子を
描いたと思われる構図ですが、タイトルは
『The Land Baby』 ジョン・コリア画
『The Land Baby(大地の子)』
若しくは『地上の子』となっています。
つまり主役はこの小さな女の子で
人魚らしき女性は脇役ということです。
それに
この人魚と思しき女性の尾びれも
いまひとつ心もとないというのか、モヤっ
とした感じでハッキリ描かれていません。
この絵の主題が人間の姿をした子供に
あるのなら、この人魚は何の目的で
描かれたのでしょうか
ウォーターハウスの絵の如く『人魚』、
あるいは、『人魚と陸の子供』
とはせずに『The Land Baby』
とした理由は何でしょうか
それは、
この女性が人魚ではないからです。
それでは、
いったい誰、いや、何者なのでしょう
ヒントは作者であるジョン・コリアが
描いた別の作品にありました。
『Lilitn with Snake』
聖書においてはアダムの最初の妻
で夜の魔女と呼ばれたリリスであり、
ギリシャ神話ではポセイドンの孫に
あたる古代リビュアの女王ラミアです。
リリスについては、このシリーズでの
初期のページにて取り上げていますので
まずは、そちらを参照してみてください。
『ダ・ヴィンチの罠 リリス』
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/407.html
『アダムとイヴのへそ <5>』
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/243.html
『アダムとイヴのへそ <6>』
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/244.html
『アダムとイヴのへそ <7>』
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/245.html
『アダムとイヴのへそ <8>』
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/246.html
さて、
海神ポセイドンの息子ベーロス
は自身の母であるリビュエーとの間に
娘をもうけます。
この女性がのちにリビュア(現在のリビア)
の女王となるラミアでした。
ギリシャ神話のラミア
ギリシャ神話に登場する「ラミア」は
海の神ポセイドンの孫として生まれた
古代リビュアの女性(女王)で、その美貌を
ゼウスに見初められ、契りを交わした為に
正妻ヘラの怒りを買ってゼウスとの間に
もうけた子供をすべて失ってしまいます。
しかも、
ヘラの呪いはそれだけでは終わらずに
子供を失った悲しみから常に逃れられない
ように、眠りさえも奪ってしまうのです。
彼女を不憫に感じたゼウスはラミアが
休めるようにと思い 目を取り外して眠れる
ようにしてあげますが、
『蛇女ラミア』 アンナ・リー・メリット
子供のいる他の母親たちを羨むあまり、
彼女は他人の子供を食べるようになった
とか、生まれたばかりの子を喰らうという
おぞましい呪いのせいで、上半身が女性
で下半身が蛇という恐ろしい怪物に
夜の魔女リリスと半人半蛇のラミア
変身しまったとも言われています。
転じて、
『ラミアと戦士』 ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス
その苦悩のあまりに子どもを喰らう
女怪物と化したラミアは、同時に
『漁師とセイレーン』
男を誘惑する淫魔ともされています。
聖書に登場する魔女として有名なのは、
リリスやリリムですが、その起源は
キリスト教の成立期よりも、ずっと以前で、
古代のイスラエル(ヘブライ)から、さらに
古代バビロニアまで遡ることになります。
彼女らは妊婦や男の子、男の赤ん坊を
狙う悪霊とされていたわけですが、
古代ギリシアの時代には「ラミア」や
「エンプーサ」と呼ばれ、キリスト教
における聖書では、それを「ラミア」
と訳したわけです。
『原罪と楽園追放』 ミケランジェロ
またリリスは蛇と一緒に描かれる
ことが多く、楽園でのアダムとイヴを
誘惑した蛇が彼女であるとされたり、
なにかと蛇とは不可分な関係です。
それ故に彼女たち(リリス・リリム)もまた
ラミアと同一視されたのです
旧約聖書におけるリリスについての
記述は、『イザヤ書』の34章14節に
ひとこと夜の魔女とだけありますが、
『イザヤ書』は聖書の三大預言書
(イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書)の
ひとつで、預言者イザヤが神の言葉
を伝えたとする話です。
問題の箇所は、
「荒野の獣はジャッカルに出会い、山羊
の魔神はその友を呼び、夜の魔女は
そこに休息を求め、休む所を見つける」
これだけではリリスについて言及した
とは思えませんが、
夜の魔女=The Night Bird=Lilith
という図式が一般的で『イザヤ書』
が記されたとされる紀元前6世紀頃と、
バビロニアの魔よけの皿
バビロニアの悪魔払いの皿にアラム語の
呪文の文字で囲まれた中央に悪魔の絵
が置かれ、その悪魔として描かれたのが
リリスであり、その昔に、幼くして子供が
亡くなるのは彼女の仕業であるとされて
いた時期ともピタッと符合するわけです。
ここで、Wikipediaを一部参照すれば、
リリス(Lilith)は、本来はメソポタミアに
おける女の夜の妖怪で、「夜の魔女」
とも言われ男児を害すると信じられていた。
聖書の『イザヤ書』におけるリリス
(ヘブライ語ではリリト Lilit)は、夜の妖怪か
動物の一種だった。 ユダヤ教の宗教文書
タルムード及びミドラッシュにおいては、
リリスは夜の妖怪である。
前1950年頃の浮彫(レリーフ)
しばしばアダムの最初の妻とされるが、
この伝説は中世に誕生した。
聖書におけるリリス ― エドムの荒廃に
ついて書いている『イザヤ書』34章14節
は、旧約聖書のなかで唯一、「リリス」に
ついて言及している箇所である。
「荒野の獣はジャッカルに出会い、山羊
の魔神はその友を呼び、夜の魔女は
そこに休息を求め、休む所を見つける」
リリスはバビロン捕囚によって
ユダヤ人たちの間に知られるようになった
夜の「女神」であるとする説もあるが、
リリスが妖怪というよりは「女神」で
あるという証拠はない。
『イザヤ書』の成立は前6世紀頃で
、この時期にはむしろバビロニアの妖怪
であるリリトゥが言及されている時期と
一致している。
また、リリスはヨタカであるとも ・・・
七十人訳聖書は適切な訳語がなかった
のか、リリスをオノケンタウロス
(onokentauros)と翻訳している。
前のほうにある「山羊の魔神」も
ダイモン・オノケンタウロス
(daimon onokentauros)と訳されている。
この節におけるその他の部分について
は除外されている。
教父ヒエロニムスは「リリス」
を「ラミア」と翻訳した。
「ラミア」はホラティウスによる
『詩の技法』(340)にみられる子供
をさらう鬼女であり、ギリシャ神話では
リビュアの女王でゼウスと結婚した。
ゼウスの妻である女神ヘーラー
は、ゼウスに無視されるようになって
からラミアの子供たちを奪った。
それ以来、ラミアは他の女性の子供
を奪う怪物になってしまった。
夜の魔女リリスと半人半蛇のラミア
とあります。
リリスをラミアと翻訳したのは
他ならぬルシファーを堕ちた明星
(堕天使)と解したヒエロニムス
だったのですが、
聖ヒエロニムス
そのヒエロニムスの苦悩する姿
を圧倒する筆致で描いたのも ・・・
それをまた未完として残したことも、
レオナルド・ダ・ヴィンチにとって、
何かいわく言い難い理由(わけ)でも
あったのでしょうか
(思わせぶるねぇ)
その見解については割愛しますが、
紀元前330年頃のセイレーン像
「リリス」や「ラミア」の魔力は
『オデュッセウスとセイレーンたち』
ジョン・ウイリアム・ウォーターハウス
その美しい歌声で船乗りたちを惑わした
麗しき怪物としての半身が女性で半身
が鳥、のちに魚となるセイレーン、
あるいは、
ライン川の水面に響くローレライの
伝説ともつながるようで ・・・
ハーバード・ジェイムズ・ドレイパー
それと言うのも、
アダムの最初の妻であり、のちには
サタンの妻になったとされるリリス
の複数形をその名前の由来にもち、
『セイレーン』 ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス
彼女の娘たちとして扱われたリリム
(リリン)がサキュバス(夢魔)とされ、
のちにセイレーンのかたちを取る
ようになっていくのも、ある意味において
は当然の流れであって、
『セイレーン』 シャルル・ランデル
数あるバリエーションのなかでも
彼女たちの存在それ自体がモチーフ
としての強烈なる魅力に満ち溢れて
いたからに他ならないわけです。
ところで、
半魚人や人魚を想像上の生き物、
つまるところの「幻獣」や「UMA」
(未確認生物)のカテゴリーに入れて
しまっていいものだろうか
おそらく、
ダ・ヴィンチの答えは「NO」でしょう。
『ダ・ヴィンチの罠 天邪鬼』
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/468.html
でも言ったように、
ダ・ヴィンチが見せられた幻影には
洗礼者聖ヨハネが「半人半魚」の
否、「半神半魚」の「半神人」
としての姿で現れたからです。
結論から言えば、
その正体はメソポタミア(シュメール)で
オアンネスと呼ばれ、ペルシャでは
アプカルル、マリ共和国(アフリカ)
のドゴン族の間ではノンモと称される
「半神人」のことですが ・・・
現在、判明している「オアンネス」
の起源は古く、メソポタミア神話
にまで遡ります。
紀元前1400年の話ということですから
途方もない大昔ですが、
テル・エル・アマルナやアシュールから
出土した紀元前1400年頃の銘板の欠片
に大洪水以前の七賢人の物語が
記されていました。
ダ・ヴィンチの夢ともつかぬ幻では、
賢神エアの使者として人類に文明を
もたらしたとされる七賢人の長が
アダパと呼ばれる「半神人」で
洗礼者ヨハネを名乗ったとか。
海の司教 1531年バルト海にて捕獲とある
そこで、
ヨハネ(Johannes)の名前の由来
と言うか、語源を辿れば、ヘブライ語で
「主は恵み深い」の意味、ヨーハーナーン
(ヨカナーン)が、その原形とされますが、
「半神人」であるオアンネスに
、その源泉を見つけることも可能です。
オアンネスからヨハンネスに
さらにヨハネスを経て、ヨハネへと
転訛したとも考えられるわけで、
要は、こういうことです。
ユダヤ(Jews)の、エホバ(Jehovah)の、
ヨシュア(Joshua)つまりイエス(Jesus)の
すなわち、
J+oannesJoannesJohannes
ということですね
さてさて、
ジョン・コリアの描いた絵に話を戻せば、
この人魚の如き女性の下半身は魚
ではなく大蛇のそれであって、
大地母神であるガイアの化身に
して聖蛇ピュトンのメタファであり、
昼のリリスであり、母性あふれる
ラミアの姿でもあるわけで、
この少女は人類の母なる最初の
人間(女性)の象徴かもしれません。
もちろん
ジョン・コリアが、そのように意識して
描いたという確証はなく 画題の意図も
制作の動機もインスピレーション
やイマジネーションのもとになって
いるものが何かもわかりませんが、
(画像の一部を加工してあります)
上の3枚の絵には共通するテーマを
見つけることができます。
そうしたスピリチュアル的なエナジーや
パワーが感じられるのは、ダ・ヴィンチの
作品に刺激され誘発された結果であると
思われますが、そのエビデンスたる根拠
も確証も当然のことにありません
それじゃあ、
(ダメじゃん)
ところが、
インスパイアされていたのは彼だけ
ではありませんでした。
同様に、
尊敬してやまないダ・ヴィンチの作品に
仕組まれている「罠」の存在に気づき、
その趣旨や意図に触発されて、同じ目的
やテーマに基づいた作品を秘密裏に制作
していた画家たちがいます。
秘密裏というのは作品ではなく作中での
ディテールにあったわけですが、
たとえば、それは、
ピーテル・パウル・ルーベンスだったり、
『最後の晩餐』 ピーテル・パウル・ルーベンス
フィリップ・ド・シャンパーニュであり、
『エマオの晩餐』 フィリップ・ド・シャンパーニュ
さらには、
ラファエロ・サンティもそうした信奉者
(サポーター)のひとりだったのですが、
『聖チェチリア』 ラファエロ・サンティ
それらが隠されるように描かれている
ことにその意味の重さを感じると同時に、
そこには命の保証と鼎の軽重を
問われかねないような大きなリスクが
潜んでいたのです
次回には、
それらの意味するところをダ・ヴィンチ
の流儀に沿って解剖したいと考えますが、
神託では何と仰せでしょうか
関西出身(阪神人→半神人)だけに
「わしも解剖されるのかのぉ」
「半神半人なの !?」
「半信半疑なのは確かじゃが」
「・・・」
って、おいおい
… to be continue !!