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透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 侵略者(改)

 「侵略者」、まさに、そんなブログの引っ越し作業の結果、

100を超える記事の画像が表示できなくなり、非公開としました。

記憶を呼び起こしつつ、漸次、復活・再生させるつもりですが、

正直、皆目見当のつかない画像も多々あります。

ダ・ヴィンチの罠 侵略者 - 透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 侵略者 - 透明人間たちのひとりごと

このページの画像は、故あって表示されませんが、連続性を担保する意味合いからも、そのままで公開し、別途、新しく作り直すことにしました。同じ内容ですが、画像はその限...

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 url『ダ・ヴィンチの罠 侵略者』

 上記のように、連続性を維持することは、このシリーズの

重要なファクターですので、時間がかかっても復活・再生を

果たさなければならないのですが、漸くこれで30作目です。

 さてと、それでは、ここからが、

『ダ・ヴィンチの罠 侵略者(改)』

 の記事になります。

 (以下、本文)

 

 19世紀の末にドイツの哲学者 ニーチェ
(1844~1900年)は、人間は自らを超克して
「超人への道」を歩むべきであることを
力説しましたが、


         フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ     

 かの悪名高きナチスの総統ヒトラー
も、21世紀での「超人」出現を、


         アドルフ・ヒトラー  meigen.club

 その発言の中で予告していたようです。

 いわゆる「ヒトラーの予言」とされる
一連の未来予測ですが、

    

 予言の中身については、

 

ヒトラーの予言と福音書 - 透明人間たちのひとりごと

エヴァンゲリオンとは「福音」という意味だそうですが、前回、「ユダの福音書」についてあれこれと考察していたときに、ふと思ったのが「ヒトラーの予言」とされる内容と妙...

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 url『ヒトラーの予言と福音書』 

 を参照してみてください。
 

    珍しい和服姿のヒトラー(日独防共協定時の写真と思われる)出典:irorio.jp

 さて

 
    聖者ピュトン souryudo.com

 聖蛇ピュトンを倒し、デルフォイ
の神託権を奪い取ったアポロンとは


   ベルヴェデーレのアポロン

 一体、いかなる「神」であったのか?

 「超人への道」を主張したニーチェの処女作
『悲劇の誕生』では、

      

 「アポロン的」なる表現方法が
用いられています。

 芸能・芸術の神にして牧羊の守護神であり、
光明の神でもあって、ホメロスの一大叙事詩
『イリアス』においては遠矢の神にして、

予言の神でもあり、古典期のギリシャでは
理想の青年像としてのモデル的存在であって
、太陽神ヘリオスと同一視されるように
なったことから

 理性象徴代表する方便として
「アポロン的」という比喩表現が
採用されたようです。

 

 一方で、ニーチェ対抗軸として

    
  ディオニュソス ミケランジェロ作

 「ディオニュソス的」なる表現
を用意していました。


 ディオニュソスと擬人化された葡萄の木

 デオニュソスは、一般的には「酒の神」
(バッカス)として知られていますが、



 より正確には、葡萄酒と豊穣と酩酊と
不死、そして、演劇の神として知られ、

葡萄の木を見つけ出して葡萄酒の製造法を
見つけたと言い伝えられています。

 後のイメージからは、陽気な酔いどれ
親父のような印象を持ちますが、


         『酔っぱらったシレノス』 ルーベンス画

 それは、ディオニュソスの従者の一人で
外見のすこぶる醜いシレノスのことで、

   
     酔ったシレノスの像


 太鼓腹と獅子鼻をもち、常に酔っている
だらしない姿をした半獣神(半人半馬)の
イメージがそうした誤解を生んだのです。

 しかしながら、実際には、

 
       シレノスと子供のバッカス

 シレノスは大変な賢者であって、予言の
能力を有し、幼いデオニュソスの守役と
して、

 その教育にあたっていたとされています。

 本来の「デオニュソス」は黄金の髪を
靡かせた青年の姿をしているのです。


      ディオニュソス(バッカス)

 壮々たる古代ギリシアの神々の中でも
オニュソスほどに我々の関心を喚起
させるようなは他にはいないのでは
ないかと思えるのですが ・・・


     『ケレスとバッカスがいないとヴィーナスは凍えてしまう』
          ピーテル・パウル・ルーベンス(1613年)


 ニーチェが「理性」と「自制」の象徴
として太陽神アポロンを選出し、

 一方では対照的な存在として、

 規律の境界からはみ出るほどに野性的
で計り知れないパワーを有していた酒神
オニュソス(若いゼウスの意味)を
「理性」と「自制」とは対極の放縦的な
「激情」と「陶酔」を象徴するものとし
て対比・選抜したわけです。

 VS
   アポロン        ディオニュソス

 数多(あまた)いる哲学者の中でも特異
なのがニーチェで「神は死んだ」や「超人」
といった概念はよく知られるところのもの
ですが、

 その反キリスト的で、反道徳的な思想は、
哲学者としては異端であり、異質であると
しか言いようがありません。

 ただ、

 彼はキリスト教や道徳を批判することを
目的としていたわけではなく、我々、人類が
既成の枠から脱して、「超人化」すべきで
あることを主張したに過ぎないのです。

 ニーチェの言う「超人」のモデルは
言外にデオニュソスのことを指している
のかもしれませんね。

 少なくともそこに通底する何かを感じます。

『悲劇の誕生』を一部引用すれば、      

      

 芸術は、アポロン的な造形的芸術と
音楽というディオニュソス的非造形
の芸術があって、この2つの要素(衝動)が
ギリシャ的「意志」の形而上学的奇跡に
よって夫婦としてあらわれる時がやってくる。

 この結婚ディオニュソス的
あると同時にアポロン的でもある芸術
を生み出すようになる。

 要は、このことを指して、

『悲劇の誕生』だとしたわけですが、

 さらに引用を続けると、

 ギリシャの芸術は、「アポロン的なもの」と
「ディオニュソス的なもの」という2つの要素
のせめぎ合いによって展開してゆく。

 VS
   アポロン         ディオニュソス

 それは

 オスとメスによる生殖のようなもので、
生物の場合は2つの異質なものが絶えず
せめぎ合い、両者の和合はしかるべき
ときに定期的にしか訪れないわけだが、

 芸術もそれに似たところがある。

 そうした芸術の特質を、ただ単に論理的
に理解するだけでなく、ずばり直観的にも
把握できるようになれば、美学は大きく
前進することになるだろう。

 とか言われても 太陽神と葡萄酒の神が
オスとメスで、その対極にあるモノ同士が
結婚して和合すると、何故に、美学が前進
するのか

 今ひとつ分かり難いのです

 そもそも、

 どちらがオスで、どちらがメスかも
大いなる問題となるし、

 理知的で外見上も男神随一の美男子
とされ、竪琴の名手にして、弓の達人で
もあり、文武両道にして容姿端麗という
ギリシャ人の理想であるアポロンは、


      竪琴を奏でるアポロン

 本当にニーチェが見立てた通りの「知性」と
「自制」を象徴し、代表するような「神」
だったのでしょうか

 彼の見立ては、


 『リュートを弾くアポロン』 ブリトン・リピエール

 端正な容姿の光明神で形式美と秩序を
重んじる「ロココ様式」のアポロンと、
酩酊・狂乱の異端神で野生的で豪放なる
「バロック様式」のデュオニュソスと 


      『バッカス祭り』 ニコラ・プッサン画

いうことになるらしいのですが、内実は

その逆であって ・・・

 小生にはゼウスに負けず劣らずの
女好きなくせに、恋愛運はなく、内面的
にも見かけほどには、明瞭でも快活でも
なく、短気で思慮にも、寛容さにも欠け
、不実で陰険で、ズル賢く立ち回るには
間抜けなところのある単に色男で優男な
だけのアポロンにしか思えません。

 オイオイ(・_・;)

 ニーチェは、ディオニュソス
陶酔的・激情的芸術を象徴する「神」
であるとして、アポロンとは対照的な
存在であると考えたわけですが、


       『ディオニュソス』ニコラ・プッサン画

 彼の考察にキリスト教的価値観が付随
されると、一見では優雅で知的に見える
アポロンは「聖」であって、粗野で
ガサツに映るディオニュソスの方
は「邪」にして、「悪魔的」であると
する誤謬が生じがちで、比喩としての
選定に疑問を禁じ得ません。

 「理性」「情動」という全く
正反対の形容に対比させようとする意図は
十分に理解できるとしても、    


    『アポロンとダフネ』 ジーン・エティエン・リオタール

 どう解釈しても ・・・

 アポロンに高潔なるイメージは望むべく
もなさそうですし、

 
  『アポロンとダフネ』 ベルニーニ

 ディオニュソスを激情的とするのも
どうかと思われます。

 ディオニュソスの場合に情動の根拠と
なり得る「煽情的」な振舞いのもとは
周りを取り巻いている好色の象徴である
サテュロス(半人半獣の精霊)や

  
『ニンフとサテュロス』 ブグロー(1873年)

 野生的な女性であるマイナデス
(マイナスの複数形)のイメージが

 先行して一人歩きしているわけで、

 
『豹に乗ったマイナス』 ブグロー(1855年)

 ニーチェの両者に対する位置づけ
には疑義を挟まざるを得ません。


          『バッコスの信女』 ジェローム画

 むしろ

      
 『ディオニュソスとキタラ―を持つアリアドネ』

 繊細で心優しいのは、アリアドネの物語
に見るまでもなく、ディオニュソス
の方なのかもしれないのですから ・・・


       『酒神ディオニュソスとクレタ島のアリアドネ』

 要するに、

 アポロンも、ディオニュソスにしても、
その属性を明確に切り分けられるような
キャラクターではなく、

 両者ともに牧畜(牧羊)と関わりがあり、
音楽や演劇などの芸能にしても、然りだし、
むしろ、神々のなかでは最も近しい二柱で
あるとさえ言えるわけで、

 両者の違いは容姿容貌の美醜に関する
見解の相違と、奉られている場所や環境
(神殿か森か)の違いくらいで、

 互いに共通する要素を見つけることの
ほうが容易いと思われるくらいです。

 実際に、
 
 アポロンが留守にする冬の時期の
3カ月間、デルフォイの主(あるじ)で
いるのはディオニュソスなのです。

 残念ながら、 


 『デルフォイの巫女』 ジョン・コリア

 その間には神託は行われませんが、
それだけ ディオニュソス
人々に慕われ信仰されている証左で
あったと言えるでしょう。

 彼には出生の秘密とも言うべき物語と
オリンポス十二神の一柱へと加えられる
ようになるまでの道程におけるサクセス
ストーリーが用意されていますが、


    オリンポス十二神

 それもギリシャ社会に受け入れられる
ための布石だったのかもしれません。

 ここではそれらの物語は割愛しますが、

 一番遅くギリシャに迎え入れられたと
されるのがディオニュソスである
と考えられるわけで、

    
     雷を持つゼウス像

 主要なる 神々 ・・・

   
    正妻ヘラと王座に座すゼウス

 いわゆるオリンポスの十二神のうちで
確実にインド・ヨーロッパ語としての解釈
が可能なのは「日中の光=大空」
意味する語に由来する主神ゼウスだけ
であって、


   出典:matome.naver.jp


            出典:search.yahoo.co.jp

 ギリシャを代表するようなアポロン
でさえ、ギリシャ語としては解釈できず、

    
 
 大方の「神々」の名称は先住民から
受け継がれた大いなる名前であったと
思わざるを得ないわけです。

 つまり、何が言いたいのかと言えば、

 生粋のギリシャ生まれの「神」
思われたアポロンでさえ、他地域
(よそ ➡ 異世界)からの侵略者たち


       画像元: shanti-phuia.net

 の手によって、土着の「神」が習合

された結果としてのプロセスであって、

  そのことは、



 デルフォイの地がアポロンに習合された
(侵略者たち)によって、蹂躙、略奪
されたことを意味するわけで、言わば、


         ドラコニアン 画像元:2seesaa.net

 その先住民こそが、聖蛇ピュトン(竜)


       画像元:shanti-phuia.net

〝ガイア・ティターン神族〟なわけです。  

 さて、

 生きていくうえで、必要のないものまでを
「持っていないと不幸」であると
されてしまうような ・・・

 すなわち、物質至上主義経済で成り立つ
貨幣が絶対の世の中の仕組みが作られる
キッカケのキッカケ、その端緒の端緒が、

 アポロンによるデルフォイにおける利権
(神託権)の収奪に始まったと考えると、

 
 『デルフォイの巫女』 ジョン・コリア画

 この絵画の持つ意味の重さが判ろうと
いうものと、前回、申し上げましたが、

 つまり、

 この三脚の椅子の脚に彫刻された謎の
三本指の肢のメタファが、アポロンに

   

 習合される以前からデルフォイの地を
管理・守護していた

 聖蛇(竜)ピュトン(ガイア)であり、

 テミスであり、ポイベでもあるという
ことです。

symbol2 デルフォイの神殿にてアポロンの神託
が行われるようになった顛末については、

ダ・ヴィンチの罠 三本指(改) - 透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 三本指(改) - 透明人間たちのひとりごと

「三本指」、まさに、そんなブログの引っ越し作業の結果、100を超える記事の画像が表示できなくなり、非公開としました。記憶を呼び起こしつつ、漸次、復活・再生させるつも...

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 url『ダ・ヴィンチの罠 三本指(改)』

 を参考にしてください。

 ところで、三本指の彫刻は

 俗に「獅子足」と呼ばれるもので
アンティーク家具や装飾台の脚などに、
まま見られるものですが、

 この場合には、

 聖蛇ピュトン(竜)の肢を象ったのが、

ジョン・コリアの『デルフォイの巫女』
(ピュティア)が座る三脚椅子の爪先に
彫り込まれた三本指の肢であり、


   『デルフォイの巫女』三脚肢(三本指) ジョン・コリア omochi-art.com  

 『デルフォイの巫女』では、

 聖蛇ピュトン(竜)と、その流れを汲む
ティターン神族を無意識のうちに追慕する
かたちになっているわけです。


   記憶のイメージ natgeo.nikkeibp.co.jp

 それは意識的に想起されないままに
我々人類の脳裏の奥深くに刻印された
遥か遠い昔の記憶の断片であって、

 そのことは、

 ダ・ヴィンチの『受胎告知』における



 フクロウがあしらわれた書見台の脚に
彫刻された三本指のうえに、



 そっと添えられているに始まり、



 ルーベンスの『最後の晩餐』では


 『最後の晩餐』 ピーテル・パウル・ルーベンス
       up_slow    up_slow
 ユダが座る椅子の脚にが咥える骨を
思わせるが如くに、

 また、

 シャンパーニュの『エマオの晩餐』

 
 『エマオの晩餐』 フィリップ・ド・シャンパーニュ
          up_slow
 ではイエスの足もと近くにある食卓の脚が
子猫を襲うが如くに、

 さらに、そのシャンパーニュが描き出す
『アウグスティヌス肖像』での


 『アウレリウス・アウグスティヌの肖像』
    up
 書見台の脚に見られる三本指

 といった具合に、無言の伝播として
継承され描き続けられてきたのですが、

 その「罠」真意に気づく者は
描いた本人も含め、極々少数の一握りの
人々に限られていたのでした。

 要は、

 「獅子足」が描かれているからと
いって、そこに意図があるわけではなく

 問題は、見せ方としての寓意と隠し方
のディテールなのです。

 したがって、

 『デルフォイの巫女』を描いた
ジョン・コリアにしても、どこまでその意図
に気付いていたものやら ・・・

 
      『Lilith with a Snake』

 アダムの最初の妻で、夜の魔女として
恐れられたリリスにしても、


      『The Land Baby』

 この人魚幼女にしても ・・・

 三本指持ち主たちとは
無関係ではありませんが、

 果たして、

 描いた本人もそのことに気づいていた
か否かの確証はどこにもありません。

 次回以降において、

 ルーベンスやシャンパーニュの作品と
ともにそれらの真相について解説したい
と考えていますが、

 こちらもどうなることやら ・・・  

     
      (なんでやねん)

  ところで

  わしとアンタなんじゃけど

  お互いに侵略せんように

  それぞれの正しい立ち位置を

 「わしらは気づいておるかのぉ」

 

 そだねー、カーリングのように
カール(旋回)しないようにねー

  

「そだねー」てか !! 

 でも、一応、

 デルフォイでの神託を ・・・
 
    
  おいおい (^▽^;)(^^ゞ  


     『荒野の聖ヨハネ(バッカス)』

 ひょっとして、

   ディオニュソス!?

     
     『洗礼者聖ヨハネ』部分 1513-1516年  

 

  それはそうと、

 『侵略者』として知られるヒトラー

    

 ウクライナ戦争(侵攻)におけるプーチン

「歴史を繰り返すな」と訴えるスペインでのデモのプラカード NACHO DOCEーREUTERS newsweekjapan.jp 

ものの見事に「罠」に嵌まったようなもの

だけど、そんな話を信じる人は少数だろうな!? 

        

 … to be continued !!

コメント一覧

小吉
なんだか難しい話でよくわからないぞ!

ところで本当にヒトラーとかプーチンは悪なのだろうか。

バイキンマンが「悪には悪側の正義がある」とかなんとか言っていたけれど、悪とされる人たちの正義について知りたいですね。
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