このページの画像は、故あって表示されませんが、
連続性を担保する意味合いからも、そのままで公開し、
別途、新しく作り直すことにしました。
同じ内容ですが、画像はその限りではありません。
新たなページは、
(以下、本文)
一本の魔笛が奏でる奇妙なメロデーに、
世界中の国々の人々がこうもやすやすと
まるで蜘蛛の巣に絡め捕られるかのよう
に踊らされてしまうとは ・・・
『魔笛』イメージ l-tike.co
一体、何たる事態(コロナ禍)なのか
新型コロナウイルス(COVID-19)
この騒動(プランデミック)を見るにつけ、
大きな嘆息とともに、悲しみの淵に沈んで
いるのは レオナルド・ダ・ヴィンチなのかも
しれません。
ふぅ~む ・・・
ところで、
「レオナルド・ダ・ヴィンチの作品の構成
が、プロテスタント的再構築(宗教改革)
ではないキリスト教的世界観の脱構築
に、最終目標があったとする方向性での
推理」を、次回において展開してみたい
と 先の『次元枠』にて申し上げました。
知ってか知らずか、おそらくは気づいて
いないのだろうと思われるのですが、
サルバドール・ダリは、ダ・ヴィンチから
何らかのメッセージを受け取っていた
のではないかと思われるほどに「罠」
の解析における補助線的な役割を担う
ような作品を数多く残しています。
サルバドール・ダリ
それらはキリスト教的世界観を現代的な
タッチで表現していますが、妙に「罠」
の構造や組み立てにマッチするスタイルで
色濃く表象されているようです。
フリー百科事典
『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、
自分の制作方法を 「偏執狂的批判的
方法 (Paranoiac Critic)」と称し、写実的
描法を用いながら、多重イメージなどを
駆使して夢のような作品(主に風景画)
を描いていたダリでしたが、
『十字架の聖ヨハネのキリスト』部分 archives.bs-asahi.co.jp
第二次大戦後にはカトリックに帰依し
宗教画を連作するようになります。
『イエスによるキリストの昇天(ピエタ)』 www.amazon.co.jp
そんなダリのキリスト教的宗教作品の
数々と「ダ・ヴィンチの罠」における
構造上の類似点とを相互に比較・検証し
ながらキリスト教的世界観が放つ虚構
からの『脱構築』についての思索を
深めてみたいと考えますが、
その前に、
2次元の目で捉えた対象物を脳の機能
が勝手に補正操作をして 3次元(3D)の
世界を見せているように、
脱次元イメージ(iStock.com)itmedia.co.jp
思考実験的に、2D以上の「脱2D」
すなわち、「脱次元」を目標において、
新たな『次元枠』を模索しているのが
「ダ・ヴィンチの罠」における特徴
のひとつだということを、まずは 始めに
ご理解していただきたいと思います。
さて、
サルバドール・ダリの作品については、
『ダ・ヴィンチの罠 継承者』
においても、いくつか紹介していますが、
記事の一部を引用してみましょう。
数々の奇行と逸話で名を馳せたダリは、
フロイトの精神分析や哲学書を読みあさり、
幻覚や夢などにおける錯乱的な精神心理
を独自の写実手法で捉えた超現実主義の
画風で知られていますが、
『記憶の固執』(1931年)
ダリの代表作『記憶の固執』での
ふにゃふにゃのやわらかい3つの時計は、
それぞれに異なる時刻を示しています。
それを現在・過去・未来の象徴だろうと
想像するのは鑑賞者の勝手でしょうが、
問題は4つ目の時計であろうと思われる
オレンジ色の懐中時計の存在です。
『もっと知りたいサルバドール・ダリ』村松和明著の表紙
DALIの文字のⅮの上にある一品ですが、
リューズ(竜頭)が見えるので懐中時計だと
思いますが コンパス(方位磁針)の可能性
もゼロというわけではではありません
表面に屯(たむろ)する蟻のように見えて
アリではないナノテクノロジーで開発された
超機械的な異物 ・・・
『記憶の固執』部分
何千ものナノ・マシンが連動して機能する
ひとつの機械生物(昆虫型のミニロボット
やマイクロ・ロボット)たちの集まりのように
見えなくもありません。
だとすると、
未来世界を先取りした予言めいた作品
とも言えるわけですが、
美術批評家たちによれば、
これは蟻で、ダリの絵画ではアリやハエ
などの虫は腐敗や死の象徴なのだそうで、
現在の自分から見れば、記憶に残る過去
の時間はゆっくりと崩れて溶け出し、腐敗
した時間の中で残った記憶は「過去の残滓」
あるいは残渣物として、心に留まっただけの
残りカスであって、それが自己を固執させる
深層を形成してゆくのだとか ・・・
ふにゃふにゃの時計はアインシュタインの
『一般相対性理論』を下敷きにして
導かれる空間の歪(ゆが)みや時間の遅れ、
いわゆる時空の歪(ひず)みを取り入れた
もので、互いに時間の異なる 3つの時計は
夢や幻想の中で現在・過去・未来が一体化
している状態を表現したものであると評して
いますが、
まあ、
ダリから言わせれば、徐々に溶けていく
カマンベールチーズを見て「進行する時間」
と「溶けてゆくチーズ」の様子が同じものの
ように思えただけのことで、
あくまでも
そこにヒラメキがあっただけだとか
さすれば、
「ダリの作品は誰にもわからない」
たぶん、
「本人自身にもわかっていない」
ということなのでしょうか
然は然りながら、
それから23年後に描かれた続編となる
『記憶の固執の崩壊』(1954年)
作品では、それぞれの時計が変化・変容
して、懐中時計は消えてなくなり、かわりに
第4の時計がキューブの海に沈んでいます。
これらのキューブは、ハイパーキューブと
呼ばれ、原子と宇宙を象徴し量子論的には
原子核の分裂を表わすものです。
言わば、原子爆弾による核分裂と破滅の
イメージなのでしょうか
少なくとも小生には、ダリの方程式による
計算され尽くした作品であって、
「ダリの作品はダリにもわからない」
のではなく、方程式の変数がダリ以外
には不明なだけなのだと思われます。
いやいや、そうではなく、
そこには遠大で深淵なるダリの世界
があるという人がいるかもしれませんが、
「誰にもわからない」
は少々言い過ぎであって、ダリの奇行は
ハッタリであり、一種異様なパフォーマンス
であったのだと思われます。
「自分の芸術を真に理解できる
のは数学者だけである」
(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
と綴ったレオナルド・ダ・ヴィンチが
仕組んだ、緻密な計算のもとに綿密に設計
され組み立てられた「罠」の重層的
な迷宮に比べると ・・・
ダリのそれは同じような「騙し絵」や
「隠し絵」にしてもそうですが、
『サルバドール・ダリの騙し絵』
誰にでも理解可能な範疇のものであり、
そこが奥深い「謎」を秘めたダ・ヴィンチ
の絵画との大きな相違点かもしれません。
とはいえ、いや、だからこそ、
ダリの作品には誰もが惹かれる魅力が
あるのであって、特にカトリックに入信して
からの宗教画には魅了されるばかりです。
『Christ of Saint John of the Cross』
『十字架の聖ヨハネのキリスト』
ハイパーキューブでつくられた十字架や
『ハイパーキューブの十字架』
そのシンボル(十字架)が故に磔られた
『ハイパーキューブの十字架』
イエス・キリストの磔刑図にしても、
『Crucifixion(磔刑)』
『最後の晩餐』の特異な構図や
『最後の晩餐』(1955年)
正十二面体を模った世界観にしても、
実に興味をそそられる作品なわけです。
ここまでの引用で、ハタと気付かれた
方もいるかもしれませんが、
「んっ !!」
ダリの描くキリスト教(カトリック)絵画は、
まるで、『ダ・ヴィンチの罠』の設計図
や展開図を見るかのようにシンクロします。
『ハイパーキューブの十字架』
たとえば、
ハイパーキューブが象る十字架のは、
原爆による戦争や原発などの登場により、
中心に据えられた地球の荒廃が進み、
「死の惑星」となる未来図をキューブ
の墓碑が象徴しているような構成です。
今日の新型コロナ(感染爆発)の脅威は
自然への挑戦による驕った“人間の欲望”
に対する自然界の「しっぺ返し」なのか
はたまた、増長した“人間のエゴ”が引き
起こした人為的な恐怖なのかは別にして、
出典:kokusai-enkaku-kyoiku.co.jp
つまり、人工的な細菌兵器による謀略説も
含めての人災的な出来事であるにせよ。
要は、
人間のレベルで正否や是非を識別し、正邪
や正誤を判断し、善や悪を論じたとしても、
結局はエゴという枠から抜け出せない以上、
自然破壊にストップがかかるということはなく、
いずれは手痛い「しっぺ返し」を食らわされる
ことになると、そう予見していたと受け取れる
言葉がダ・ヴィンチの手稿に散見されます。
「人間の巧妙さが、自然が創造するものより
も美しくシンプルな、あるいは 正確な発明を
することは決してできない。 なぜなら自然の
女神の創造物には 何ひとつ欠けるところが
なく、何ひとつ過分なものがないからである」
(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
今で言うエコロジー(ガイア理論)の思想
を持っていたダ・ヴィンチは、
「自然は自己の法則を破らない」
要するに、
「法則を破るのは、常に人間だ」
と言いたかったのです。
さて、
環境汚染や自然破壊、急激な気候変動
や資源の枯渇等々、現代社会が直面して
いる諸々の問題は、どれをとっても地球
規模の全世界的な問題で、かつての人類
が経験したことのないものばかりですが、
出典:blog.goo.ne.jp
我らがレオナルド・ダ・ヴィンチも
過去の地球の姿から未来の地球の情景
までを『モナ・リザ』の背景に描写して
自然破壊が引き起こす悲惨なる結末
を警告していましたが、終末思想や
終末預言の解釈には懐疑的でした。
それ故に、人類に対して、
神(サムシンググレート自然)からの
鉄槌が振り下ろされることがあるとしても、
そこに反キリストの存在やサタンなど
の影を見ることはありませんでした。
それは今現代において、現実に体験する
新型コロナの騒動とも共通します。
ひょっとすると我々は何者かが演出する
虚構のパンデミック・シナリオに踊らされ、
振り回されているだけかもしれません
それはさておき、
『ハイパーキューブの十字架』
ハイパーキューブが象る十字架のは、
一見すると、正六面体(立方体)の展開図
そのものですが、
正六面体(展開図) xrea.com
よく見ると何かがおかしいのです
3次元(3D)の遠近法では起こり得ない
構図(有機的結合)での描写が為され、
前正面が2次元(2D)で 奥行きに広がる
3次元(3D)の空間は 明らかに整合性に
欠ける歪みがあって内的必然性の齟齬を
容易に感じさせています。
我々の目に真実は、たった一つだけの
ように見えますが、今、我々に見えている
世界は現実の一部分で、「真実」は一つ
ではないのです。
ダ・ヴィンチは、そうした考えを基本ベース
に数々の「罠」を作品に組み込みました。
この「罠」は、実際に感知可能な現実の
世界とオカルトの世界のほかに 解析能力の
有無、言わばリテラシー(読解力)の優劣
によって、その理解に大きな違いが見られる
という特徴を持っています。
『洗礼者聖ヨハネ』 の鏡絵 deskgram.net
但し、ここでは情報を伝える側のリテラシー
(適切なる表現)は完全に度外視され、むしろ
誤解を生む恐れのあるような微妙なタッチの
描写に終始しています。
これを指して、
『洗礼者聖ヨハネ』 1513-1516年
最近のマス・メディアの報道姿勢を揶揄して
いると受け止めていただいても構いませんが、
それこそが、「罠」としてのダ・ヴィンチの
狙いでもあったのです。
たとえば、もし、仮に、
出典:blog.goo.ne.jp
キリスト(救世主)がイエスではなく、
出典:blog.goo.ne.jp
また、十字架上での贖いの死も、
復活の奇跡もパウロが紡いだ虚構
のドグマ(シナリオ)もなかったとしたならば、
使徒パウロ
果たして、
イエスの足跡 blog.goo.ne.jp
我々の住む世界での歴史や出来事は
どのように変わっていたのでしょうか
ISIS イスラミックステート wikicom
おそらくは劇的に違った景色と空気が
流れていたはずです。
ISIS イスラミックステート Wikipedia
ところで、
『ダ・ヴィンチの罠 展開図』
などで解説したように、
レオナルド・ダ・ヴィンチの作品をジャンル
ごとに4つずつのグループにカテゴライズ
してみたものが下記に示す一覧です。
【女性の肖像画】
『ジネヴラ・デ・ベンチの肖像』
『白貂を抱く貴婦人』
『ミラノの貴婦人の肖像』
『モナ・リザ』
【男性の肖像画】
『サルバトール・ムンディ』
『音楽家の肖像』
『洗礼者聖ヨハネ』
『自画像』
【野外・荒れ野】(背景)
『受胎告知』
『聖ヒエロニムス』
『東方三博士の礼拝』
『アンギアーリの戦い』
【岩場・洞窟】(背景)
『岩窟の聖母』(2作品)
『糸車の聖母』(2作品)
『聖アンナと聖母子と幼児ヨハネ』
『聖アンナと聖母子』
【窓のある作品】
『ブノワの聖母』
『リッタの聖母』
『最後の晩餐』
『カーネーションの聖母』
それぞれのグループには1つずつ下線が
ひかれた作品がありますが、上から順に、
『ミラノの貴婦人』は、両手が隠されていて、
『ミラノの貴婦人の肖像』(1490-96年)
『聖アンナと聖母子と幼児ヨハネ』は、下絵
としてのドローイングであり、
『聖アンナと聖母子と幼児ヨハネ』
『自画像』は、デッサン的な肖像画であって、
『自画像』(1512年頃)
『アンギアーリの戦い』は、失われた幻の壁画、
『アンギアーリの戦い』ルーベンスによる模写
『最後の晩餐』は、第二次大戦による戦禍
の中で破壊されずに残った奇跡の壁画です。
『最後の晩餐』(1495年-1498年)
つまり、
それぞれのグループには 他とは違う要素
を持つ作品が1つずつ存在するということに
なりますが、それが偶然によるものなのか、
そこに何らかの意図が隠されているのか
現時点では、残念ながらわかりません
このジャンル分けしたカテゴリーの中で
【窓のある作品】
『ブノワの聖母』
『リッタの聖母』
『最後の晩餐』
『カーネーションの聖母』
窓が描かれた4つの作品のうちの3つに
聖母子が描かれているのに対し、聖母子
が存在しない『最後の晩餐』が入って
いるのは不自然との指摘がありました。
確かに、『〇〇の聖母』という題名通りに
聖母子だけが描かれる中で、13人の人物
が登場する『最後の晩餐』があるのは
どうにも不釣り合いではあるのですが、
逆を言えば、
『最後の晩餐』は、『最後の晩餐』
ではないのかもしれませんし、人物の中に
聖母子が隠されているかもしれないという
可能性さえ出てくるわけです。
さらに言えば、
ダ・ヴィンチの作品とされる絵画の中には
窓が描かれていない聖母子像があります。
『バクルーの聖母』、『ランズダウンの聖母』
と呼ばれる2作品です。
『バクルーの聖母』と『ランズダウンの聖母』
そして、『〇〇の聖母』と名付けられる作品
だけが複数にわたり描かれているのですが、
作品数の少ないダ・ヴィンチが聖母子だけ
を何枚も描いたのはどうしてなのか
これは、大きな「謎」と言えるでしょう
実は、そこにこそ、キリスト教的世界観から
の脱構築に関する重要なヒントが隠れて
いるのですが、
それはまた、次回での解説といたします。
「えっ !!」
要するに、
今回の記事の内容では、到底なことに
『脱構築』できなかったということね
だから、それは、次回に、
「持ち越しになったんじゃよ」
冒頭でダ・ヴィンチも、
「タメ息ついてるし・・・」
ま、期待してただけに失望しちゃうわね。
しかし、ダ・ヴィンチの場合には、
『魔笛』イメージ l-tike.co
何者かが奏でる魔の笛(コロナ禍)の
音色に踊らされる現代人の不甲斐なさを
嘆いてのことじゃろう
きっと、言い知れぬ
『失望感』に打ちのめされてるのね。
「そ、そうかものぅ ・・・」
・・・ って、おいおい、
それにしても、『ダ・ヴィンチの罠』と
ダリの作品との関連性はどうなったんだ
むむむ ・・・
「キャンセルカルチャー」をキャンセルできるか!
出典:japan.techrepublic.com
今更ですが、
『脱構築』をキャンセルできるか
□
なんちゃってね !!
そうなったら、『失望感』の極みですが、
… to be continue !!
(… to be continued !!)
ココだけの話だけど、本当の聖母子像は
多分、ひとつだけのような気がします。
□
『ミラノの貴婦人の肖像』部分 jugem.jp
この貴婦人の目がそう言っているように
見えるのは小生の気のせいでしょうか