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透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 化け物

 「相対的貧困率」なる指標があります。

 ある社会で一般的と考えられている生活が
できない困窮者の数を表す数値で、

 自由に使えるお金が多い人から順に並べて、
ほぼ真ん中となる人の所得の半分に満たない
所得の総数が、全体に占める割合をいいます。

 その社会で普通と思われる暮らしができない
人の割合といっても、人の価値観が違うように
普通にもさまざまな段階がありますが、

 「貧困」といえば、当然に衣食住に事欠く
ほどの貧しさを指すと考えるのが一般的です。

 それでは衣食住を欠くことがなかったならば、
それは普通と考えられる生活でしょうか。

 たとえば、

 子供の給食費を払えない親とか、修学旅行
にいけない子供などの家庭はどうでしょう。

 節約生活の中で衣食住はなんとかなっても、
公共料金が支払えない場合などですが ・・・

 それは「貧困」とは違うのでしょうか

 以前の

 『ダ・ヴィンチの罠 予定稿』での
 url http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/476.html

 ゴッホを例に挙げれば、

 極貧の炭鉱地域に派遣された見習い牧師の
ゴッホは町の人々のあまりの貧しさにショックを
うけ、衣服から寝具までのすべてを分け与えて
しまい、自分自身はワラの中で寝起きしていた
といいます。

 最低限の衣服しか身に着けずにあばら家の
ような住居に暮らすゴッホの姿に教会は牧師
(伝道師)としての威厳を損なうものとして破門
を言い渡したわけですが、カトリック系ではない
プロテスタントの教会でも、他の宗派や宗教に
しても組織となると形式や権威主義に染まって
しまうのは大同小異なのでしょう

 では、

 この場合のゴッホは「貧困」でしょうか

 聖書(マタイによる福音書19:21)にある
「汝の持ち物を売りて貧しき者に施せ」
を実践したわけですが、牧師としての手当や
給金は貰っていたはずです。

 こうして、

 破門により伝道師の道を絶たれたゴッホは
その後、26歳で画家になる決心をします。


     『夜のカフェ・テラス』(ゴッホ)

 ゴッホで好きなのは、『夜のカフェ・テラス』
や『ローヌ川の夜の星』などの作品ですが、

 
    『ローヌ川の夜の星』(ゴッホ)

 37歳で亡くなるまでの約10年の間に2000枚
以上の絵を描いたものの生前に売れたのは
たったの1枚きりだったとされていますので、

 画業で生計を立てることはできずに、生活は
専(もっぱ)ら弟のテオの仕送りに頼るしかない
完全なるニートでした。

  
  生涯で売れた唯一の作品『赤い葡萄畑』

 そんなニートのゴッホではどうでしょう。

 見習い牧師の時代のゴッホは貧困状態には
ありましたが、困窮する人々と苦しみを分かち
合おうと給料も含め自らの意志で持ち物を分け
与えていたわけです。

 それに対して、

 画家になったとは言え、絵が売れない以上は
「自称画家」でしかないゴッホは、家族で
ある弟に食わしてもらっていたわけですが、

 やはり、「貧困」なのでしょうか

 この場合、どちらも「貧困」とは言い難い
と考える人がいるかもしれません。

 あくまでもゴッホ個人に限定した場合ですが、

 前者は、普通に生活するだけの稼ぎがある
のにもかかわらず、それを自らが放棄している
わけで、現代における相対的貧困者
範疇には当然ながら入りません。

 後者の場合には、絵が売れずに所得がない
ので相対的貧困者該当しますが、

 家族からの援助の他にも、400枚もの浮世絵
をコレクションしていたという事実から判断する
「貧困」とするにはどうにもを傾げたく
なるのが人情でしょう。
 
 しかし、

 そのどちらも生活困窮者であり、現代的にも
当時においても「貧困」というカテゴリーに
当てはまるらしいのです。

 個人的には異論というか、問題があるように
も思うのですが ・・・

 おそらくゴッホは、

 衣服よりも食料よりも浮世絵の方を優先
して買い求めたのだろうし、貧困であること
よりもなによりも、それが彼にとっての大事
であって、価値のあることだったのです。

 今年の8月に

 子供の貧困をテーマにしたNHKのニュース
番組で困窮体験を語った女子高校生を巡り、
「貧困ではない」「捏造だ」などの
書き込みがネット上で噴出し、炎上するという
騒ぎが起こりました。

 ここで現代における「日本の貧困」
ついて語るつもりも、その余裕もありませんが、
お金や物質的なものに第一義的な価値
を置かない人々にとっては、「貧困」という
概念基準もまた違うのだということです。

 古くは古代ギリシャの哲学者ディオゲネスや
現代では米国在住のスエロ氏などですが、

 拙稿 『スエロ氏とディオゲネス』
 url http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/364.html

 を参照してみてください。

 そして、

 ゴッホやダ・ヴィンチにしても第一義にある
価値お金ではありませんでした。

 ゴッホは浮世絵に描かれる日本の自然や

  
 花咲く梅の木(ゴッホ)  名所江戸百景 亀戸梅屋敷

 日本人の暮らしぶりの中に宗教
の何たるかを見出そうとしていました。

    
名所江戸百景 大はしあたけの夕立 雨中の大橋(ゴッホ)

 同様に、
 
 ダ・ヴィンチにとっての価値あるものも、
自然真理探求真実
へのチャレンジでした。

 そして、

 価値ある挑戦のひとつが「罠」
しての『岩窟の聖母』だったのです。


        出典:cardiac.exblog.jp

 前置きが長くなり過ぎましたが、ここからは、

 第3のバージョンとして登場してきた個人蔵
『岩窟の聖母』がダ・ヴィンチの真筆
であるとの前提で話を進めます。

 まずは、

 ルーブル版と第3バージョンとの比較ですが


        出典:cardiac.exblog.jp

 聖母マリアの頭上にある光輪と幼児たちの
足もとに咲く植物(草花の造形)が異なる点と
大天使ウリエルの顔の角度が若干違うように
見えるだけであとはほとんど同じです。

 次いで、

 ナショナル・ギャラリー版との相違ですが、


        出典:cardiac.exblog.jp

 イエスと洗礼者ヨハネが入れ替えられて
それぞれに光輪が付け加えられます。



 さらに十字架の杖と毛皮の衣でヨハネを
特定して、足もとに咲く花を変えています。

 このようにルーブル版の

 聖母マリアに光輪をつけて草花を変えたと
いうことは、ルーブル版に不満だった依頼主
に対し、光輪の存在によってマリアの聖性を
高めることで譲歩しようとしたが、拒否された
ため、已む無くイエスと洗礼者聖ヨハネにも
光輪をつけ、アトリビュートである十字の杖と
毛皮の衣でヨハネとイエスの区別をハッキリ
させることで妥協を図ったとみるのが常識的
な判断ですが、

 それでもなお、拒絶される虞(おそれ)が
あるので、大天使ウリエルの指をさすポーズ
を消し去り、さらに着衣(赤いマント)を変更し
て、花の種類まで意味深に変えているのが
ナショナル・ギャラリー版です。

 要は、

 依頼主である教会に対して譲歩や妥協を
繰り返す過程でルーブル版、第3バージョン
、ナショナル・ギャラリー版の順に制作された
とする考え方を助長するものですが、

 そう考えるのが一番自然で無理がないと
思われるからこそ逆に疑わしいのです。

 ちょうど人類の進化における


    出典:grace-church.or.jp

 ミッシングリンク(失われている絆)を
つなぐものとして捏造されたピルトダウン人
のようなもので、あとづけによる根拠らしき
ものへの誘導操作のように思われます
 
 つまり、

 第3バージョンにおける聖母マリアだけに
付けられた光輪はダ・ヴィンチの筆ではなく
、後世の加筆であり、制作の順序も最初に
第3バージョンが試作され、後にルーブル版
とナショナル・ギャラリー版が同時並行的に
制作されたとするのが本稿での推理です。

 そうでないと、

 第3バージョンにおける大天使ウリエルの
奇怪さがルーブル版に比べて際立っている
点や三本指にみえる謎の右足に異様なほど
膨らむ赤いマントなどの説明がつきません。



 わざわざ光輪をつけて教会に譲歩している
のに天使を奇怪「化け物」のように
表現してしまっては台無しで、元の木阿弥
どころか、それ以下の愚作にして愚策
いうオチまでついてしまいます。

 ところで

 聖母マリアを象徴する植物としては、ユリ
やバラがよく知られていますが、ヒヤシンスや
スイセンも聖母マリアに結び付く植物です。

 ルーブル版にはアイリスやハナシノブquestion2

    
    左がアイリスで右がハナシノブquestion2

 ナショナル・ギャラリー版では合掌をする

    
    左がスイセンで右はバラかも ・・・

 幼児の足もとにはスイセンやバラのような
花のつぼみと花びらが描かれています。

 ちなみに、

 アイリス(イリス)はギリシャ神話における
女神で、旧約聖書での大洪水
のあとで、ノアに対し、もう二度と
再び人類や他の生き物たちを滅ぼすこと
はしないというに懸けた約束
意図しているのかもしれません。

 そのように考えると、ハナシノブは一体
何を、イワカガミやオオアマナは

    
    左がイワカガミで右がオオアマナ

 そして一輪のアネモネに似た花の意味は

    
     アネモネに似た花が一輪question2

 ・・・ と描かれている草花の意味するところ
を知りたくなってきます。

    
     この植物は何でしょうかquestion2

 ひょっとしたら、

 こうした植物の違いにも目を向けることで、
何かしらのをあきらかにするヒント
見えてくるのかもしれませんねpeace

 そこで、

 次回ではダ・ヴィンチ式の「花言葉」
無手勝流に推理してみようと思いますが、


 はてさて、どうなることやら ・・・


 

 『ローヌ川の星の夜』に描かれる
右下の夫婦も、

   

 『赤い葡萄畑』で忙しく働く人たちも、
決して裕福といえるような人々ではないように
思われますがそこに悲壮感はありません。

 貧乏って何でしょう

 「貧困」って、どういうことでしょう。

 ダ・ヴィンチはこう言いました。

 「私を軽蔑するな。
   私は貧乏ではないからな」

 「やたらに沢山のものを
  欲しがる者こそ貧乏なのだ」

 
 そして、『夜のカフェ・テラス』に集う

      

 人たちは普通以上の暮らしをエンジョイ
している人たちなのでしょうか
 

 こうして、資本主義経済の下での世界では、
「格差」という「化け物」がどんどん
拡大して成長していくのです。

 それにしても、

  描く差が拡大して成長する
  とは、ゴッホもダ・ヴィンチも
  『化け物』だったんじゃのぅ」


   

   「化け物はアンタでしょ !!

  「格差ありすぎだし …」




 … to be continue !!

コメント一覧

小吉
 あえて花を変えているということは、なにかありそうですね。
むらさき納言
なにかと考えさせられることの多かった
「化け物」の巻でした。
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