このページの画像は、故あって表示されませんが、
連続性を担保する意味合いからも、そのままで公開し、
別途、新しく作り直すことにしました。
同じ内容ですが、画像はその限りではありません。
新たなページは、
(以下、本文)
ルネサンス期における同時代の仲間たちの
幾人かと後世のひと握りの芸術家たちだけが
『最後の晩餐』でのダ・ヴィンチの告発
の真意に気づき、その意図を自らの作品
にそれとなく残したものと推測していますが、
そのうちのひとりが引きこもりの画家である
ヤコポ・バッサーノであったと思われます。
もちろん一般の人の中にも気づいた人々が
いなかったわけではないでしょうが、彼らには
それを告発したり表現したりするような手段を
持ち合わせていなかったばかりか、その内容
が余りにも衝撃的で禁忌に触れるものだった
が故に黙する以外に方法がなかったのです。
さて、
ヤコポが引きこもりの画家と呼ばれる所以
は故郷から一歩も外へ出たがらなかったこと
によるもので、神聖ローマ皇帝ルドルフ二世
からの首都プラハへの招聘も断るほどで、
神聖ローマ帝国の版図の変遷
当時、ヨーロッパの宮廷に鳴り響いていた
バッサーノ一家の名声が今日これほどまで
に忘れ去られてしまったのには、そのあたり
の事情が絡んでいるかもしれませんね
というのも、
ヤコポ・バッサーノは1510年頃に生まれて
1592年に亡くなりますが、当時の人にしては
かなりの長生きなのです。
にもかかわらず、彼の生涯において故郷
であるバッサーノ・デル・グラッパから外に
出たのはわずかに2回だけとされています。
ヤコポ・バッサーノの肖像
1回目は 1533年のヴェネツィアの高名な
ボニファーツィオ・デ・ピターティの工房での
短期滞在と2回目が 1577年のヴェネツィア
の元首であるセバスティアーノ・ヴェニエル
の肖像画制作のための滞在のみで、後は
故郷から一歩も外に出なかった引きこもり
のオタッキーな画家だったようなのですが、
このオタッキーな感性があったればこそ
ダ・ヴィンチの巧妙な「罠」の存在に
気づいたとも言えなくもありません
そして、
この1回目のヴェネツィア短期滞在の折
に足を延ばしてミラノにあるダ・ヴィンチの
『最後の晩餐』を見に行ったのでは
ないかと推理したわけなのですが・・・
今回は、
ヴェネツィアを出てミラノに赴いた際に、
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院を
訪れたヤコポ・バッサーノが、ダ・ヴィンチの
『最後の晩餐』を観たことがキッカケ
で引きこもりになってしまったとの前提で
話を進めて参りたいと思います。
実はこの時に彼は知ってしまったのです。
ダ・ヴィンチの大いなる罠の秘密を・・・
彼はユダとされる人物が他の使徒たち
と同列に配置(遇)されていることに驚きを
覚えたのと同時に、この銭袋を握る人物が
本当にユダなのであろうかという疑念
に駆られ、それが頭から離れなくなります。
ひょっとして、このユダなるモデルは
ダ・ヴィンチ自身の姿ではなかろうかと ・・・
その疑念と秘密を一言で表現すれば、
『聖書』の嘘であり、虚構の物語
の主役のひとりであるイエスを裏切り、
告発する人物としてのユダを自分自身
に重ねていたのではないかという思いです。
ヤコポ・バッサーノは、
自身をユダに見立てたとするダ・ヴィンチ
のメタファを『エマオの晩餐』 Ⓑ
における身じろぎひとつしない座った姿勢の
『エマオの晩餐』Ⓑ
ままの猫にも見える子犬の中に暗示
すると同時に、ヤコポ自身も昏迷と錯乱の
なかで動こうにも動けぬままに凝り固まる
自分の姿を、そこに凝縮・投影させて
いるように思えてならないのです。
『エマオの晩餐』Ⓑ 犬
故郷のバッサーノ・デル・グラッパに戻った
ヤコポは思案に暮れる日々を過ごします。
あの日あの時に、壁画の前で受けた あの
立ち眩むような衝撃の映像は何だったのか。
ヤコポの目には壁画のなかの人物たちが
何かを訴えるように動き出し 耳には執拗に
語りかける彼らの声が聞こえていたのです。
バルトロマイが、ペテロが、ユダが、ヨハネ
が、そして、大ヤコブとともにトマスの悲痛な
叫びが決定的な言葉を告げたのでした。
「裏切者はユダではない」
「私の目の前にいるこの男だ」
ダ・ヴィンチはイエスが、メシアとして
の存在を世に知らしめるためにユダと
いう名のひとりの弟子を見込んで悪役に
仕立て上げ、裏切者の汚名を着せて、
生贄として捧げたと考えていましたが、
出典:www.lets-bible.com 出典:shanti-phuia.net
その考えをヤコポに告げたのはユダに
扮した壁画の中のダ・ヴィンチの声でした。
戸惑いと逡巡のなかで、ヤコポは
『エマオの晩餐』Ⓐ 『エマオの晩餐』Ⓑ
2種類の『エマオの晩餐』ⒶⒷの
制作に着手します。
『エマオの晩餐』Ⓐでは、
『エマオの晩餐』Ⓐ 猫
ダ・ヴィンチが告発しようとする巨大なる
陰謀を、覗き見る猫の視線に託し、
『エマオの晩餐』Ⓐ
未だ何も知らずに故郷でゆったりとした
時間を過ごすヤコポ自身の姿をのんびり
と寝そべる犬の姿に委ねています。
『エマオの晩餐』Ⓑ
それが一転して、Ⓑでは陰謀を知って
しまった半信半疑の様子をコチコチに
緊張した面持ちでおすわりする猫もどきの
『エマオの晩餐』Ⓑ 犬
子犬の姿にして、ヤコポの困惑する心
を表現しているようですが、
『エマオの晩餐』Ⓑ 猫
その姿を遠目から訝しげに品定めする
ような目つきで吟味する猫は陰謀
を企てる側からの回し者なのでしょうか
それともカトリックのいう悪魔の使い
そのものなのでしょうか
いずれにせよ、復活したイエスと二人の
弟子との関係をヤコポはどのように描写
しようとしていたのか
『復活』を果たしたイエス
Ⓐでは右の弟子の足もとに寝そべる犬
(秘密を知る前のヤコポ)が描かれていて、
左の弟子の椅子の陰から様子を覗き見る
猫の姿と黒っぽい壺が不自然にも、
最前面に唐突に置かれています。
この壺とイエスの羽織るローブマント
が同系色であることに注意してください。
Ⓑでは同色の衣装にほぼ同じポーズの
右の弟子の足もとで寝そべる犬が消え、
そこにイエスのマントと同色の壺が
その代わりとして置かれています。
そして、
右の弟子の椅子の背後には件の壺と
子犬を監視する猫を描いています。
『エマオの晩餐』Ⓑ 猫
壺はイエスの復活を象徴する
洗礼盤(灌水用)を暗示するもので、
Ⓐでは中央のイエスの正面で左右の
二人の弟子と犬と猫とのちょうど中間に
置かれていますが、
Ⓑでは秘密を知る以前のヤコポを暗示
する寝そべった犬のいた場所へと移動
させられています。
このⒶⒷでの壺の色合いがそれぞれ
イエスのマントと右の弟子のローブの
色と同系色なのは偶然ではありません。
壺が象徴する「洗礼」を介して
つながる師匠筋と弟子の関係といったら、
『キリストの洗礼』ヴェロッキオ工房
洗礼者聖ヨハネとイエスの
イエス・キリスト
洗礼者聖ヨハネ
他に誰がいるというのでしょうか
ヤコポ・バッサーノはダ・ヴィンチが描いた
『最後の晩餐』を観て、顔と手だけの
登場のトマスに一計を案じます。
ヘロデ・アンティパスによって斬首された
洗礼者ヨハネのメタファ(暗喩)が
『洗礼者ヨハネの斬首』 カラヴァッジョ 1608年
そこに隠されていると直感したわけです。
その時でした。
「あなたがたのうちの一人が
わたしを裏切るでしょう」
という声が聞こえたのです。
それだけではありません。
「裏切者はユダではない」
「私の目の前にいるこの男だ」
声の主は指を立てるトマスでした。
つまり、それは、トマスに暗示される
洗礼者聖ヨハネの告白 ・・・
『洗礼者聖ヨハネ』 1513-1516年
ユダに仮託されたダ・ヴィンチ自身の
苦悩とトマスおよび大ヤコブに暗示
される聖ヨハネの告発だったのです。
この壁画は
虚構に彩られたイエス・キリスト
と聖母マリアの大罪(カトリックの陰謀)
を糾弾するダ・ヴィンチの叫びだと思うと、
急に空恐ろしくなったヤコポ・バッサーノは
慌てて帰途についたというわけです。
以後、地元であるヴェネツィアの元首から
のたっての依頼による肖像画制作(1577年)
までの44年間、バッサーノ・デル・グラッパ
から一歩も外へ出ようとはしませんでした。
ということで、
そのようにな仮定を前提にしたとすると、
『エマオの晩餐』Ⓐ 『エマオの晩餐』Ⓑ
『エマオの晩餐』ⒶⒷのあとに
制作した『最後の晩餐』における
様々な疑問の答えが導かれてきます。
『最後の晩餐』ヤコポ・バッサーノ画
中央にある壺と足洗用のたらい桶に
丸まった姿の犬とともに、こちら(鑑賞者)
を見つめる猫の思惑とか ・・・
『エマオの晩餐』ⒶⒷでの左右
の弟子たちの身振りや手振りと、
『エマオの晩餐』Ⓐ
『エマオの晩餐』Ⓑ
『最後の晩餐』における手前左に
座る男のポーズと
『最後の晩餐』左部分
ユダであるとされる手前右の男との
類似(逆転)するポーズの謎とともに
『最後の晩餐』右部分
大皿に盛られた子羊の頭に片っ方の足の
意味とダ・ヴィンチの『最後の晩餐』
での首から上だけの付け足しの如き登場と
なったトマスの人差し指の謎が氷解
することになるわけです。
ヴェロッキオ師弟による共同制作とされる
『キリストの洗礼』での妙なかたち
の黒い鳥は『エマオの晩餐』Ⓐでの
右上のサイドバーに止まっている黒い鳥や
『エマオの晩餐』Ⓐ ヤコポ・バッサーノ画
哀れにもローストにされて運ばれてくる
『エマオの晩餐』Ⓑにおける皿に
乗った成れの果ての姿かもしれません。
『エマオの晩餐』Ⓑ 大皿の料理
そして、
食卓の上の卵にはもっと別の深い意味
が込められているのかもしれませんが、
『エマオの晩餐』Ⓑ 皿の中身
少なくとも『キリストの洗礼』という
タイトルにしてはどう見てもイエスよりも
洗礼者聖ヨハネの方が目立ってる
ようなのです
介添えの天使の視線の先には洗礼を
施す洗礼者聖ヨハネがいますし、
白い鳩が見つめるのもイエスでは
なく、明らかに洗礼者聖ヨハネに
その視線が注がれていますね
ところで、
この図(鳩の目と光線)はまるでポントルモ
の『エマオの晩餐』に描かれている
「プロビデンスの目」のようじゃが、
『エマオの晩餐』ポントルモ画
これこそが、
「まさに陰謀論じゃな !? 」
「さあ、何のことかしら ・・・ 」
(しょうもな ・・・)
余談はさておき、
ヤコポは死の間際に後継者である長兄
のフランチェスコを枕元に呼び寄せて、
その秘密の「罠」を打ち明けます。
ヤコポの工房で弟のレアンドロとともに
画家としての薫陶や指導を仰ぐなかで、
師匠である父ヤコポのサジェッションを
受けて仕上げた『最後の晩餐』や
『最後の晩餐』フランチェスコ・バッサーノ
『最後の晩餐』レアンドロ・バッサーノ
『最後の晩餐』レアンドロ・バッサーノ
『ノアの箱舟に入る動物たち』
『ノアの箱舟に入る動物たち』 ヤコポ・バッサーノ
(The Entry of the Animals into Noah's Ark)
『ノアの箱舟に入る動物たち』(部分)
『ノアの箱舟に入る動物たち』 レアンドロ・バッサーノ
(Animais Entering Noah's Ark )
にそのような隠された意図があること
を知ったフランチェスコはヤコポの死の
数か月後に自ら命を絶ってしまいます。
純粋に「神」を信じていた彼には、
耐えられないほどの衝撃があったと
いうことなのでしょうか
結局のところ、
三男レアンドロにはその秘密の内容
は継承されずに、バッサーノ家三代の
画業も廃れることになるわけです。
その後、ヤコポ・バッサーノの他にも
ルーベンス や シャンパーニュ
などの感性豊かな画家たちの出現に
より、その秘密は断片的ながら
も受け継がれることになるのですが、
それは後日の話といたしましょう。
バッサーノ親子によるダ・ヴィンチの
『最後の晩餐』における秘密の
暴露の一端については、
『ダ・ヴィンチの罠 帰納法』
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/528.html
『ダ・ヴィンチの罠 ピエタ』
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/527.html
『ダ・ヴィンチの罠 告発者』
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/526.html
などを参考にしてみてください。
今回もまた、
予告内容からはほど遠い展開ですが、
演繹(えんえき)するための地固めと
しての前提づくりということで、
ご了承の由、宜しくお願いいたします。
今年も残り1時間少々となりました。
来年に向けて、
… to be continue !!
どうぞ、良いお年を ・・・
・・・ って、おいおい、
『エマオの晩餐』Ⓐ 猫
『エマオの晩餐』Ⓑ 犬
『エマオの晩餐』Ⓑ 中央部
『エマオの晩餐』Ⓑ イエス
『最後の晩餐』の猫と『エマオの晩餐』Ⓑの猫
これは何のための
(印象操作でしょうか)