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透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 替え玉

  マラキ以来、約400年の間、イスラエルには預言者が
現れませんでした。

 ところが、あるとき、

 突然として「洗礼者」と呼ばれるヨハネが登場します。

 預言者に特有のオーラと例外的な権威に加えて独特な
威厳を放っていたヨハネは「今や待ち望まれていたこと
が起きようとしている」として宣教を始めます。

     
  『洗礼者ヨハネ』サンドロ・ボッティチェッリ

 神は『旧約聖書』で与えた約束に従って救いの御業を
実現しようとしている。「神の御国は近い。それゆえに
皆が悔い改め、すぐそこまで来ている御国を迎え入れる
用意をしなければならない」ということを洗礼者ヨハネ
は強調し、叫んでいたわけです。

 ユダヤ人たちは皆、ここで洗礼者ヨハネが何を問題に
しているのかを知っていました。

 「もしかしたら洗礼者ヨハネは神から遣わされた本当
の救世主(メシア)かもしれない」と、彼らが考えたと
しても不思議ではありません。

 そのことを問われると、

 洗礼者ヨハネは「自分は救世主(メシア)ではない」
と否定します。


   『洗礼者ヨハネとパリサイ人たち』 James Tissot chinosiokonan.com

 洗礼者ヨハネが、その問いに答えている『新約聖書』の
箇所は『ヨハネの福音書』1章19-24節にあります。

 エルサレムのユダヤ人たち(パリサイ人)が、祭司や
レビ人たちをヨハネのもとへ遣わして「あなたは、どなた
ですか?」と質問させました。

 ヨハネは、「わたしはメシアではない」 「では何ですか。
あなたはエリヤですか」 「違う」 「あなたは、あの預言者
なのですか」 「そうではない」というやり取りが続きます。

 ここでの「あの預言者」とは、モーセが語った預言者
のことです。

 あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中
から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。
彼に聞き従わなければならない。

       (申命記18章15節

 しかし、これも 「そうではない」と否定します。

 ここで、ヨハネが否定する言葉に注目してください。

 最初は、「わたしはメシアではない」 と否定しますが、
次には「違う」と言下に応じ、最後は 「そうではない」
と答えています。

 この微妙なニュアンスの違いに気づいてください。

 つまり、ヨハネが自分のことを語るのを躊躇っている
様子が窺えるのです。

 正確に言えば、 

 「わたしは、皆が考えるようなメシアではない」という
意味で否定したわけですし、エリヤではないし、モーセ 
の言う預言者でもないわけです。

 強いて挙げれば、

 救世主(メシア)の存在意義と神の御国について語り
たかったわけで、それらの証言をしたかったのです。

 そのことは、自分の弟子たちが、イエスに付き従って
行くのを止めさせたりしなかったことにも現れているし
、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」という 
後述する『ヨハネの福音書』 3章30節の言葉からも推察
することができますが、躊躇した理由(わけ)は、

 ユダヤ人たち(パリサイ人)が、民衆の耳目を集める
洗礼者ヨハネの人気に探りを入れて来たからです。

 そこで、

 ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて答えます。


      預言者イザヤ wikipedia

 「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐ
にせよ』。と」  ・・・

 ヨハネは自分を「声」だと。 主の道をまっすぐにせよ、
と荒れ野で叫ぶ声だと言ったのです。

 これは、預言者イザヤによって、

      
     火で唇を神聖にする預言者イザヤ
       (ベンジャミン・ウエスト画

 こう言われるその人であるとしたうえで、その姿は
かつてイスラエルの地に現れた大いなる預言者エリヤ
を彷彿させるものとして、

    
   『エリヤ』 ホセ・デ・リベーラ画

 「見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、
      あなたの道を備えさせよう。

  荒れ野で叫ぶ者の声がする。

 『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』」

 この使い人、その使者こそが誰あろう、大いなる
預言者エリヤ の再来たる洗礼者ヨハネであると
したわけです。


    『洗礼者聖ヨハネ』 1513-1516年

 しかしながら、

 「エリヤなのか?」と訊かれて「違う」と言下に否定
したはずの、そのエリアの再来であるとしたのは・・・

 それは人間ではなく、「声」ですから、すぐに消えて
しまって残らないものだからです。

 「声」を聴く気のない人々は、さっさと去ります。

 立ち止まって聴いて、さらに心の内に留める人なんて
果たしてどれだけいるのでしょう。

 穿ってみれば、

 このヨハネの答えは、質問者に対してというよりも、
読み手に対する恣意的な誘導にも読めてしまいます。

 ヨハネにはなんの気負いもなく、神から示された役目
を淡々とこなしているように思わせる仕掛けに見えます。

 いずれにしても、

 質問者たちには理解できない、主の前に謙遜である者
の証しがあるようなフレーズに仕上げていますよね。

 『ヨハネの福音書』における洗礼者ヨハネはイエスの
証人です。洗礼者ヨハネは彼のもとに集まった弟子たち
にイエスを「神の子羊」であると紹介します。

     (ヨハネの福音書 1:36)

    
      出典:muragon.com

  見よ、世の罪を取り除く神の小羊
     (ヨハネの福音書 1章29節)

  
      出典:blog.livedoor.jp

 洗礼者ヨハネが、来るべき救世主(メシア)はイエス
である事を語ったとされる次の日に、イエスは再び姿を
現します。

 こちらに歩み寄る姿を眺めながらヨハネは叫びます。

 ここで、再びヨハネは「見よ。神の子羊」とイエスに
ついて証言します。


           生贄にされる羊 webchapel.jp

 ヨハネの傍らにいた二人の弟子は、それを聞きイエス
の後を付いて行くところから、イエスの宣教活動の話が
展開されていくのです。

 やがて多くの者たちがイエスの弟子になっていきます。

 アンデレ、ペテロ、フィリポ、そして、「福音書記者」
のひとりであるヨハネも、洗礼者ヨハネの直弟子として
ヨルダンの渓谷にいたわけですが、彼らはいつのまにか
イエスの下に集まっていたというストーリーに組み立て
られていくのです。


    イエスに付き従う洗礼者ヨハネの弟子たち nihongobiblestudy.com

 この時、イエスの後を歩いていった弟子はアンデレと
この『ヨハネの福音書』の著者である使徒ヨハネでした。

 この二人がイエスの初めての弟子になろうとしている
場面です。

 後に続く二人に振り返って、イエスが問いかけます。
「あなたがたは、何を求めているのですか?」この言葉
には深い意味があるように思われます。

 洗礼者ヨハネからイエスについて聞かされていた事柄
だけでは満足できなかった二人は、イエスを直接知ろう
と言う気持ちで、イエスに近づこうとしていました。

 イエスはそんな彼らの心を慈しむまなざしで、質問の
形をもって彼らに話しかけたのではないでしょうか?

 彼らの答えは、39節にある「ラビ(先生)」とイエス
を呼ぶところに込められています。真理を教えて欲しい、
神に近づきたい、と言う気持ちからイエスを「ラビ」と
呼んで、「個人的にあなたを知りたい」と言う意味から
「今どこにお泊りですか?」と尋ねたのは、相手の家に
行くことが連絡を取り合う主たる方法だった時代の常套
ともいえる手段だったからでしょう。

 イエスは彼らを招いて、

 「来なさい。そうすれば分かります。」と答えます。

 イエスという人間を深く知りたければ、遠回りに分析
するのではなく、個人的にイエスの招きに応じて近づく
ことが重要ですよね。

 ところで、

 40節で、アンデレを「シモン・ペテロの兄弟」として
紹介していますが、


   天国の鍵を持つペテロ www.newlifeministries.jp

 シモンは後にイエスと出会ったときに、岩を意味する
「ペテロ」という名をイエスから授かり、イエスの一番
弟子として知られるようになり、やがては初代の教会の
リーダー(初代ローマ教皇)として立てられます。

 アンデレは、兄であるペテロの影に隠れてしまうよう
に思われがちですが、注意深く福音書を読むと彼が仲間
をイエスの所に連れてくるという、目立たないけれども
重要な役目を何度か果たしていることが分かります。

 イエスの宿泊先で彼と時間を過ごした結果、イエスに
対する確信を得たのでしょうか。

 まず、

 アンデレが兄シモンに対し、自分とヨハネが来るべき
救世主(メシア)に出会ったことを告げます。

 そして、

 アンデレは上手に説明できなくても、とにかくイエス
の元に連れて来ることができれば、シモンなら理解する
だろうと思ったのか。シモンを引っ張ってでもイエスに
会わせようしていた様子が想像できます。

 シモン(ペテロ)とアンデレ、そしてヨハネも、この
時点では漁師をしていた手前、専業でイエスに付き従う
姿勢ではなかったようで、のちにイエスが、再度彼らに
呼びかける場面が他の福音書で確認できます。

(マタイの福音書 1章16-20節、ルカの福音書 5章11節)


  ペテロたちを弟子にするイエス www.newlifeministries.jp

  次にイエスは直々にフィリポという青年を見つけて、
自分について来るように呼びかけます。

 この時、フィリポはイエスと面識があったのかどうか
はわかりません。初対面であったなら尚の事、フィリポ
の心に何が起きたかは、実に興味深いものがあります。

 弟子たち一人ひとりが、このイエスという名の人物を
信頼してすべてを捨ててついて行く決心をする事は常識
からみると、大きなリスクを伴うことであると言えます。

 しかし、聖霊が心に働いてくださったので、この方が
神から来られた方である、信頼できる方である、ついて
行くべき方であると理解できたのかもしれません。

    (第一コリント 2章14節、12章 3節)

「ヨハネ伝の学び 1章35∼44節」より抜粋引用しました。

 こうして、

 その後、イエスも洗礼者ヨハネから独立して、独自の
宣教活動を始めるようになるのですが、洗礼者ヨハネの
共同体(教団)よりも彼らの方が人気を博すことになる
わけです。

 その様子に弟子たちはヨハネに「何とかして下さい」と
頼みますが、洗礼者ヨハネは彼らに答えます。

 「花嫁を迎えるのは花婿だ。 花婿の介添人はそばに
 立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると 大いに喜ぶ。
 だから、私は喜びで満たされている。  あの方は栄え、
 私は衰えねばならない」

    (ヨハネの福音書 3章29-30節)


     イエスの洗礼 www.reiwa-revival.com

 『ヨハネの福音書』における洗礼者ヨハネは徹頭徹尾
において徹底したイエスの証人なのです。

 しかしながら、他の福音書を見ると、洗礼者ヨハネの
別な姿が記されています。

 ところで、 

 最初にイエスについていった二人の弟子の内の一人は
アンデレであり、もうひとりは福音書著者のヨハネ自身
と思われますが、彼は自分の名前を挙げずに話を進めて
います。彼らはもともと洗礼者ヨハネの弟子でした。

 洗礼者ヨハネはアンデレたちに、「イエスが神の子羊」
であることを示し、彼に付き従って行くことを勧めます。

 名声を求めず、真理を求める洗礼者ヨハネの度量や器
の大きさを見る思いがします。 

 さて、

 イスラエルに実際に起こった出来事、『旧約聖書』が
証しているすべての出来事について、神には自分の計画
と目的がありました。神はアブラハムをその生まれ故郷
から召し出し未知の旅路へと連れ出しました。その目的
はアブラハムが「神の民」全員の父となるためでした。

 神は民をエジプトから救出し、シナイ山で彼らと契約
を結びます。それが「シナイ契約」でした。

   
 『モーセの十戒』 meigata-bokushin.secret.jp 

       モーセと十戒の石板 jp.freepik.com 

 神は彼らに律法(十戒)を与え、彼らが他の諸国民に
対して模範や証しとなるようにしました。神は離反した
彼らを試みや捕囚によって懲らしめます。

 しかしその一方では、彼らを守る御手を彼らの上から
決して取り去ろうとはしませんでした。

 神は預言者たちを「神の民」のもとへ遣わしました。

 すべての預言者たちが伝えたメッセージは「来るべき
ある時」を指し示すものでした。

 その時が来ると、神は新しい契約を立て、「神の民」
を解放し、正義を護る王を彼らに与えて「ダビデの座と
その王権は大きく平和は限りない」ことを実現します。

     (イザヤ書 9章6節より)

 『旧約聖書』に含まれる一連の預言書を知悉していた
人々はさらに大きい約束の存在を知っていました。

 それは「シオンから律法が発せられ、エルサレムから
主の御言葉が出て、イスラエルはすべての民の光となる」
という約束でした。   (イザヤ書 2章2-3節)

 神が御民になさったすべてのことは、世のあらゆる民
に訪れる救いをその最終目標としているのです。

 つまり、


   キリスト教最大の伝道者パウロ www.lets-bible.com

 それが「新しい契約」なのだとパウロは強調します。

 エレミヤは、その31章31節において「新しい契約」に 
ついて語ってます。

「主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家と
     ユダの家とに新しい契約を立てる日が来る」

      (エレミヤ書31章31節)

 この「新しい契約」は、イエスによる十字架の贖いに
よって実現したとパウロは続けます。

 イエスが十字架で死んだ時に、「古い契約」は終了し
「新しい契約」が発効したというのです。

 イスラエルの民の不従順の結果、神の恵みと憐れみが
イスラエルの民から異邦の民にまで広げられたのです。

    (ローマ人への手紙11章30‐32節)

 イスラエルが捕囚から解放されるのと同様、私たちが
神の子とされることも、まさに一方的な神の恵みです。

 つまり、

「新しい契約」とは、律法遵守を条件とするシナイ契約
と比較して、まったく別の原理から成り立つ契約であり、
それは「恩恵の契約」となっているのです。

 しかし、『旧約聖書』において「新しい契約」という
いう文言が出てくるのは『エレミヤ書』だけなのです。

     

 『新約聖書』において、主イエスを信じる者は誰に 
でも、神の子となる資格が与えられました。 

     (ヨハネの福音書 1章12節)

 現在の私たちも、その恵みに与っているわけですが、

  「新しい契約」は、イエス・キリストの十字架上での
死を通してのみ成立します。

 『ルカの福音書』には、このように書かれています。 

 
           
「新しい契約」 www.bibleinfo.com

  「またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに
 与えて言われた、『これは、あなたがたのために与える
 わたしのからだである。 わたしを記念するため、この
 
ように行いなさい』食事ののち、杯も同じ様にして言わ
 れた、『このあなたがたのために流すわたしの血
 で立てられる新しい契約である』」  

      (ルカの福音書22章19‐20節)

 そして、同じ内容がパウロによって引用されます。

 食事の後、杯も同じようにして言われた、「この杯は
わたしの血による新しい契約です。 これを飲むたびに
わたしの記念として、これを行いなさい」

  (コリントの信徒への手紙「1」11章25節)

 また、

 『マタイの福音書』では、こう書かれています。

 「これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人
のために流すわたしの契約の血である。」

      (マタイの福音書26章28節) 

 さらに、

 「これは、多くの人のために流されるわたしの契約の
血である 」   (マルコの福音書14章24節)


         聖餐式の制定 (過ぎ越しの食事)tomoshibi.or.jp

 これをもって、

 イエスが十字架上で死んだ時に、「古い契約」が終了
して、「新しい契約」が発効したというわけです。

 「新しい契約」は、イエス・キリストをとおしてのみ、
わたしたちが直接神に行くことが出来るという意味です。

 さらに、

 ただ「新しい契約」を通じてのみ、罪のゆるしがある 
として、

 「永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神に
ささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの
良心を清めて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える
者としないであろうか。それだから、キリストは新しい
契約の仲保者なのである。それは彼が初めの契約のもと
で犯した罪過をあがなうために死なれた結果、召された
者たちが、約束された永遠の国を受け継ぐためにほかな
らない」  (へブル人への手紙 9章14-15節)

 と、しつこいくらいに『新約聖書』に記しています。

 しかし、 

 これらはすべて、後付けのいつわり(欺瞞)や、卑劣
な誤魔化し、あるいは、まやかし(創作)の類であって、
真の救世主(メシア)はイエスではなく、洗礼者ヨハネ
なのだとダ・ヴィンチは思っていたのでした。

 「新しい契約」とは、替え玉による「取替え契約」で
あって、入替工事をしたにすぎないのです。

 本来なら、そこで真の救世主が到来して、世界が浄化
されるはずだったのですが ・・・ 

        

 ダ・ヴィンチが仕組んだ大いなる「罠」には、

  1⃣ 人類はによって、創造されたのでは
   なく、異星種との交配により、作られたこと。 

  2⃣ 預言されていた救世主(メシア)はイエスでは
   なく、洗礼者ヨハネであったこと。

  3⃣ キリスト教(ローマ・カトリック教会)が世界
   を腐敗させる元凶であるとの告発をすること。

  など、全部で3つ目的が隠されていました。

 そして、 

 いまさらながらに思うことは、すべての元凶は目的の
3つ目を誘発させたペテン師パウロの発案による洗礼者
ヨハネ・キリストとイエスの入れ替え事件にあって、

 つまるところ、その発端は、

 ヨハネ・キリストの「替え玉」にあったのです。 
   
       マジか!      www.pinterest.jp  


  (ええ !!    

 どうやら、彼はまったく何も、

 わかってはいませんな

  このようにして、   

 パウロが主導する「イエス・キリスト計画」は着々と
推進・実行されていったのです。


         イエス・キリスト計画 shiogamagrace.com

   
   キリスト教のイメージ(Photo Adobe Stock)出典:diamond.jp

 その結果が、現在の世界であって、パリ五輪の開会式
での失態的演出に見られる評価はまちまちでコメントが
難しいですが、多くの人々に違和感を覚えさせたり不快
な気分にさせたのは事実でしょうから、パリの五輪組織
委員会が謝罪する事態に発展したのも致し方ない出来事
なのかもしれません。


      ポリコレ風 LGBTQ+仕様のパロディ版 kenmin-souko.jp

 個人的には、

 このパフォーマンスの目的は、ギリシャ神話における
ワインの醸造や豊穣の神ディオニュソスにインスパイア
され、フォーカスしたものであって、盛大な祭り(祭典)
が主題というか、テーマとして演出されたものと思って
いるのですが、なにせ意地の悪いフランス人のすること
ですから、『最後の晩餐』がモチーフされていたのかも
しれませんね!

 せめて、


    『最後の晩餐』ポリコレ風 LGBTQ+仕様のパロディ版 note.com

 これくらいのパロディなら、きっと許されたのに ・・・

     ま、まさか、お前さん! 
 
 「〝替え玉〟じゃないじゃろな」
   
 
「きゃ、やだぁ、わたし LGBTQ+なのね!」
 
     そ、そっち なの?
 
 ・・・ って、おいおい、
  
  (なんじゃそれ) (ネタ間違いかいな!)
 
 いいえ、ネタの間違いでも、タネの間違いでもなく、
「替え玉」だったんですよ!
 
 そもそもの始まりが ・・・
 

           画像元: domani.shogakukan.co.jp
 
          なんでやねん!

   あーァ、ヨハネとイエスの関係が、

   
  バレてやんの!         う~む  (^▽^;)(^^ゞ 

 
  『幼児キリストと洗礼者ヨハネ』(貝殻の子供たち)ムリーニョ画

 『幼児キリストと洗礼者ヨハネ』(貝殻の子供たち)部分 ムリーニョ画

  … to be continued !!     

 
      聖母子と仔羊          ザカリヤとエリサベツとヨハネ

            獄中のヨハネと弟子たち wol.jw.org    

               画像元 e-kantei.net  
 
       symbol2 ダ・ヴィンチの推理は続きます。 
              

コメント一覧

小吉
全文読みましたが考えれば考えるほどよく分からなくなる。
本当の救世主がヨハネであれば、キリストのことをどう思っていたのでしょうか。
例えばバンドを組むとして、音楽の意志みたいのを持っている人がいるけれど、話し下手であんまり目立ちたくないのでカリスマ性を持っているイケメンのボーカルをバンドの「顔」にした。
みたいなことでしょうか。
「オレよりはあいつ代表にしたほうがいいよ」
「わかりやすいし」
で、その気になったキリストさんが死んでくれてまわりの弟子たちが「演出」してくれたのでしょうか。
それでペテロさんは「これで安泰じゃ」と思った影の支配者だったとか。
ううん。
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