静岡市なのだそうです。
何って、大地震の起こる確率ですが …
12月21日に政府の地震調査委員会(研究推進本部)が、
今後30年以内に震度6弱以上の揺れに見舞われる確率を
地図上で示す「全国地震動予測地図」の2012年版を発表
しました。
その結果、我らが透明人間たちの地元、静岡県の県都、
静岡市の確率は89.7%と引き続きトップを独走中です。
そう聞いたところで特段、驚くに値しないというのが大方の
静岡県民の偽らざる心境でしょう。
むしろ、2010年版に比べ、0.1ポイント低い数字が示された
ことの方が意外に感じられたほどなのですから …
地震に対する恐怖心がないわけでも危険を認識していない
わけでもありませんが、どこかで慣れっこになってしまうよう
な心理の醸成と散漫かつ緩慢となりつつある防災の意識に
再度の注意喚起の必要性を感じています。
もっとも、こうした予測は30年前にも、あるいは、もっと古い
時代からも指摘されていたもので、既成概念的な予測事実
となってしまっている所為なのか、耳タコ的な「オオカミ少年」
現象が見て取れるわけです。
予知や予測といえば、ルネサンス発祥の地でもあり、当時
の科学の中心地でもあったイタリアでの地震予知に対する
研究者の判断(地震の発生はないとしたが起きてしまった)
に有罪判決が下された事件は記憶に新しく、大地震の発生
を常時警告されているような静岡県民としては複雑な気持ち
にさせられます。
日本の地震学会では、「予知がもつ科学的・社会的意味の
検討をはじめた」 とも聞きますが、科学万能主義的な過信や
誤解に対する反省はあってしかるべきことかもしれません。
いずれにしても、提示された数字に一喜一憂することなく、
不断の備えと適度の訓練を欠かさないことが肝要なのです。
それが 「正しく恐れよう」 との警告なのでしょう。
なにせ 「天災は忘れた頃にやって来る」
ものですから …
ところで、
多くの動物は、恐怖を感じることはあっても、嫌悪感を抱く
ことはないとされています。
恐怖は差し迫った死に直面した際に生じる本能的なもので
、嫌悪は愛好や親近に類する好感に対しての相反する感覚
であると思われがちですが、将来生ずるかも知れない危険を
回避するための無意識的な感情のコントロールに 起因する
もので、対象物に対する比較・分析から生まれて自然選択に
よって進化してきた感情だと考えられているようです。
人間も熊もバッタリと出遭えば、互いに恐怖を覚えるけど
嫌悪することはないし、唐突に他人の排泄物を見たとしても
恐怖感はないが嫌悪する気持だけは否定できないかも
たとえそれが大好きな彼女のモノ だとしてもね …
Wikipedia によると、
嫌悪 とは、汚い物、食用に適しない物、伝染性がある物
、その他の点で不快さを催す物事に関連した感情である。
として …
嫌悪感 は、恐れ、怒り、悲しみなどと異なり、心拍数の
低下を引き起こすとしています。
さらに、身体的な嫌悪(不潔さなど)と道徳的な嫌悪に分割
できるかも知れないとして …
概要の項で、嫌悪感は食中毒を防ぐか、感染症のリスクを
低減できる傾向に起源を持ち、自然選択によって進化したと
考えられている 多くの場合、糞尿や人体からの分泌物、
解体された肉、昆虫などと結びついている 他の直感的な
感情と同様に、嫌悪感にも本能的側面と社会構築的な側面
があると書かれています。
要するに、
本能的側面としての命を脅かす可能性のあるものに嫌悪
する一方で、人によってはゴキブリなどの昆虫類や同性愛的
な指向者(ホモセクシャル)の人を嫌悪するわけで …
道徳的規範の違反に対して起きる明らかに合理的ではなく
感情的な反応(規範を破った人への嫌悪、処罰的な態度)を
指して伝統的概念による後天的な作用としているようです。
何か得体の定まらない複雑な感情で、先の地震学者たち
に対するイタリアでの有罪判決に違和感や拒絶感を抱く感性
もまた、広義にはそのなかに含まれる反応のひとつです。
つまり 嫌悪 は本能的な反応だけではなく育った環境や
個人的な体験等の学習効果による影響が色濃く反映される
感情なのです。
それでは、所謂(いわゆる) フェチ はどうなのでしょう
フェティシストたちが嗜好する物のなかには汚物や異物と
いった嫌悪するに値する対象が少なくありません。
「好き嫌いに是非もなし」 即興で作ってみた
透明人間2号 の言葉ですがタイトルとします。
好き嫌いに続く言葉は 「正否なし」 でも、「善悪なし」 でも
、「男女の違いなし」 でも、「神も悪魔も関係なし」 でもいい
のですが …
要は、「馬鹿と天才は紙一重」 と言われるよう
に、「好きと嫌いは紙一重」 ということでしょう。
事実、人が嫌悪感を覚えた時に大脳皮質の 「前島皮質」
と呼ばれる場所が活発に反応するそうなのですが、同時に
その場所は共感にも深く関与しているようで、共感と嫌悪感
という相反する感情はどうやら、「前島皮質」 で同時に制御
されているらしいのです。
これで、漸(ようや)く 納得です。
マザー・テレサは、「好き」 の反対は 「嫌い」 ではなく、
「無関心」 だと言いました。
対象となるモノに関心が向くから 「好き」 だとか、「嫌い」
だとかの感情が働くわけで、それらを突き詰めてしまえば、
「好き」 と 「嫌い」 は、結局のところ一緒のモノなのです。
共感するのも嫌悪するのも、好きも嫌いも、自分自身に
帰結する問題なのです。
自己嫌悪にしても、同類を嫌悪する気持も、自己愛から
派生したイメージとの相違の結果としての 「成れの果て」
みたいなもので、本来 理想 とする そうであるべき
大好きな自分から逸脱している自己の姿に失望している
だけのことなわけです。
それは、ともすれば、「痛み」 がいつしか 「快感」
に変わるプロセスのちょうど正反対にあたる状態に似ている
のかもしれません。
痛みが快感に感じられるメカニズムなどはわかりませんし
、シロウト考えでは単なる錯覚のなせる業としか思えないの
ですが、痛みの強さを測ることは可能なのでしょうか
神経を伝わる電気信号の強弱を測ることで可能と考えた
科学者もいたそうですが、神経を伝わる電気信号の強さが
痛みの強さと同じとは限りません。
末梢神経から脳に伝達される間にさまざまな要因で強弱
が発生するからです。
そもそも現代科学の粋を集めてみても、実際の診療現場
で抹消神経を伝わる電気信号の強さを測ることは技術的に
不可能である … と、静岡新聞の 『痛みよもやま話』
(12月18日付夕刊)に載っていました。
痛みは個人的に知覚される体験だから自己申告でしか
わからないし測りようもないわけです。
その意味からは、痛みも嫌悪感を生ずる対象物も個人的
なものである以上、予測は可能だとしても当たる保証のない
地震予知 と同じです。
お釈迦様の 掌(てのひら)から外に出られない孫悟空の
ようなものでしょうか
さて、
とりとめようのない今回の記事は、イタリアの地震学者
の自信過剰に灸を据える意図があったとも受け取れる
先の有罪判決と同罪なのかもしれません。
… ごっ、御免なさい
きょうが クリスマス・イブ だからですか
構成にサンタクロース(さんざ苦労する)なんて
これじゃあ、メリー・クリスマス じゃなくて …
Many(メニー)苦しみますだよぉ
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